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19-21



「……杯戸プライド?」
「ええ、手配は済ませてあります」

コナン君から工藤邸への滞在を勧められたことをどう切り出そうかと迷っていると、安室さんは涼しい顔で「ナナシさんの宿泊先はホテル杯戸プライドです」と先に言ってきた。ぽかんとする私に向かって、さらに類さんの分の部屋も確保しているのだと言うから開いた口が塞がらなくなる。咄嗟に何も返せず、ケトルの音に反応して部屋を出て行く安室さんの背を間抜けな顔で見送るしかない。……え?今日って家に帰れないの?というか、今日からずっと?

「ちょ、ちょっと待って、」

慌ててベッドから立ち上がるも、ぶかぶかのシャツの下からむき出しの白い生足が見えて自分でびっくりした。今更か。なんだか今になって妙に安室さんとしたことを実感して心が落ち着かない。焦りながら置いてあったスカートを素早くもない動きで履き、後を追う。多少ふらふらとした怪しい足取りでダイニングに入ると、気付いた安室さんが冷蔵庫の扉をパタンと閉めてこちらに近付いてきた。手を引かれてテーブルと揃いの木目の椅子に座らせてもらい、またすぐ向けられた背中の服の皺を目で追う。度重なる訴えのおかげかシャツを着てくれたのは良かったんだけど、今それはどうでも良くて。シンクに立ち、コポコポとマグカップに沸騰したお湯を注いではくるくると回す動作を遠目で眺めながら、彼が戻ってくるのを待ちきれずに口を開いた。

「い、いつの間に?どうして?」
「……あなたが僕の言うことを聞いてくれないので……というのは冗談で、事件の直後です」

カップの熱湯を上水と一緒に流しながら、振り向かずに安室さんが呟く。本当はすぐにホテルを確保して移ってもらうつもりだったが、処理が立て込んでいてすぐには動けなかった、と。その間にさっさと脱出した私と類さんは工藤さんのお家にお邪魔したわけだけど、それは始めから予想が付いていたらしい。……いや、すぐに動けなかったと言うが昨日の今日でホテルを手配して、見張りの人員も準備したならむしろ驚くべき早さである。ひとりで家に帰すわけにはいかないというのも当然あるだろうが、組織の人間……有川と接触した私達は当面は公安の監視対象というわけだ。事情聴取でペラペラ喋られるのは困るので一旦は離脱を許したが、最初から私達を見逃す気はなかったということか。それに類さんはあの人の婚約者だった人。目の届くところに置いておきたいという思惑は理解できる。

「でも……」

杯戸プライドってどの辺にあったっけ、と首を傾げる。仕事のこともあるし、通いにくい場所だったら困ってしまう。その前に仕事には行かせてもらえるのだろうか。巻き込まれるつもりはなくても、何かあると気付きながら類さんについて行ったのは自分だ。多少の不便は仕方ないと思っているが、まさか公安の監視対象などというどこぞの宗教団体の幹部みたいな扱いになるとは思わなかった。すべては悪の組織のせいである。
安室さんが湯気の立つマグカップを手に再び近付いてくる。コトリと目の前に置かれた器に注がれたミルクティーに視線を落として、向かいの椅子を引く彼に礼を述べた。

「いくら暇なFBIと言えど、常にあの家にいるわけではないでしょう。それこそ何日か留守にすることもあるかもしれない」
「……それは、」

言い含めるような口調に、彼に目を向ける。内容に棘はあれど表情からは波立つものは感じられなかった。あの家とは工藤邸のことだ。工藤邸の何者かが私達に滞在を勧めるということは簡単に予測していたのだろう。それで余計に機嫌を悪くしていたのかもしれない。「不在の日は危険」ともとれる発言から、真っ向から赤井さんの能力を否定していないことが分かる。瞬きをしてカップをそろりと両手で包んだ私に、安室さんはさらに続けた。

「それに、ここは日本です。日本の警察を頼るべきだ」
「…………」

真正面から見据えてくる彼の目力に押されて私はこくこくと頷いた。確かに、彼らFBIは自国のルールをかなぐり捨ててまで日本に乗り込んできている。詳細には知らないが、その目的は組織絡みの厄介ごとなんだろう。いざという時……例えば彼らの目的と私達を天秤にかけるような事態が発生した場合、助けてくれるとは限らない。思えば直感で信用してしまっているけれど、そういう時に赤井さん個人がどんな行動を取るのか、それを知るほど仲良くもないのだった。……安室さんが意外と冷静にずばりと言ってくるのでびっくりした。赤井さん絡みのことだから怒りを滲ませて説得してきそうなのに。公安のお兄さんモードというやつなのか。

「それを飲んだらホテルまでお送りしますよ」

反論しなかった私を見て、安室さんは少しだけ目元を緩めた。なみなみと注がれたミルクティーは熱くてなかなか飲み干せそうにない。ふーふーとマグの中身に息を吹きかけながら、ふと疑問が頭を過ぎって視線を上げる。

「……じゃあ何でここに連れてきたんですか?最初からホテルで良かったんじゃ……」

公安で押さえている部屋があったのなら、事前にセキュリティチェックでも何でもできたはず。わざわざ自宅の場所をばらすこともない。……恐怖を煽る効果は抜群だったけど。すると安室さんは瞬きをして、テーブルに頬杖を突いた。

「それはまあ……見せられるものが他になかったので」
「見せる……?」

何か見せられただろうか。思い当たる節がない。何のことを言っているんだろう。むしろこの家、物がなさすぎて私は何も見てないんですけど。リアルに安室さんの裸しか見てない勢いなんですけど。私がちびちびと紅茶を飲む様子をじっと眺めて、彼が頬杖のまま目を細める。

「あなたは絆されやすいし情深い。……いつ誰の元へ行くか分かったものじゃない」
「ッ、ごほ……っ」
「唯一確かなのは、こうしている間ナナシさんは僕から離れないってことですよ」

液体が変なところに入って私は咳き込んだ。それ、本人に言うことなの?言った男は平然としていて、むしろ「急にどうした?」みたいな顔で見てくる。
……どうすればいいかずっと考えていた。と、彼は言った。体を重ねて、秘密を共有するのなら確かにホテルでもどこでもよかったんだろう。けど、それだけでは不十分だ……と考えたのだ。彼の正体に気付いていて、「絆されやすくて情深い」らしい私をより間違いなく繋ぎとめる方法。それが先ほど口にしていた「見せられるもの」なわけだ。家に招き入れるということ。それは彼にとって本当に特別なことで、見せることのできる唯一の誠意だった。私がそのことに気付くかどうか、むしろ気付く可能性は低いが、それは大して重要ではないんだろう。
やることをやっておいて何も言わないとか、そんなふざけた男は万死に値する。が、好きも愛してるも彼にとっては裏切りの言葉である。……いや、ただ口にするのなら誰に咎められるわけでもないだろう。告げてしまえば女は安心する。けれどその先がないことを男は知っている。一時的に甘い言葉を吐いても、たとえそれが本気だったとしても、結局この人の一番は最初から決まっているのだ。これだけの男ならば一番じゃなくても、なんて女も多くいることだろう。けれど彼は、それを許容できる器を持ち合わせていない。そこまで器用ではないのだ。情が深いからこそ許せないのか、愛すなら全てをかけてと、そういう人なのかもしれない。知るすべはないけれど。
…………え、何それ、表面的に見れば結局体だけを求める最低な男じゃないか?いや、本当はそうじゃないんだって女に分からせてくるあたり本当に頭がいいというか、ずるいというか。くそ、自分も同じようなことをしてきたから怒れない。過去の男と重ねてはいけないと学習したにも関わらず、油断すると顔を覗かせる男が、そっと私の耳元に囁いてくる。

……そんな男なんて捨ててやればいい。
それができなかった女がどうなったのか思い出してみろ、と。

この人が決定的な言葉を口にしないのは、ある意味で誠実なのだということを私は知っている。夢の中で夕暮れに消えた彼女は……どう思っていたのか分からない。きっと「俺」を恨んでいただろう。
私は彼女のようにはならない。そうなるにはあまりにも男の事情を知り、そちら側に立ちすぎているから。けどやはり私は、ふつうの幸せを望む私は、どこかで区切りをつけなきゃならない。この人の仕事に区切りはないのだから、私がやらなきゃいけないのだ。

マグカップの中でさざ波立つ優しい色合いの液体から豊かな香りが立ちのぼっている。すぼめていた唇を寄せてひと口含んで、なめらかに舌に絡みついたアッサム特有の味わいは店で飲むものとは違うような気がした。少しだけ付け足したミルクが元からコクのある茶葉の風味をちょうど良いまろやかさに変えていて、こくりと飲み込むと体中に染み渡るようでほっとする。喉から鼻に抜ける濡れた葉の香りに小さく息を吐きながら、私は目の前で相変わらずじっとこちらを観察している男を見た。

この人から向けられる感情に対してそう思うのか、それとも、根源が私の中にあるのかは分からない。

痛い。愛、のようなものが。

誰の何が痛むのか。



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