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19-17



70.5867……それが“八坂”が死の間際、降谷という人間に残したメッセージだった。彼の本名は私も知らない。疲れたから眠りにつくのだと、起きたら指輪を渡したいのだと……少女にそんな話をした男は、死を予感しながらどんな気持ちでそれを口にしたのだろう。いかに覚悟があろうとも、恋人を残して逝くことはさぞ無念だったに違いない。類さんの話では警察官であることも隠していた。公安である自分が秘密を抱えたまま殺されれば、自殺で片付けられると八坂も分かっていたはず。その死は結婚の約束をした恋人に残酷に伝えられる。だから八坂は、暗号の解読に必要な言葉に自分自身の心を閉じ込めたのだ。類さん本人に伝わらなくてもいい、誓い合った気持ちは本当だったのだと、偽りでないものが確かにあったのだと……少女を通じて誰かに伝えたかったのではないだろうか。

「なるほど……八坂があの少女と接触していたとは盲点でした」

するりと布擦れの音がする。視界に広がっているのはここ3時間くらいずっと見続けている褐色の肌の色。改めて思うのは、本当にこれが天然で地肌なんだな……髪も金色のこれが地毛なんだな、ということであるが、そんなことは今どうでもいい。真面目な顔をする男に向かって、私は切り出した。

「あの……」
「はい」
「ベッドから出ませんか?……それと、服を着てください」

横になって腕を曲げ、手枕に頭を預けてこちらを見ていた安室さんは2回ほど瞬きをした。何を今更という顔だ。……一応言っておくがずっと事に及んでいたわけではない。その証拠にいま彼は下に黒いスラックスを履いているし、私も借りたTシャツを着ている。あのあと安室さんの気が済むまでというか、私が弱り果てるまで何回も抱かれて見事に気を失ったわけだが、この人は目を覚ました私を覗き込んで「一緒にお風呂に入りましょう」などというとんでもないことを言ってきた。もちろん断固拒否したしイケメンに目潰しをする勢いで抵抗したので実現はしなかったが。結局、色々とべたべたしてあれだったので浴室で崩れ落ちながらも何とかひとりでシャワーを浴びた。どうして私がこんなに頑張っているのか腑に落ちない。そして、なぜそんなに元気なのか謎だが、安室さんはお風呂上がりに軽くサンドイッチなんか作ってくれて、食べ終わったら私をせっせとベッドに戻して、今、この状況だ。へとへとな私が寝ているのは良いとして、安室さんはそれを隣で横になりながら眺めている。やりすぎたと反省でもしているのかと思えばそんなこともなさそうだった。ただ、そこに少し前までの燃え上がるような劣情を湛えた瞳はない。お風呂に入るというのも、どうやら私を純粋に介護してくれる気だったようだ。一緒にお風呂とか、女心が分からないやつだ。鍛え上げられた美しい肉体が嫌でも先ほどの行為を思い出させてくるので、上に何か着て欲しい。しかし暑がりなのか精神的にも弱らせにきているのか、そんな私の願いはスルーされた。ベッドから出ようという提案に、彼はやれやれと私を見つめる。

「でもナナシさん、動けないでしょう?」
「誰のせいだと思ってるの?」

間髪いれずに非難した私を眺め、彼が笑う。いや、何でフフッて感じで笑ってるの?唖然とする私をよそに、安室さんは目を閉じて何事かを思案している。70.5867……と例のメッセージを呟いていることからして、解読を試みているようだ。数字そのものがパスコードか何かになっているのかとも思ったが、数字の間におかしな点が入っているし、最初の数字から私が導き出したこの答えではまだ不完全のようだ。ここからまた頭を捻る必要がある。しかし、確かに一刻も早く“八坂”の伝言を伝えたかったけれど、ベッドの中でだなんてさすがに予想外すぎた。じいっと彼を見つめてもベッドから出るつもりはなさそうなので、私は諦めてうつ伏せに転がる。シーツに頬杖をついて、端に放られていた枕を引き寄せて……もうヤケだ。

「70.5867って、何かのコードにしては不自然ですよね」
「ええ……八坂は慎重な男でしたから、そのままということはないでしょうね。パスコードとして使用するならですが……」
「……70で点が打ってあるってことは、そこに意味があるのかも」
「乗り物の系統、道路、スポーツ選手の背番号……しかし単に70だけでは範囲が広すぎます」

黒くてふかふかした枕をぎゅっと抱き込んで、ちらりと安室さんを見る。安室さんもこっちを見ていて、目が合うと彼は少しだけ目を細めた。

「じゃあ、純粋に数字の70?」
「数字の70……weird number……つまり擬似完全数でない最小の数字が70です。ただ、あいつは数学が苦手だった」
「…………」

70と聞いてなかなかそこに結びつく人はいないだろう。というか、何を言ってるのか一瞬分からなかった。机に噛り付いて頭に入れたことよりも経験がものを言う職種だとは思うけれど、それは置いといてこのひと、すごく勉強できるんだろうな……と思わざるを得ない。私はぱちくりと瞬きをして、うーん、と唸る。

「他には……何かの70番目とか……?」
「数字的に順位や等級ではなさそうですね。70番目まで割り振られているものといえば……」
「原子番号?」

おそらく他の分野にも第70番目は存在すると思うが、ぱっと思いつくのは原子番号だ。水素から始まる周期表をテストのために覚えた、なんて人もいるだろう。私の言葉に頷いた安室さんの口からはすらすらと該当の元素名が出てくる。

「原子番号の70番目はytterbium……記号ならYbです。けど、ytterbiumに数字の5867を付け足しただけだと些か単純だな……」
「Ybじゃなくて、大文字でYBならyottabyte……つまり10の24乗という意味もありますね」

その言葉にぴくりと眉を動かした安室さんは手枕を崩し、ごろりと体勢を変えて私と同じうつ伏せになった。何故か私がぎゅっとしている枕を奪おうとしてくるので死守していると、そのうち諦めた大きな手に髪を撫でられる。……完全に事後の恋人同士がじゃれあっている風だが、会話の内容は甘さのカケラもない。記憶を探り当てるかのように、彼の視線が左上へと流れるのを見た。

「24……原子か……」
「何か分かりそう?」

安室さんは履いていた黒いスラックスからスマホを取り出して、指で操作し始める。その目に映り込むブルーライトを眺めていると、スマホをこちらに見えるように差し出してきたので、肘を彼に寄せて遠慮がちに覗き込んだ。何かを検索しているようだ。さっきよりも密着した距離で、長い指が画面をトンと叩く。

「1日は24時間、1秒とはセシウム原子が91億9263万1770回振動する時間だと定義されています」
「……それで?」
「数年前、ytterbiumを用いた世界一正確な原子時計がニュースになっていたのを覚えてますか?」
「あ……確か、発表したのは日本の研究施設でしたよね。……その時計に関係が?」

おそらくは。そう言ってうつ伏せの体勢のまま、私よりも少し高い位置からこちらを覗き込むその青い瞳と視線が交わる。ここまでくればこちらのものだとでも言いたげな自信ありげな顔だ。

「……ただ、その時計に鍵があるとすると少々専門的すぎる」
「そうなんですか?」
「ええ……専門的な知識が必要になる暗号では、第三者の目に触れる危険性が高まってしまいますから。ここはもっと単純に……」

原子番号70。ytterbium。それを用いた世界一正確な時計。
安室さんは顎に手を当てて一瞬だけ逡巡し……元からふたりしかいない部屋で、私にだけ聞こえるような声量で囁いた。

「The most accurate clock in the world……頭文字と残りの数字を合わせてtmacitw5867。7桁以下のコードではブルートフォースであっという間に解析されてしまう可能性が高い……英数字の11桁ならパスコードには適していますね。……ナナシさんはどう思いますか?」

僕的には、これで合っていると思うんですけど。淀みのない言葉が唇から密やかに滑り出す。
彼が手にしているスマートフォンの画面には、基盤の上に複雑に組み上げられた時計らしきものが映っていた。



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