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誰かの視線


横断歩道を渡るとそこからはずっとまっすぐに進む。お昼を食べる予定の公園を右手に見ながら一旦通り過ぎて、駅のある区画でお昼を購入した。戻って公園のベンチに座ったのは、警察庁を出てから三十分経っていないくらいだったと思う。曜日に関係なく人が多いイメージだったが、このポイントは空いていてベンチも選び放題だった。
青い空の下。豊かな緑のすぐ向こうにそびえ立つビル群を眺めながら、並んで座るのは高そうなスーツを着た男の人。今更だけど、こんなに堂々とここにいて大丈夫なのだろうか。でもまあ、組織を抜けたということは何かが一区切りしたんだろうから、私が考えるほど危ないものでもないのかもしれない。
ふぅ、と一息ついた私を降谷さんが覗き込んでくる。

「歩かせてしまってすみません。疲れていませんか?」
「最近は運動のためにウォーキングしてるので、これくらいは全然平気ですよ」
「へえ、そうなんですか。歩くのはどの辺りを?」
「コースは特に決まってないんです。買い物に行く時は徒歩にしたり、仕事が終わったら家の周りをお散歩してます」

降谷さんからしたら運動とは呼べないかもしれないけど、普段大して動かない人間にはウォーキングだけで結構な運動量だ。ちなみに旅行で案の定増えた体重はどうにか元に戻っていたので、昨日はサボった。
ランチはさきほどパーラーで購入したサンドイッチ。降谷さんいわくかなり昔からあるお店らしく、中でも食べられるがテイクアウト客が多いようだ。フルーツサンドやツナサンドなど色々あって迷ってしまったが、特に人気だという玉子とハム、きゅうり、トマトが挟んであるサンドイッチにした。玉子が厚焼きなのと他の具材も多めなので結構ボリューミーだ。大きく口を開けてぱくりと一口かじると、薄いパンの間であまい玉子のふわっとした食感に野菜のみずみずしさがパリッと弾けて、ハムとソースのしょっぱさがちょうど良くとても美味しい。玉子は綺麗な黄色で焦げの一つもなく、しっとりしている。

「美味しいですね、後を引く感じの味です。サンドイッチお好きなんですか?」
「ポアロのメニュー開発の参考に軽食はたまに食べているんです。それまではあまり機会がありませんでしたが、シンプルに見えて奥深い料理がたくさんあるので勉強になりますね」
「そういえばポアロにもサンドイッチがありましたね」

ロールケーキのことといい、個人経営の喫茶店だと店員さんがメニュー開発するのは普通のことなのだろうか。それも気になるけれど今のこの流れなら、この間のことを聞けるかもしれない。大きな口でカツサンドを頬張る降谷さんの横顔をちらりと窺う。わりとがっつり食べるなぁと、意外というか予想外に男子っぽさを感じながらも、おそるおそる尋ねた。

「あの……安室さんのことって……話しても大丈夫なんでしょうか」
「ええ、問題ありませんよ」
「事前にいただいた資料では、そういう捜査は終わりだと書いてあったのでポアロのことが気になってて……」
「そうでしたね。……情報収集をね、しているんです」

安室透……組織の男が表で活動するために作り上げた架空の人物。ターゲットに近づいて情報を得るため、喫茶店でアルバイトをしながら探偵として勉強中という設定なのだそうだ。組織での潜入捜査を終えたものの、情報収集の目的で「安室透」は継続しているという。さっきも思ったけど、それって組織のメンバーに見つかったら危ないのでは……それとも、実はもう危険な組織は解体されているとか?

「先生は米花町にお住まいでしたね。あの辺りの事件は割と耳に入ってきますが、物騒な噂も多いので出歩く際は気をつけてください」
「はい……おまわりさんにそう言われると気持ちが引き締まりますね」

私がそう言うと降谷さんは「おまわりさんか……」と小声で呟いて、さらに「そういえばそうだったな」とか言うので二度見してしまった。正面を向いたまま無表情で、眉ひとつ動かさない。この人は気さくで、冗談も普通に言いそうだけれど、自分の職業のことをふざけて言うタイプではないような気がする。だからどう返事をしていいかわからなかった。

「降谷さん、やっぱりお疲れなんじゃないですか?なかなか難しいのかもしれませんけど……できればゆっくり休んでください」
「……先生はちゃんと休まれていますか?」
「えっ、私?」

伏し目がちの彼の瞼を長い睫が縁どっている。ぱちりと瞬いても、前方を見つめたままのブルーの瞳は私を映さない。通った鼻筋や唇の造形が横から見てもとても美しかった。少しの沈黙の中、風で金色の髪が揺れる。
単に「わかりました」とでも返ってくると思ったのに、聞き返されてすぐに言葉が出てこなかった。彼は私の答えを待たずに再び口を開く。

「厄介な男を受け持つことになって大変でしょう。とても普通じゃない。いくら警察関係者とはいえ、長く裏の世界にいた得体の知れない男です」
「そんなことは……」

ないですよ。とは続けられなかった。厄介というよりも経験がないので手探り状態ではある。でも、自分から厳しい条件を出して私を選んだのに今更といえば今更な話だ。そういうのは初回にするやり取りのような気がする……慣れてきて本心を少しだけ見せてくれた、という見方もできなくはないが。こんな僕なんて、という自虐めいた響きはそこにはない。他人事のように淡々と「厄介な男」のことを語っているのだ……。
これまでの降谷さんは気さくで、裏の世界で潜入捜査をしていたなんて感じさせず、一線引くどころかグイグイくる感じだったので急に態度を変えた意図は気になった。でもそれ以上にうまく言い表せない違和感がある。なんだろう、何かが「違う」。見落としてはいけない何かがあるような……。
そこでようやく、彼がこちらを見た。

「……そろそろ戻りましょうか」
「は……い……」

グレーのスーツを纏う腕がゆっくりとした動作でこちらに伸びてきて、私は反射的にベンチから立ち上がった。危険が迫った時にスローモーションのように感じるというけれど、実際にそうだったのか、彼の腕が本当にゆっくりだったのかはわからない。長い褐色の指は何かを捕まえようとしていたかのように少し開かれたまま、空を切る。私が避けたのはほぼ無意識だった。

「…………」

怖がったように見えただろうか。降谷さんは肩に手を添えて行きましょうと促したかっただけかもしれない。あからさまに避けられたら良い気はしないだろう。
私は気まずさに降谷さんの顔を見て……そこで思わずハッと息を飲んだ。私の行動を気にした風でもなく、薄い唇は引き結ばれていて感情を読み取ることはできない。それだけでもいつもの降谷さんではないと気づくが、それ以上に、氷のように冷えた視線が私を貫いたのだ。

「っ……」

人と目を合わせた瞬間にゾクッとするなんて、そんなことは生まれて初めてだった。少し長めの金色の前髪から覗く美しい瞳はいつもと同じ青色のはずなのに。底が見えず、波もない……凍てついたという表現がぴったりで、怖くて逆に目を逸らせない。どうしました?と問うてくる唇の動きがいやにはっきりと目についた。これ以上なく悪く言えば「白々しい」。私がどう感じるかわかっていて、この人は急にこのような態度を取ったとしか思えなかった。何か気に触る言動をしたとも思えないけど……。

「……いえ……何でもないです」
「そうですか。では、行きましょう」
「あ……私はこのまま直帰したいと思いますので……降谷さんはお仕事ですよね」

暗にここで別れたいことを告げると、降谷さんはあっさりと頷いて自分もベンチから立った。ぱちりと瞬きをした彼からは不思議とさっきまでの冷たさを感じない。一瞬の出来事で気のせいだったかと思ってしまうくらいだ。私は狐につままれたように感じながらも何も言えない。公園の出口に向かってふたりで歩き、門のところで向き合う。

「たまにはこうして外で過ごすのもいいですね、ナナシ先生」
「え、ええ」
「次回の日時についてはまたご連絡しますね。それでは」
「……降谷さん?」
「はい?」

大のおとなが首を傾げているのに違和感はない。これは確かに今日、外でお昼を食べましょうと言った男に間違いないと思った。そう思いながらも不可解さに内心で眉をひそめる。この場合不可解なのは自分に対してだ。一体自分は何を見て、なぜこの人は降谷さんだなと再確認したのだろう、と。にこりと微笑んで見下ろしてくる降谷さんの顔を見て余計にそう思う。仕事を引き受けた以上はこういったことに敏感であるべきだし、妙だと思ったなら追求しなければならないはずなのに……私は心の中で静かに、気づかなければ良かったと思ってしまった。

それが“誰”だったのかはわからない。

あの目を思い出して、その夜はうまく眠れなかった。



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