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誰かの視線


「降谷さん……大丈夫ですか?少しお休みになられたほうが」

三度目の面談の日。何だかんだでそれ以外の日に二度も遭遇しているため会うのは五回目になる。
目の前に座るスーツ姿の降谷さんは明らかに疲労が溜まっている様子で、目の下にうっすらと隈ができているのがわかった。ポアロという喫茶店で働いていて単純に疲れている可能性が頭に浮かんだが、お店は夜間は閉まっているはず。他の場所でも働いていたりするんだろうか。
降谷さんはその形の良い眉をほんの少し下げる。

「ああ……平気ですよ。潜っていた間はこうはならなかったんですが、気が緩んでいるのかもしれません……お恥ずかしい限りです」
「そんなこと……」

今の彼を見て、気が緩んでいるなどとはちっとも思えない。何となく、そういう弱っている姿を人に見せることを良しとしないような印象を降谷さんに抱いていた。その通りだからこその恥ずかしいという言葉なのだろう。そんな人がここまでの状態になっているのは危ないのでは……そう考えて口を開く。

「今日は早めに切り上げましょうか」
「いいえ」

被せる勢いできっぱりと断られた。そ、そうですか?としか言えなくて降谷さんを見つめる。それ以上にじーっと見つめられて、ぱちりと瞬きをした私は手元の書類に目を落とした。この間のポアロでのことを聞いても良いのだろうか。事前にもらっていた資料ではもうそういう活動はしていないと書いてあった。純粋に潜入中に世話になった店を手伝っている……というのもあり得そうではあるが、一般的に任務の終了と同時に完全に痕跡を消すものらしいし……。
冴木さんがわざと私に見せたのだから何かがある。あの時の降谷さんは驚いた顔をしていたので、私に知られるとは思っていなかったはずだ。態度的にはむしろ歓迎されているような雰囲気だったが……。あのあと、家に帰ってロールケーキのお礼のメールを送ったけど返事はなかった。
降谷さんも降谷さんで「どうしてあの日ポアロに来たか」は聞いてこない。タイミングに迷いながら顔を上げてチラと彼を見ると、目が合った瞬間に微笑まれてしまった。普通ならどきりとしてしまいそうなところ、何故だか呆れが先にくる。

「降谷さん、息抜きも必要ですよ?今まで全然お休みになってなかったんでしょうし、今がそういう機会だと思って」
「それならナナシ先生。今日のお昼は僕に付き合っていただけませんか」
「えっ?」
「たまには外で食事をするのも気分転換になるかなと。ナナシ先生が一緒だったら嬉しいんですが……ダメですか?」

流れるようなお誘いだった。警察組織の中でも特殊な立ち位置にいる彼はほとんどの繋がりを断っている。潜入から戻ったとはいえ気軽に同期と会うこともできないだろう。勧めた手前そう言われてしまうと頷くしかなくなる。
すると降谷さんが腰を浮かせた。

「ど、どちらへ?」
「どちらって外ですよ。天気も良いですし、お昼を買って公園のベンチで食べましょう」

ね、と優しく呼びかけられて私は瞬きをするしかなかった。
ベンチ?あ、そういう意味の外で食事?というか面談が数分前に始まったばかりなのに……。焦る私を降谷さんが促す。

「ゆっくり歩きながらお話ししませんか?聞かれて困ることもないですし」
「それは……」

確かに私と降谷さんの面談での会話は一般的な世間話ばかりだ。家でどう過ごしたとか、最近はまっている料理とか。中には抱え込んでいた秘密をカウンセラー相手に喋ってしまう諜報員もいるようだが、降谷さんは例の組織はおろか警察組織のことですら私が尋ねない限りほとんど話さない。だから内容的にはどこで話しても支障はない。

「……わかりました」

そういうことなら、と了承して立ち上がる。一緒に部屋から出るのは初めてだ。この建物には他の省庁も入っているが、警察庁のフロアには正面の入口とは別に二階部分に受付があり、そこもパスしないと立ち入ることはできない。そのため歩いていて無関係の人間と顔を合わせるようなことはないようだ。それでも隣を歩いて良いか分からず遅れ気味になっていると、前を行く革靴の音が止まる。振り向いた降谷さんに「ナナシ先生?」と首を傾げられてしまったので小走りになって隣に並んだ。

「もう三回目なのに、なんだか緊張しちゃいます」
「緊張?どうして?」
「だってここ警察庁ですよ?一般人には一生縁がないような場所なんですから」
「はは、僕もです。潜入中でここに来るのは大抵呼び出されてどやされる時だったので、ドアの前まで来ると今でも緊張しますよ」
「えええ……降谷さん真面目そうなのに……」

そう返すと降谷さんは驚いたように私を見て、フフッと吹き出してその広い肩を震わせた。一瞬なぜ笑われたか分からなかったが、すぐに自分が変なことを言ったのだと気づく。呼び出しと聞いて私はつい学校を連想してしまったが、ここは警察。潜入中、降谷さんにここでの仕事は与えられていなかったはずだから、呼び出される理由は当然「不真面目だから」ではない。

「ごめんなさい……降谷さんはすごく真面目な方ですよね」
「ええ、まあ……自分で言うのもどうかと思いますが」

裏のなさそうな調子で降谷さんが頷いた。その顔はまだ笑っている。

「えっと、違うんです。最近知り合いの子が授業中に隠れてスマホゲームをしていたら職員室に呼び出されたって言ってたのを思い出して」
「それはいけませんね。画面から十分な距離を取らないと視力が落ちる原因になる」
「そ、そういう問題じゃありませんけど……」

そこは授業は真面目に受けないといけない、と言うところ。冗談なのか判断に困りつつ、彼が呼び出されていた理由に思い当たった。それは事細かに記載されていた、事前資料で見たこの人の組織での犯罪行為略歴。内容は大雑把ではあったが、あそこまでたくさん書かれていたということは逐一チェックが入っていたのだろうから。

「……真面目に組織のお仕事に励んだ結果、やりすぎて呼び出されちゃった、ってことで合ってます?」
「っふ……そうですね。そういうことです」

わざわざ口に出して言うなと降谷さんは思ったかもしれない。これ以上余計なことを口走らないように私は唇を引き結んだ。

建物から出ると、警視庁の前を通って日比谷方面に向かう。横断歩道の前で信号を待っている間、反対側の通りを急ぎ足で歩くスーツ姿の男の人を眺めた。黒いスーツが多い。たまに私服の人もいるがスーツを着用している人はほとんど黒だ。降谷さんはグレーしか着ているところを見ていないけど、黒も似合うんだろうな。なんて考えて隣に立っている彼を見上げると、目がしっかりと合った。

「普段この辺りに来られることはありますか?」
「ほとんどないですね……警察庁の場所も曖昧で、最初は迷っちゃいました。独立した建物だと思い込んでいて」
「ああ、警視庁の印象が強いのかな」
「そうかもしれません。思ったよりずっと大きなビルなので、余計に緊張しました……」

警察庁が入っている庁舎は二十一階建てのビルだ。降谷さんとの面談は二階で行なっているが、彼の部署は二十階にあるそうだからさぞ眺めが良いんだろう。もっとも、通りを行くスーツ姿の人達のわき目も振らない様子を見るに、この辺に勤めている人にゆっくり景色を見ている暇はなさそうだけれど。


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