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sphenos


「ナナシ先生に食べていただきたいものがあるんです」
「……私にですか?」
「ええ、少し待っていてください。お飲み物は何になさいますか?」
「じゃあ、紅茶で……」

かしこまりました、と頭を下げてからカウンターへ戻っていく後ろ姿を見つめる。先生、という呼び方はそのままみたいだ。むしろさり気なく名前呼びになっている。
どうしてここにいるんですか、と尋ねても良いものなのだろうか。幸い他の客はいないが、もし潜入中ならば本当の姿を知っている私のような一般人には早く帰ってもらいたいはず。でも全然そういう雰囲気じゃない。わけが分からなくて、降谷さんが何かを準備しているのを視界の端に入れながら開きっぱなしだったスマホのメール画面を見つめる。冴木さんにどう返信するべきか……。

『どういうことですか?』

と、一旦書いて消した。やっぱり意図的なものを感じる。こういう聞き方をしても返事はこないだろう。降谷さんが驚いていたということは、冴木さんは彼に何も告げずに私をここに呼んだということになる。いったい何が目的なのか。

「うーん……優しいんだけど、食えない人だからなぁ……」
「誰がですか?」
「わぁ!?」

音もなく現れた降谷さんにびっくりしてスマホを放り投げそうになった。エプロン姿の降谷さんは「お待たせしました」とにこやかに言って、持っていたお盆から私の目の前にお皿を置いていく。黒い長袖のシャツから覗く褐色の手は骨張っていて、指が長くて……スーツ姿の時の降谷さんと同じはずなのに、なんだか見てはいけないものを見ているようでドキッとした。これがおそらく男の仮の姿だと理解しているからこういう思考になるんだろう。そっ……とスマホを戻して姿勢を正す。と、デザートのお皿に一瞬で目を奪われた。

「わー……ロールケーキ!」

まるいドーナツ状のスポンジの中心に、たっぷりのクリームが入っている。最近コンビニで人気の巻いていないロールケーキ……いわゆる「の」の字ではない、完全な輪っかタイプのものだ。生地に対してホイップクリームが多いのが特徴で、柔らかな食感が楽しめる。添えられているのはカットされた苺、それにブルーベリーとラズベリーが数個ずつ、その上からお皿全体にまぶされた粉砂糖。きれいだし、美味しそうだ。
続いてふわりと漂う紅茶の良い香り。一杯目が注がれたカップと、残りが入ったティーポットが置かれる。オレンジ色を少し薄くしたような透明感のある色あいが真っ白なカップの中で揺れた。時期的に春摘みの紅茶だろうか。
私の反応を眺めた降谷さんは、何故かくすりと笑う。

「僕からのサービスです」
「え、でも……いいんですか?」
「試作品なのでお気になさらず」
「美味しそうですね……ありがとうございます。大好きなんです、こういうロールケーキ。実は最近の一番のお気に入りで」
「それは良かった」

最近私がハマっているのがコンビニで売られているロールケーキだった。昔はコンビニスイーツといってもほとんどがどこかのメーカーから仕入れた商品で、今のようにそれぞれのコンビニが独自開発して商品化したものはなかったように思う。生物は傷みやすいし、ケーキはケーキ屋さんで購入するのが普通だった。だから家で食べるケーキといえば誕生日やクリスマスしかなかったのだが、今はコンビニで手軽に買えてしまうからついつい手を伸ばしてしまう。
そういえば、電話でれいくんにコンビニのロールケーキが恋しいと話した時は「ケーキ?そんなのコンビニに売ってるわけないだろ」なんて言っていたっけ。巻いてないロールケーキの説明も「何それ?」みたいな反応だった。年齢的にあまりコンビニには行かないのだろう。親と出かけてもスイーツのコーナーなんて見ないのかもしれない。コンビニの商品は移り変わりが激しいけれど、いくつかおすすめスイーツの商品名も勝手に教えてあげた。もう電話は繋がらなくなってしまったから確認することはできないけれど、いつか気になって手に取ってくれるといいなぁ。

「いただきます」
「はい、どうぞ」

にこにこと笑顔で見てくる降谷さんの視線を感じつつ、スポンジとクリームをすくって食べてみる。フォークを生地に入れた時にもう分かったのだが、ふわふわだ。でも歯応えはわりとあって、しっとりしている。ホイップクリームのきめ細やかな舌触りと、溶けていっぱいに広がる優しい甘さ。卵の風味と牛乳の濃厚なコクが混じりあって感じられて、スポンジとクリームというシンプルな組み合わせながら本当に美味しかった。後に残る控えめな甘さはダージリンをひとくち含むと若々しい紅茶の香りと一緒にすうっと心地よく鼻から抜けていく。私は興奮気味にカップをソーサーに戻した。

「すごく美味しいです!」
「ありがとうございます。今度お店に出す予定なんです」

さっきからずっと笑顔の降谷さんは嬉しそうだ。男の人にこういうのもなんだけれど、含みのないイケメンの笑顔、とても可愛い。なんでもロールケーキをずっと試行錯誤しており、最近ようやく満足いくものが作れるようになったのだとか。というかもうそれって潜入の域を超えていないだろうか。

「…………」
「…………」

真っ赤なラズベリーの実をフォークで刺してぱくりと食べた。口の中で解れたつぶつぶのひとつひとつが噛みしめるたび弾けて、クリームのあとだと少し酸っぱく感じる。そのあとにまたケーキを食べるのがいいのだ。試作品のケーキにここまで力を入れているくらいだから、他のメニューもきっと美味しいのだろう。降谷さんの潜入先に出入りするわけにはいかないので、来られないのは残念だ。それにしても……。

「あの……そんなに見ないでください……」

顔が良すぎるからそう感じるのか、それとも背が高すぎてはるか上から見下ろされているからなのか、やたらと視線が強い。お皿に再び視線を落として、ホイップクリームをたっぷりとすくう。降谷さんがすみませんと言って笑う気配がした。

「美味しそうに食べてくれるので嬉しくて……今度お会いする時に持っていこうと思っていたので、今日こうして機会があって嬉しいです」
「料理、お好きなんですか?その……元から得意じゃないとここまでできませんよね?」

暗に潜入捜査の関係で働いているのだろうと尋ねてみれば、彼は頷いた。

「ええ、ここで働くようになってレパートリーが増えました。以前は誰かのために作るということがあまりなかったので」
「そうなんですね。ケーキ本当に美味しいです。他のお料理も食べてみたかったな」
「ナナシ先生のためなら……いつでも作りますよ」

えっ、と思わず降谷さんの顔をまじまじと見つめた。そんなこと言ってイケメンだなぁと笑うつもりが、一瞬で彼の顔から笑顔が消えたので私も無言になってしまう。まずその真剣な表情にたじろいで、さっきまでとは別人みたいな雰囲気にどうするべきか迷った。こちらの返事を待つようにじっと見つめ返してくる青い瞳。
……いつでも料理を作る。お店で、という風に受け取るのが普通だと思い、私は「ぜひ」と微笑んだ。全然そういう雰囲気じゃないことは分かっていたのだが、気づかないふりをしてそう返事をした。
私の答えを聞いた降谷さんは瞼を伏せてフッと微笑む。なんとなく、その笑みは私に向けられたわけではないような気がした。
そしていつもよりも少し低い声で、彼はそっと呟く。

「……ロールケーキ、きっと喜んでくれるだろうなと思っていました」

その顔はこの店に入ってから初めて見る、エプロンをつけた降谷さんの顔だった。



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