『豊年瑞樹の受難』から続くお話です。先に前述のお話をお読みいただくと、よりお楽しみいただけます。
 また本作はゾーニングの一環として、ストーリー部分の前編と性描写部分の後編とで分割しております。ストーリーの内容としてはほとんどこのお話までとなりますので、高校生を含む18歳未満の方や性描写が苦手な方は、後編部分はご遠慮ください。





瑞樹くん、初めての搾精🤍_前編




 ―そこは、来賓をもてなす応接間のような部屋だった。
 構造は立方体に近い直方体をしていて、やや長い二辺の壁には中身のぎっしり詰まった本棚が壁の中に埋もれるように聳えている。残りの短い辺の一方には出入口となる造りのしっかりした扉があり、もう一方には天井にまで届くほど背の高い長方形の窓が三つほど横並びになっている。今はとろみを帯びた光沢のある臙脂色のカーテンが隙間なく閉じられているが、天気のよい日に開け放たれていたなら、さぞたっぷりと陽光を部屋の中へ採り込んだことであろう。
 高い天井では五つの大ぶりな鈴蘭を逆さに吊り下げたような形をしたシーリングランプが存在感を放つ。ランプに煌々と照らされる床は重厚な黒柿色をした板張りで、部屋の家具や壁が映り込むほど磨き抜かれている。その上へ覆い被さるは、やや明度の高い蘇芳色の地に金糸で縁取られた毛足の長い絨毯。絨毯の中央には丸い天板を乗せた猫脚のティーテーブルがあり、全体がこっくりと艶のある羊羹色をしていた。テーブルの上にはひと口サイズの個包装の菓子らしきものを山と盛った深皿がでんと鎮座する。
 ふたりの少年がそれぞれ腰かけるソファは、そこへ侍るようにある。窓を背にした向きでひとり掛けのソファが八の字を描くようにふたつ、窓と対する向きで複数人掛けのソファがひとつ。タマキはその複数人掛けのソファのほうで広々とした座面を恐る恐る独占しており、少年はひとり掛けのソファに悠々と腰かけていた。

「……相も変わらず、難儀な体質だこと」

 洋風の応接間からはやや浮いた、黒の羽織袴はおりはかまに身を包んだ少年は、哀れんでいるとも面白がっているとも取れるような面立ちでぽつりと呟く。白玉の頬に白妙菊しろたえぎくを思わす華奢な指がとろりと添えられるさまは、至っていとけない外貌に見合わぬ妖麗さを肌に纏う。
 しゃんと背筋を伸ばして和装を着こなし、大人染みた物言いでもってタマキを圧倒する少年。彼のその子供らしからぬ威風堂々たる姿は、対峙するタマキの胸に強かに根付いた恐れまでもを取り払った。
 傾いだ小首に烏の濡れ羽色をした髪をそよがせた彼は、一縷の光明もない宵闇さえさしおいてなお暗い漆黒の双眸でタマキをじいと見据えてにんまりと笑みを深める。弓形に歪んだ両眼りょうがんは、示された友好ほどには隙がない。

「結局こんなことになっちまって、高蜂タカハチの小倅もさぞ口惜しかろうねェ」


 彼は、タマキの父を指して高蜂の小倅≠ニ口にした。


***



 ―学校が終われば必ず真っ直ぐ家に帰ること。
 ―日が暮れ始めたら決してひとりで外に出ないこと。
 ―どこかへ出かけるときには誰とどこへ出かけるのか事前に伝え、ひとりではあまり出歩かないこと。

 叔父から、絶対に破ってはいけないと厳しく言い含められていた三つの約束。
 事のおこりは、その約束をタマキが破ったことにある。
 空が真っ赤に染まり、徐々に日が傾く黄昏時。同級生の少女と別れ、帰路を怖々と一歩一歩踏み締めていたタマキ少年は、突如として見知らぬ男に工場跡地に連れ込まれ乱暴されかけるという災難に見舞われた。
 兄ミツユキがそんな場面に駆けつけてきてくれたことができたのは、本当に偶然だった。
 部活動に所属していないミツユキは元々青春に勤しむ同級生ら諸君と比べて帰りが早かった。そのぶん浮いた時間を、受験を控えた彼のために一時的に貸し与えられた叔父の書斎に籠ってこつこつと勉強にあてるのが彼の日常だ。
 だがしかし、そのときは妙に勉強に身が入らなかった。こんなときは無理に机に向かい続けても無為に時間を浪費するだけだと経験則からわかっていたミツユキは、ひとまず茶でも一杯呷ろうかと書斎のドアを開けた。
 それで初めて、タマキがまだ帰ってきていないことに気がついたのだ。
 だけどそこからは早かった。内気な弟が叔父との約束を一度たりとも破ったことがないのを彼は知っていたからだ。叔父に持たされた携帯電話と家の鍵のみをジャージのポケットに突っ込むと、ミツユキはすぐに家を飛び出した。弟の気質に理解はあってもその交友関係までは把握が及ばず、とにかく闇雲に探し回るよりかはとミツユキは家から通学路を辿っていくことにしたのだ。

 結果としてそれが功を奏した。

 小さなタマキに覆い被さる、見知らぬ男の姿。
 ぎゅっと目を瞑って現実逃避をしていたタマキは与り知らぬことだったが、醜悪極まりない光景にミツユキは一瞬にして理性の糸を焼き切らせ、その衝動のまま掴み上げた瓦礫で殴りかかるという暴挙に出た。実際年若い少年の動揺にまみれた殴打は男の命を奪うまでには至らなかったようだったが、タマキは兄が自分のために人を殺めてしまったとすっかり思い込んだ。
 ぐったりと脱力して自分の上にのしかかる大人の巨体の生々しい熱と、その頭部からたらたらと溢れ出す熱い血液。鋭く割れた瓦礫片の先で切れてしまったのだろう。実際、ミツユキの手のうちにある石の塊は赤く汚れていた。
 誰も口をきかないまま、重苦しい沈黙がしばし続く。

 いち早く正気を取り戻したのは、ミツユキのほうだった。
 彼は荒い呼吸も整わないまま、タマキを下敷きに気絶した男を蹴って転がして、細い腕をしっかと掴んで引っ張り上げてくれた。
 よろめきながらもなんとか立ち上がったタマキの、砂や埃まみれになった身体の汚れをはたいて落とす兄はなにも言わない。ただ黙って、献身的にタマキの世話をしてくれた。
 ―いやに現実味が薄かった。ついさっきまできっと今にも自分は殺されてしまって、そこに誰も助けは来ないのだろうと思っていた。絶望的で、世界のなにもかもが閉ざされたような心地になっていた。じんじんと腫れを主張する頬の熱ばかりが鮮明で、そばを通り抜ける風声も放棄されてみっともなく伸び放題になった植え込みからがなり立てる虫の声も、今目の前で自分の世話をする兄の震える手の感触も、なにもかもが遠かった。もしくは、世界から遠ざかっていたのはタマキのほうだったのかもしれない。
 タマキの顔を見もしないミツユキは、空気を求めて喘ぐみたいに何度か口唇の開閉を繰り返す。喉の奥から声にもなりきらない息と唸りの混じった音がする。

「……大丈夫?」

 考えあぐねた末に、結局ミツユキはそれだけ言って初めてタマキの目を覗いた。結果としてタマキは救われたのだから、大丈夫と言えば大丈夫だったのだろう。その小さく脆い心に深く刻み込まれた傷さえ考慮しなければ。訊ねた当の本人も馬鹿なことを口走ってしまったと思ったのか、酷く熱いものに触れたように顔を顰めている。
 しかし普段は冷たく、ほとんど口をききもしない兄のいつになく柔らかく甘い声色が、タマキの腕をぐっと引いて世界の輪へと引き戻した。
 崩れかけた作業場と倉庫の間を通り抜ける生温い風はぴゅっとタマキの頬を引っ叩いて痛いし、人間共のあれやこれやに無関心な虫たちが植え込みでどんちゃん騒ぐ声は耳に障る。そしてタマキに触れるミツユキの手のひらは焦燥の汗に濡れていて、少しだけねっとりしている。

 タマキのまなじりからひと粒の涙が零れ落ちたのは、そのときだった。
 ひとたび涙腺が決壊すれば後はもうとめどなく、大粒の雫がまろい頬を伝ってぼろぼろ落ちて割れたコンクリートの上に斑を増やす。
 痛かったのだ。怖かったのだ。きっと誰も助けてくれはしないだろうと思っていた。ちっぽけな身体に宿った取るに足らない命は誰も知らないうちにひっそりと潰えてしまって、そしてそんなことには誰も気付かず、タマキのことなんて全部すっかり忘れたような顔をしてみんながみんな通り過ぎていってしまうのだと思ったのだ。
 しゃくり上げるタマキの頬についた汚れを拭ったミツユキは、次いでおずおずと両腕を広げてみせた。その首元に、タマキは一も二もなく齧りつく。大声を上げてはあの獣のような男がタマキを温かな胸の中から引き剥がしてしまうのではと恐ろしく、兄の汗ばんだ首に腕をしっかり回し、肩口に顔を押し付けて声を殺してぐずぐずに泣いた。戸惑うように空を掻いたミツユキの手はそのうちタマキの後ろ頭に落ち着いて、指先で擽るように髪を梳く。
 そうして兄弟ふたりでひしと身を寄せ合ううちに、ミツユキはふと思い出したように携帯電話を取り出した。指先は淀みなく動いて、やがて叔父の連絡先を呼び出す。
 僅かに言葉尻を震わせながらも叔父にそつなく事の次第を伝える兄の声をその胸の中で聞きながら、タマキは目を伏せる。ミツユキの連絡を受けた叔父が駆けつけてきてくれたのは、すぐのことだった。



 屋根が落ちて骨組みの露わになった倉庫の影に身を隠す兄弟の耳を、鋭く短いブレーキ音が二回、続けざまに劈いた。こっそりと顔を出すと白いボディの側面にロゴが描かれたワゴン車ともう一台、黒のツーボックスカーが敷地内に荒々しく駐車している。
 直後ワゴン車の前後のドアがそれぞれ一枚ずつ開き、叔父と見知らぬ和装の女が降車した。
 いつもはワックスでびしっと固めた蜂蜜色の髪を焦りに乱した叔父はきょろきょろと周囲を見回している。やがて影から覗く兄弟の姿に気が付くと、小走りに近寄ってきてふたりをぎゅっと抱き締めた。
 仄かに鼻をつくグリーンシトラスのオーデコロンと汗とが混じり合ったにおいが、いつも涼しげでいる叔父がどれほど急いでやってきてくれたかを物語っている。

「すまない……すまない、タマキ。怖かったろう。ミツユキも、よく頑張ったね」

 安堵の滲む深い声が、タマキらの耳を震わせてしっとりと沈み込む。
 叔父からの情熱的な抱擁を嫌ってミツユキはひとり早々に脱け出してしまったが、タマキには兄の強張った身体から余分な力が抜けたのがわかった。
 そのまま叔父に伴われて、ひとまずタマキたちは男が倒れている場所まで戻る。

 そこにはすでに叔父が連れてきた女がおり、未だ気絶している男の傍らへしゃがみこんで何事かを呟いていた。タマキには、彼女が詩歌を口遊んでいるようにも聞こえた。
 タマキらがすぐそばまで行くと、女はふっと顔を上げて男たちの顔を順繰りに見る。そして最後にタマキに目を留めて、蕩けるように微笑んだ。極楽のような笑みだった。

 薄藤色の訪問着を着たその女性は自身を叔父の上司だと言い、名を憐嶺リンネと名乗った。
 タマキから視線を外してもう一度叔父を見上げたリンネは、作りものめいた美しい笑顔を浮かべて口を開いた。

蜜坊ミツぼう、」

 タマキの視界の端で、ミツユキの肩がぴくんと跳ねたのが見えた。もしや見も知らぬこの女に自分が呼ばれたのではと驚いたのだろう。

「どうしました」

 だがその呼びかけに応じたのは叔父蜜流ミツルだった。叔父もリンネも、タマキには同年代にしか見えない。歳が違ったとしてもせいぜいふたつみっつかといったところだろう。少なくとも彼女に「坊」などと呼ばれるほど歳が離れているようには思えない。ミツユキもタマキと同じく、妙な顔つきでふたりの会話に耳をそばだてている。

「このわらわが例の子だね。蜜彦ミツヒコの忘れ形見」
「ええ、そうです」

 ミツヒコとは、豊年兄弟の父の名だ。叔父にとっては兄にあたる。

「なるほど? 彦助ヒコスケにもそなたにも大事にしまわれてひと目も会えずじまいだったのが、まさかこんな機会に恵まれる・・・・とはねェ」

 リンネはそう言って、艶やかな紅唇の端を歪めて喉をくつくつと鳴らした。明らかな嘲笑だった。叔父の燃えるようなひと睨みも、彼女はものともしない。

「安心おし。きちんと御目見えの叶うようにしてやるさ。あにさまも、首を長くしてお待ちなんだもの」

 身勝手に会話を打ち切ったリンネは再びタマキを見て、にこにこと手招きをした。
 一輪の百合がごとき美貌を持つ麗人ながら、膝を折ったまま袂を押さえてちょいちょいと手招く姿は年端もいかぬ少女のような可憐さをにおわせる。すっかり絆されたタマキは彼女の足元に男が横たわっていることも忘れて警戒心もなく一歩近くへ踏み込んだ。
 拳二個ぶん程度の距離があるかないかというところまでそばへ寄ると、彼女の、蜥蜴の目玉のように虹彩と瞳孔の区別もつかぬほど黒々とした瞳がタマキを見つめる。
 じっと。
 ただ、じっと。
 全てを見透かすかのような眼差しに無意識に息を詰めたタマキは、彼女の視線が自分の目から頬へ逸れたことでようやく大きく胸を上下させた。

「可哀想に」

 数瞬遅れて、タマキのぷっくりと腫れ上がった頬のことを指しているのだと気付く。

「なぐられたの」
「う、うん。……そう」
「どれ、ねえやにお見せ。おまじないをかけてあげようね」

 返事も待たず、日も落ちたとはいえ夏場とは思えぬほど凍り付いたように冷たい指先がタマキの頬に触れるか触れないかのところでぴたりと静止する。そして彼女は赤い紅を乗せた艶やかな唇を開き、歌うように聞いたこともない言葉の羅列を吐き出した。てっきり耳慣れた児戯のようなおまじないが施されると思っていたタマキはびっくらこいて、しかもそれで本当に痛みがすんと引いたものだから二重にたまげた。

「……あ、ありがとう」
「ウン」

 タマキのか細い謝辞に、リンネはにこりと笑む。
 折り曲げていた膝を真っ直ぐに伸ばしてすっくと立ち上がった彼女は思いの外上背がある。耳目を覆うように抱きすくめられ、タマキはすっぽりと彼女という膜の中に閉じ込められてしまったようだった。彼女の着物に焚き染められた藤の香の甘く華やかな香りが誘うように中空で花開き、それだけでタマキはなんだか気恥ずかしい。頭の中がリンネでいっぱいになり、それ以外は考えられなくなる。
 タマキの反応がすっかり鈍くなったのを確認したリンネは長身の叔父と比べても頭半個ぶんも変わらない目線を下にさげながら、「それで、」とおもむろに切り出す。

「そなたは、いつまで寝ているふりをしているつもり?」

 自らの足元で横たわる、男へ。
 リンネの冷ややかな声音に男はびくっと全身を震わせると、恐る恐る顔を傾けて自身を見下ろす三者の顔を見た。血の気の失せた白い肌にはたっぷりの汗を纏っており、瞳はきょどきょどと落ち着きがない。なにがなんだかわからない様子で、明らかに怯えていた。

「……なにか覚えているかい?」

 と、見かねた叔父が柔く訊ねる。それに男がなにがしかの答えを返すよりも早く、大きく反抗心を示したのは誰あろうミツユキだ。
 覚えているもなにもない。この男は自身の目の前でタマキを襲っていたのだ。馬鹿なことを聞くなと目で訴えるミツユキに、叔父は構わない。

「君は小学一年生の男の子をレイプしようとして、そこの男の子に殴り倒されたんだ。なにも覚えてない?」

 依然として青ざめたままだんまりを決め込む男に、叔父はタマキとミツユキをそれぞれ一瞥してから明け透けな言葉を使った。リンネに抱かれたままのタマキは不自然なほど反応がないが、その一方で男はひゅっと喉を鳴らして今にも死にそうな顔をしていた。

「覚えてる?」

 もう一度叔父が訊く。
 いくらかの沈黙の後で、ようやく男は「信じてもらえないと思うんですけど、」と枕詞を添えておどおどと切り出した。

「……な、なにも。なんにも、覚えてないんです…………」

 服装とは裏腹に紙のような顔色で消え入りそうに放たれたあまりにも呆れた言葉に、ミツユキは怒りも露に男の胸ぐらを掴み上げた。現行を取り押さえられてなお浅はかな言い訳を垂れる男を前にしては、年若い少年の衝動的な怒りを抑制することは難しかった。
 ミツユキは罵声のひとつも口にはしなかったが、その眼光はなにもかもを切り裂かんばかりにギラついて鋭い。弱冠十五歳とは思えぬ凄みのある重圧に、男は一層顔色を失くして口ごもる。
 叔父はそこへ割り入って、ミツユキを後ろから抱き寄せるようにして男から引き剥がした。

「……リンネ、」

 叔父が男を見据えたまま、ミツユキを押しとどめたままで静かに彼女の名を口にする。リンネはその先に続く言葉を促すように温度のない笑みを刻んだ頭をことりと傾げた。その拍子に後頭部で結いまとめた艶髪からひと筋の毛が垂れ落ちる。

「その子たちをお願いします。私は……彼と話があるので」
「元よりそのつもりだとも。それに、これこそそなたの仕事だ。わざわざこなたに断ることもなかろうに」

 最低限度の言葉で交わされる会話は傍で聞く者の混迷を深めるばかりで真意がなにも見えてこない。その混乱の隙をついて、リンネは豊年兄弟の手を引いて黒のツーボックスカーへと歩いていった。小石のひとつひとつさえ長く影を伸ばし、地面には影でできた草むらが不気味に生い茂っている。リンネはその影たちを難なく踏みにじりながら、ミツユキを助手席に押し込め、自分はタマキと共に後部座席へ乗り込む。そうして運転手に手早く指示を飛ばすと車を走らせた。
 叔父―ミツルは、すでに検閲の役目を失って久しい工場のゲートを悠々と潜り抜けて走り去っていく車をじっと見送る。そうしてその姿が見えなくなると、長い脚を折り畳み、未だ地べたに這う男と目線を合わせて言った。

「では、話をしようか」
「あ、あのっ……ぼ、ぼく、ほんとになにもわからなくて……!」
「大丈夫、わかっている・・・・・・よ。とはいえ君は大変なことをしでかしてしまったが……、だからこそ話がしたいんだ」

 パニックに陥り慌てふためきながら弁明を尽くす男の言葉を遮り、ミツルは深く頷く。穢れのない海をそのまま流しこんだような碧い瞳は、内心はどうあれ、見た目には溺愛する甥を傷つけた男へ向けるものとは思えないほど凪いでいる。

頭の傷は治っているね・・・・・・・・・・? さあ、車に乗りなさい。これは君の今後に深く関わる、とても重要な話だ。ゆっくり腰を据えて話そうじゃないか」


***



 タマキの記憶は、工場跡にいたある時点からぷつりと途切れている。

―結局こんなことになっちまって、高蜂タカハチの小倅もさぞ口惜しかろうねェ」

 気付けばタマキは見知らぬ応接間にいて、徠瀬ライセと名乗る見知らぬ和装の少年と対峙し、そしてよくわからぬ言葉を告げられていた。

 大人びたふるまいとタマキの記憶にない父をよく知るような口ぶりをしてタマキにある種の畏怖と抱かせた彼は、タマキが落ち着くのを待ってからあっけらかんと言った。

「マ、暑気は人を狂わすわな。こいつはね、世の道理ってもんだよ」

 少しも歳の違わないように見えるのに、タマキにとって彼の操る言葉は大層難しい。疑問と手持ち無沙汰の居心地の悪さをじっと堪えているのが難しく、なんとはなしに座面のクッションへ突き立てた手のひらがどこまでも沈んでゆくようなあまりの柔らかさに庶民心が悲鳴を上げる。
 タマキがずっとそんな調子でいるから困惑しきりなのが伝わったのか。ライセは表情を変えないまま、「御前さんを虐めた、あの悪餓鬼のことさ」と付け足した。自分のほうがよほど幼い身形をしているくせして、大人たちを子供と呼ぶ姿にこうも違和感がないのはいったいなぜなのか。

「自分がどうしてあんな酷い仕打ちを受けたのか、御前さんにはわかるかね」

 わからない。それがタマキの正直な気持ちだ。
 質問の体をなしてはいたもののタマキの答えを期待していたわけではなかったらしく、彼はタマキの返答を待つ間を設けなかった。

「御前さんは≠ニ呼ばれるものを知ってるかい?」

 もちろん知らない。そしてタマキの無知を織り込み済みのライセもまた特に言い淀むこともなく話を続ける。

「儂も御前さんも、動物も植物も今この場にある空気だって、みいんな誰しも氣≠ニいうものを持ってる。ところ変われば神通力=A霊力=A魔力――……マ、色んな呼ばれかたをするようだが、どれもさして変わりはない。厳密に言えばちょいと違うが、目には見えない、身体中を駆け巡る元気のもとのようなもんだと思えばいい。
 ……ここまではいいかね?」

 問う言葉にタマキは小さく頷く。ライセは満足げに黒々とした目を細めた。

「多かれ少なかれ、日々の中で氣は内から外へ、外から内へと絶えず巡り続ける。留まることのない川の流れのようにね。だが内へ取り込める氣の総量、その値だけは決して変わらん。なにかの拍子に一時的に減っちまうってことはあっても、基本的には同じ量だけの氣までしか儂らは持っておけない。
 ―例えば、そうだな」

 言葉を区切り滑らせた視線をとある一点で留めたライセはおもむろに手を伸ばし、テーブルの上の皿から菓子を五つ手に取ってタマキと自分の前へそれぞれ並べてみせた。赤や黄、緑といった色とりどりのメタリックカラーの包装がランプの光を反射して宝石のように煌めいている。

「こんなふうに、儂と御前さんの氣の総量が五であったとしようか。歩いたり、座ったり、今みたいに話をしたり、普段の生活をするうちで儂は知らず知らずに氣を消耗しては、自分の身体の中で氣を生み出したり、また周囲から氣を取り込んだりする」

 話すごとにライセは自分の前の菓子をテーブルのあちらこちらへと放り、また同時に同じ数だけ皿から菓子を取って自分の前へやった。

「しかし、御前さんは違う」

 ライセはタマキの目の前の菓子には一切手をつけない。タマキの前には依然として五つの菓子がある。

「御前さんの氣はどうしてか自分からは出て・・いか・・ない・・んだ。だけれど、生み・・出し・・続け・・取り・・込み・・続けて・・いる・・

 言うごとにライセはタマキの前に六つ、七つと菓子を積んでいく。ライセが菓子を盛る手は止まらず、やがて深皿の中身はほとんど全てがタマキの前の山の一部となった。

―御前さんはね、氣の巡りの調和が取れてないんだよ。本当はそんなに大きな器は持っていないはずなのに、今の御前さんは五十も百も超えた氣をいっぱいに溜めてんだ。膨れ上がった氣をたっぷり溜め込むだけ溜め込んだ御前さんの存在は、大量に氣を巡らせる者―つまり、氣の総量が大きい者ほど強く惹きつける。そこに人だの非人だのといった些末な区別はない」
「ひきつける……?」
「ふむ、わかりやすく言うとね、御前さんは美味そうなんだ」

 ライセは指で狐の頭を象り、その嘴でタマキの鼻をくっと咥えた。

「誰にも盗られないうちにひょいとつまんで、ぱくっといっちまいたくなる。そういう魅力があるわけだな」

 タマキの鼻先に食いついたまま、あぐあぐと咀嚼を繰り返す指の動きがこそばゆい。

「先も言ったが、こうも暑いと頭が沸くのさ。とりわけ、あの坊主ぼんずはそういう悪いものを呼び寄せやすいタチだったようだね。そばでミツ坊が目を光らせてたってのに、ありゃよっぽどだ。……マ、今の御前さんを見ちゃ無理もないだろうが」
「……それって、おれが、なにか悪かったってこと?」

 タマキの悲観的な言葉に、ライセはきょとりと目を丸くする。黒々と深い色味の瞳は、かえって鮮やかにタマキの情けない面構えを反射した。

「オヤマア、馬鹿言っちゃあいけないよ。なんにも、御前さんのせいなんてことがあるもんかい。誰かが悪いとすれば、そりゃ御前さんじゃなくミツ坊やあの坊主のほうさね」
「どうして叔父さんが悪いの?」

 タマキは、叔父をミツ坊≠ニ呼んでいたもうひとりを脳裏に浮かべながら訊く。今こうして思い返してみるとライセとリンネの瞳はよく似た色合いをしていた。そう考えてみれば、纏う異様な雰囲気もよく似通っていたように思う。姉弟なのだろうか。

「こいつはヒコ助―御前さんの御父おととや叔父さんにも教えてやってたことなんだがね、御前さんの中でぐるぐる渦巻く氣を吐き出させてやる方法が全くないってわけじゃないんだ。実際、これまでになんともなかったなら、ヒコ助は随分上手くやってたんだろ。
 それなのに御前さんの氣が上手く巡ってなかったってンなら、そりゃあきちんとお世話をしてやンなかった叔父さんが悪い。違うかい?」

 タマキはそうとも違うとも言い切れず、しゅんと黙り込んだ。肯定すれば陰で叔父を責め立てているようだし、否と答えれば今こうしてタマキを慰めようとしてくれているライセの心遣いを無碍にすることになってしまう。
 その心情を見抜いてかおらずか、ライセは困ったように笑って席を立つと、タマキの前へ立って顔の色形を確かめでもするかのようにその額や鼻、頬や顎へ順に指を這わせた。ライセの体温は、リンネほどではないが常人と比べて少し低いように思う。
 立ったままでタマキを見下ろすライセは育ちのよさそうな顔立ちでいて、その素肌に上塗りされた面持ちはどこか俗っぽくもある。しかしながら彼の持つ造形自体の美しさと言えば、いくら美辞麗句を盛り込んだとしても相応しいことはないほどに神秘的なさまをしており、タマキ少年はおずおずと視線を自分のマジックテープのスニーカーへ落とした。こんないかにも上等な部屋には似つかわしくない安っぽさが、かえってタマキの目を慰める。

「マ、なんだい。叔父さんの善し悪しは、今はどうだっていいのさ。リンネに御前さんをここまで連れてきてもらったのは他でもない、御前さんを助けてやるためなんだからね」

 言うが早いか、ライセは躊躇の欠片もなく絨毯の上で膝をついた。びっくりしたタマキが止める間もなく、彼はタマキの足の上へ自身の上体を擦り寄せる。それはまるで仔猫が飼い主に甘えつくように。
 こんなふうに、誰かとべたべたと触れ合ったことも、自分よりはいくらぶんかは歳上であろう男の子に愛らしく見上げられた経験もないタマキは、少しだけどぎまぎした。

「多少荒っぽくはなるが……なに、そう構えるこたない」

 膝元に乗りかかる青みさえ纏う洗いたての陶器のような顔に、好色のうわぐすりがきめこまやかに乗っている。

「御前さんの氣を抜いてやる方法は、ふたつばかしある。ひとつは氣の巡りを感知できる者がそばにいてやること。これは、時間はかかるものの手間もないし負担もない。例えばそれは御前さんの御父おととであったり、叔父さんであったりだね」
「そばにいるだけでいいってこと?」
「そ」
「もうひとつは?」
「氣を直接吸い出すこと」

 タマキをまじまじと見るライセの瞳は、飴を塗りつけた黒酸塊クロスグリのようにより一層つやつやきらきらとして、それが彼にあの淫獣の眼差しを彷彿とさせた。

「……な、なにするの?」
「おや、覚えてないかい?」

 黒尽くめの少年は、まるでてんで的外れな言葉を聞いたかのように喉を鳴らす。

ここ・・の世話は、御父おととにもよくしてもらっていたはずだがね」

 言って、ライセはタマキの両足を大きく開かせた。突然のことに重心を崩し床へ飛び込みかけたタマキは慌てて身体の向きを変えてソファの座面へ倒れ込む。ライセはそれをいいことにタマキの片一方の脚を背凭れの上へ押し上げ、もう一方の脚にのしかかった。
 ライセのしなやかな指が若く瑞々しい肌の感触を楽しむように腿を這う。そして彼はデニム生地のズボン越し、その中央へと小さく唇を落とした。
 自分の股ぐらへ顔を埋めるライセに、タマキの胸がどくりとひと際大きく高鳴る。

 この行為に、覚えがあるような。
 こんな経験を、したことがあるような。

 タマキの脳裏を色褪せた過去が目まぐるしく駆け巡る。それはありもしないデジャビュなんかではなく、確かに在った現実として。
 タマキは今の今まですっかり忘れていた光景をさまざまと思い出したのだ。

 今は亡き面影さえ朧な父との、淫らな湿り気を帯びた記憶。


 ――――夜な夜なタマキの股ぐらに食いついて執拗に陰茎を舐めしゃぶる、その姿。

「今夜は儂が、世話をしてやろうな」

 ライセの形のよい唇の向こうで赤い舌が嗜虐に蠢くのを、タマキは見た。


―――
22/07/20


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