豊年瑞樹の受難




 十二年前のとある夏日、豊年トヨトシ瑞樹タマキは記憶している限りではおそらく初めて優しい叔父との約束を破った。

 白熱した太陽に一点を穿つがごとく、鴉が空を滑り飛んでいる。目も眩む夕焼けの中でけたたましく鳴き喚く姿は妙に黒々と浮き立って、まるで闇より出でた怪鳥のように禍々しい。
 タマキ少年がさして中身のないランドセルをわざとちゃっかちゃっかと揺らして歩いたり道端に転がる小石を蹴り進んだりしたのは心細さと罪悪感を誤魔化すためだったのに、どれだけ空元気を振り絞ったところで都度聞こえる鴉の一声が脆く罅割れた虚勢を打ち壊す。

 ―どんなに我儘を言ってもいい。だけど、これだけは必ず守りなさい。

 幼さゆえを差し引いたとしても華奢すぎる肩を押さえつけられながら言い聞かせられた低い声が何度も何度も脳裏に過っては、それを掻き消すために柔い下唇を小さな前歯で押し潰す。
 後悔は……正直、していた。ただ今それを認めてしまってはあの公園で心を通わせた瞬間がなにもかも嘘になってしまうようだったし、なによりもう二度と家に帰れなくなるような気がした。
 孤独な少女の小さな手の温もりが失せて冷たくなる様子や、話をするときには必ず屈んで目線を合わせてくれる優しい人の眼差しが凍るように変貌するさまを鮮明に思い浮かべて、タマキはランドセルの肩紐を握る手の爪を真白く染め上げた。
 ようやく追い付いた小石をマジックテープのスニーカーでぐりぐり踏みにじってから、もう一度思いきり蹴っ飛ばす。罪なき哀れな小石は転々と荒れた路面を幾度か跳ねてから、もう付き合いきれぬとばかりに側溝の影に身を沈めた。


 早くに両親を亡くした豊年兄弟の親代わりである叔父は非常に人間ができていて、突然面倒を見なければならなくなった幼い甥たちを我が子同然に育てた。叔父の一粒種であり、兄弟にとっては従妹にあたるお嬢さんがただの居候をすっかり実の兄だとばかり思い込んでいたことからも、どんなに彼がふたりの甥のために心を尽くしていたかは窺えるだろう。
 叔父は子供たちが悪さをしない限りは大層穏やかで、束縛せず、可能な限りの願いを叶えてくれようとする良き父親≠ナあったが、ただひとり、タマキに対してだけはとりわけ過分に制約を課した。

 ―学校が終われば必ず真っ直ぐ家に帰ること。
 ―日が暮れ始めたら決してひとりで外に出ないこと。
 ―どこかへ出かけるときには誰とどこへ出かけるのか事前に伝え、ひとりではあまり出歩かないこと。

 当時まだ幼かった従妹もいくらか年嵩であった兄も叔父から同じようなことを言われているのを彼は見たことがある。
 ただ奇妙だったのは、叔父はこの約束事をタマキだけに毎朝必ず復唱させたことだ。
 内容自体はなんてことのない守り事でも、タマキは叔父のその執着とも言い換えられる必死さが恐ろしかった。そのさまはタマキと不仲であった兄でさえ見かねて苦言を呈するほどの異様さであったが、叔父は頑としてこの儀式を取り止めようとはしなかった。暗示をかけるように、脳髄まで刷り込むように。
 そうして元より活発な質でもなかった彼は、小学校に上がる頃にはすっかり内向的な少年になっていた。同級生たちは外遊びの仲間にも入ろうとしない痩せぎすをすぐに異物と認め、内気な少年をクラスの輪から追い出した。
 タマキは、なるべくして孤立した。



―タマキくん、公園で遊ばない?」

 さて、いったいどんな風の吹回しか。金赤きんあかの君は確かにタマキを見つめてそう言った。

 タマキには学校からの帰り道が少しの間だけ一緒になるクラスメイトの女の子がいた。
 彼女は異国の風を纏ったような実に美しい少女で、所謂学年のマドンナ的存在だった。艶のある目の覚めるような赤髪と少しだけ色素の薄い瞳、それから透き通るような白い肌を持つ彼女は、先祖に外の血が入っているのだと小耳に挟んだことがある。
 そんな誰しもから持て囃される美少女はいつもと同じようにタマキから離れた少し後ろのほうをとことこ歩いていたはずだのに、どうしてだか今日に限って突拍子もないことを言う。その提案を、タマキはあからさまに警戒した。くるりと振り向いたタマキに対して、彼女もつと立ち止まってタマキを見た。形のよい小振りな唇の両端が綺麗にきゅっと持ち上がっていた。
 小さな公園、その車止めの前で足を止めて、なにも言わないままで静かに向き合う。彼女の透明度の高いスモーキークォーツのような瞳が、夏の強すぎる陽光を受けて赤い前髪の奥でぬらぬらと暗く艶めいている。
 親しくもなければ嫌い合っているわけでもないふたりは、いつもなんとなくの間隔を保ちながら帰路についていた。示し合わせたわけでもないがタマキはもちろん、恐らく彼女も門限に厳しい家だったのだろう、帰り道のタイミングは重なることが多かった。
 だがそれだけだ。お互い一度も話しかけることはなかったし、多分そうしたいと思ったこともなかったはずだ。同級生たちから大っぴらに爪弾きにされているタマキはともかくとして、彼女にはわざわざ自分みたいなのを選ばずとも大勢の友達がいる。単に遊びたいのだというならその中から目ぼしい者を見繕えばいい。それにも関わらず自分に声をかけたというからには、なにかしらの理由があるのに違いないのだ。

「……なんでおれなの?」

 結局、沈黙に堪えきれなかったタマキが先に口を開いた。
 つまらない同情心か、または仲間外れのいけ好かない同級生をからかう心づもりなのだろうか。それとも他にもっと趣味の悪い理由が? 身体の前で細い指先を軽く合わせて楚々と佇む少女はタマキの不安を汲み取ったに違いない。美しいだけの微笑みを少しだけ崩して目を細めてみせた。強い日射しを眩しがっているようにも見えたし、今は目に見えないものを心底恨んでいるようにも見えた。

「……ねえ、どうしてもおうちに帰りたくなくなること、タマキくんにはある?」

 ――――ある。
 喉がひりつくようでタマキはなにも言えなかった。ただ黙って、少女の言葉を待った。

「私はたまにあるよ。でも帰らないわけにはいかないでしょ。だって、怒られちゃうもの」
「怒られる?」
「うん。……私ね、お母さんに怒られるのが、この世で一番怖いことなの」

 自身にとっての一番の恐怖に、母親からの叱咤を挙げる子供はきっと山ほどいる。だが誰もが彼女のように重い実感を伴ってその言葉を口にするわけではないはずだ。
 少女は風に乱れた髪を耳にかけてから、思い直してすぐに元に戻した。タマキは彼女の耳の下に青黒い痣が見えたような気がした。

「だからね、私、帰りたくない≠チて思っても寄り道せずに真っ直ぐ帰るの。でもね、足が重くて、息が上手に吸えなくなって、全部嫌になるときがあるんだ」

 彼女はそっと顔を上げた。前髪の奥で宝石のような目玉がぎらついている。

「私ね、思ったの。……タマキくんも、私と同じなんじゃないかって」

 ―手負いの同胞を見つけた、幼いけだものの眼差し。
 少女の凄絶な視線を受けたタマキは目も眩む思いがした。とびきり走り回った後みたいに頭がくらくらして、浅い呼吸を細くふうふうと繰り返す。恐らく彼女にはこの瞬間、タマキの手を掴んで崖から飛び降りてもいいくらいの覚悟があった。同様の強い意志が、このか弱い少年の身の内にあるか否かにも関わらず。
 ―ひと息さえ少女に握られたタマキを衝き動かしたのは、先よりも僅かに傾いて眩さを増した太陽だった。
 赤や紫のちらつく視界で、タマキは思わず公園の設備時計を見上げた。時計の下についた柄が地面に根差したような味も素っ気もない時計はその長針をもう随分押し進めている。普段なら、今頃こんな公園はとっくに通り過ぎている時間だった。
 タマキの挙動をひとときも漏らすまいとしていた少女は、それをきっかけに人らしい目付きを取り戻したようだった。タマキがはっと振り返ったときには、もう彼女はいつもの人好きのする笑みでにこにことしているだけだった。

「……ごめんね。私、タマキくんのこと、なんにも考えてなかったね」

 伏せられた目蓋の奥で、その瞳がどんな色をしてどんな感情を宿していたかなんて、当然タマキには知るよしもない。だけれども一方で、もしかしたらタマキにとって恐ろしいばかりでしかなかったあの切なる目付きが、彼女にとっては精いっぱいの訴えであったのではないかとも思うのだ。
 助けを求めていたのではない。ただ、痛みを共有していたがっていたように感じる。そう、それは例えば、そのためにタマキを傷つける覚悟さえ抱えたような。
 彼女の身勝手な鮮烈さは、タマキには少しだけ眩しい。飴味の真綿でがんじがらめにされた少年は、すでに不満の発露さえ覚束ない。
 偏執的な叔父。自分につらくあたる兄。純真無垢な従妹。タマキにとってはその誰もが寄る辺足り得ず、ただただ鋭いだけの己に差し向けられた鉾だった。
 真っ当な愛情の味さえ知らぬ少年に、いったいなにができただろう。丸く蹲って自らを守ることさえ思い至らず、ひたすら祈っていた。一刻も早く、彼には言葉にする術もない苦味が終わりを迎えることを。

 彼がもう少しだけものを識る少年なら、きっと内に抱え込んだそのこころを諦めや希死念慮と名付けていた。

「……本当にごめんなさい。もう帰ろっか。遅くなっちゃうもの」

 神経質なほど綺麗に切り揃えられた前髪は俯き笑う彼女の瞳を殊更に深く翳らせる。未練を振りきるようにタマキへ背を向けた彼女の、肩口から房をわける赤髪が繊細な頚筋の深刻なまでの白さを際立たせて、いっそ病的なほどに思える。そのうなじ・・・に今度こそ鮮明に、思いきりつねりあげたような内出血の痕を認めて、タマキはそっと目を伏せた。
 こうまでされて、まだ彼女には抗う意思がある。それはとても尊いこと。そして今その柔らかな牙を手折ることができるのは、きっとタマキだけだ。

「……ねえ、待って。な……―なにして、遊ぶ?」

 結局、彼女につまらない同情心のひと匙を垂らしたのはタマキのほうだった。



 彼女の発案で、ふたりは『旅行ごっこ』をした。
 なんてことはない。乗り物に見立てた遊具に飛び乗って、思い付く限りに列挙した観光地へ赴き遊覧するふりをするというだけの、くだらない遊びだ。でもあのときのタマキは心から自由だったし、それはきっと彼女も同じだった。
 あのとき、あの瞬間だけ、ふたりはなにものからも解放されていた。

「いつか私たち、本当にどこか遠くへ行けたらいいのにね」

 諦めの水面から顔を出して、柔らかな指を絡め合いながらふたり、息をしていた。



 やがて空を過る雲の影が重く暗くなり始めた頃に、ひとりの女が公園へやってきた。ダークグレーのレディーススーツに身を包んだその女性は、タマキの隣にいる少女を見つけると目を吊り上げて口を開いた。

―帰りますよ」

 殊の外静かな声だった。だが妙に力がこもって語尾が震えていた。タマキには、その一言にはありとあらゆる負の感情が押し込められているように感じられた。
 同級生の彼女はというと、タマキの隣で顔色を失くして硬直していた。表情という表情はなく、ほとんど無に近い面持ちの上をただ玉のような汗がだらだらと流れ落ちていく。どう見ても異常だった。尋常な様子ではなかった。
 タマキはなにも言えなかった。少女もなにも言わない。肌にじっとりと纏わりつくようなねばついた沈黙を切り裂いたのは、女の絶叫だった。

「帰りますよッ!!」
「っひ、」

 押し殺した悲鳴。目の前には鬼の形相。
 遊具の脇に放置されていた赤のランドセルを小脇に、少女の華奢な腕を抜いてしまわんばかりに力任せに引く女の暴挙を制止する勇気が、タマキにあろうはずもない。
 ほとんど引き摺られるようにして、黒土の地面を靴の爪先で削りながら徐々に遠ざかる彼女の背中。さらさら揺れる赤髪の隙間から覗く、汗の浮いた青ざめた首筋。
 口蓋にべったり張り付いた舌を引き剥がして、タマキは大きく口を開いた。

―ま、またね、ラクコちゃん!」

 弾かれたように振り向いた彼女の瞳が、タマキを真っ直ぐに突き抜く。岩のように凝り固まった彼女の頬の筋肉がほんの少しだけ緩んで、ぎこちない、でき損ないの笑顔らしきものが浮かぶ。小さな唇が「また、あした」と声なき声で囁く。

 結論から言えば、タマキとラクコが穏やかに手を取り合う明日など訪れなかった。



 タマキ少年は、今でもその記憶を鮮明に思い出せる。
 ピカピカの真っ黒ランドセルを負ぶった小学一年生の坊や時分、暮れかけてなお茹だるような炎天下、揺らめく陽炎がこの世の悉くの輪郭を曖昧にする、暑い暑い夏の日。歪な母子の背中を見送り、後ろめたさに苛まれながら辿った帰路の途中にある工場跡。タマキはコンクリートのざりざりした手触りを感じながら、焼けつくような夕焼けの光を背負った黒っぽいなにか≠ノ組み敷かれていた。
 熱く湿った生臭い吐息を何度も吐きかけられて、彼は初め、そのなにか≠犬なのだと思った。というのも近所に大きな犬っころを飼っていた優しいおばあさんがいて、そこの犬はいつもタマキを見るたんびに彼女の手繰るリードを振り切って飛び掛かってくるので、またあの毛達磨がじゃれついてきたものだとばかり思い込んでいたのだ。
 タマキが自身に飛びついてきたものが犬などではないと気付いたのは、今はもう稼働しなくなって久しい廃工場に引っ張り込まれて、薄手のTシャツの裾から異様に熱い手を差し入れられたときだった。乾きかけの汗でべたべたした脇腹を爪の腹でなぞるようにまさぐられながら、タマキは困惑に何度も目をぱちぱちさせて硬直していた。
 やがて真っ黒な影と痛いくらいに眩しい光のコントラストで惑わされていた視界が、瞬きごとに安定を取り戻す。そしてとうとうその正体を鮮明に捉えたとき、タマキの戸惑いは解消されるどころかより深まって、ただ呆然とするしかなかった。
 タマキに馬乗りにのしかかって夢中で少年の柔肌を撫ぜるそれは、見も知らぬ男だった。黒いキャップに黒のポロシャツ、そして黒のジーンズと黒のスニーカーを履いた、二十代後半から三十代あたりの男だったと思う。
 黒ずくめの男は変にきらきらした目でタマキを熱心に見つめていた。荒々しく息を切らせながら、タマキの身体の隅々までもを暴かんとしていた。
 彼にはあの可愛い毛むくじゃら以外の奴がどうしたってこんなにもびったり身を寄せてくるのか意味がわからなかったし、それが言葉を交わした覚えもない人間相手ならなおさらのことだった。ひとつだけ頭に過ったのは、「なにかよからぬことをされそうになっているのじゃないか」という確信のない懸念のみ。
 しかし遅すぎる危惧にもがいた手足に、男の害意をはね退ける力は少しも宿っていない。それどころか反抗を煩わしく思ったのだろう男に強かに頬を張られて萎縮したタマキは、僅かな抵抗の意思さえ封じ込められて縮こまってしまった。

―ご……ごめんなさ、い……」

 少年のか細い言葉に男はたった一瞬だけ手を止めた。
 止めたけども、それだけだった。
 瞳に宿る異様な光を見るに、なにもひとかけの良心を取り戻したという様子でもない。それどころかざらついた手にさらにじっとりとした熱を滾らせながら、粘っこい息を吐いて舌舐りをしていた。
 虚ろな謝罪が口を衝いて出た理由は、当時にはもちろん今になって思い返してみてもタマキ自身にさえ測れない。ただ当時のタマキ少年には泣き喚いて謝り続けるしか、この恐ろしい状況から逃げ出せる術が思い浮かばなかった。もちろんそれでどうにか許してもらえるのではないかというのは彼ひとりきりが抱いた甘い幻想だったわけで、実際のところいたいけな少年の弱々しい態度は男のサディズムと興奮を煽っただけだったのだろう。
 汗でぬるついた硬い手のひらがタマキの肌のその奥、骨や内臓の形までもを確かめるように胴を鷲掴みにする。引き千切られるかと思うほど乱暴に脱がされたTシャツの布地の合間から、男がけだものの眼差しでタマキを射抜いている。
 何度謝罪を重ねたか知れない。喉から血を吐くほど謝ったにも関わらず、男に哀れな少年を解放するような心積もりはちらとも見えない。さんざっぱら柔い肌に手汗を染み込ませていた男が、とうとうその首もとに顔を埋めて熱い舌先を伸ばす。
 タマキは、もう声も出なかった。きっとこのまま男に食われるかどうにかして死んでしまうのだと思った。わけもなくひび割れたコンクリートを指でなぞりながら、彼は目を閉じた。そうするしかなかった。これ以上恐ろしいものを目に入れていたくなかった。

 だから、タマキはその瞬間は見ていない。

 聞こえたのはどこかくぐもったような鈍い音。頬に熱いような温いような液体がぱたっと散ったのに仰天して、ようやく彼は目蓋を上げた。

 そしてタマキ少年は、血塗れの瓦礫石を手に呆然と立ち尽くす兄の姿を目の当たりにしたのだ。


―――
22/04/17


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