◎タマキくんのママ、ミユキちゃん視点
豊年深雪は救われたい
マンションの覗き穴越し、やけに大荷物な彼を目にしたときから、なにか嫌な予感はあったのだ。
されど後悔は先に立たず。私の誤りはすでに過去のもの。観念してドアを開けると、両手にレジ袋を重たそうにぶら提げたミツヒコくんは嬉しげにきらきらぴかぴかしていた顔を一層びかびかに輝かせた。夕闇に沈んだマンションの共同廊下に置いておくには、些か眩しすぎる笑顔だ。
躊躇いを振り払って、私は彼の眼差しを真正面から受け止めて訊く。
「なにかそういう……冗談の類いだったりする?」
「なにが?」
しかし、一縷の期待を込めた希望は敢えなく打ち砕かれた。
レジ袋に薄っすらと透けて見えるものが、いっそ暗闇が創り出した幻影でありはしないだろうか――。そんな思いで彼の両手にひとつずつある袋をそれぞれ覗き込んでも、そこにレタスが三玉と牛のステーキ肉のパックが八つある現実はやはり変わらない。私の薄っすらとした絶望なんて露知らず、依然として「おつかいできたよ!」の無邪気な喜びを前面に押し出す恋人に実家の犬を幻視して、数瞬の間、最早言葉さえ失う。
痛み出しまでした額を指で押さえながら、私は殊更ゆったりとした語調を心がけて、彼に続けざまに訊ねた。
「これは確認なんだけど、私がお願いしたものは覚えてるかな? ミツヒコくん」
「うん。だから買ってきたぞ! キャベツと豚肉!」
「ウーン、ちゃんと覚えてて偉いねえ……」
自信に満ち満ちた柴犬のごとき顔が、雄弁にお褒めの言葉を求めてアピールしてくる。ひと思いにぶん殴ってやりたいのに、この顔が可愛すぎて手が出せない。
――まいったなあ。
心底困り果てて、内心で独り言つ。
どうやらミツヒコくんは本当にキャベツとレタス、豚肉と牛肉の区別がついていないらしい。
正直言って、実家住みの男の炊事への興味関心のなさを舐めていた。まさか商品名もろくろく確認せず、フィーリングで購入してくるとは。
直前になって宅配の荷物が来るのを思い出したからたったひとりで買い物に向かわせてしまったのだけれど、これは完全に悪手だったようだ。ミツヒコくんに留守番を頼んで、私が買い出しに行けばよかった。
というか、買い間違い以前にたったふたりしかいない鍋パーティーでこの量はおかしいと、少しでも思ってはくれなかったのだろうか。ぱんぱんに詰まったレジ袋にちらりと視線をやって、すぐに見ていられなくなってまた目を逸らす。
常識的に考えてほしい。仮に私たちが食べ盛りの男子高校生であったとしても、さすがにキツい。特にレタスが嵩張る。大は小を兼ねるって言っても、さすがに限度があるんだよ、ミツヒコくん。
「……とりあえずはお買いもの、どうもありがとう、ミツヒコくん」
ひとまず私は彼の努力のみを評価することにした。すると、彼はあからさまににこにこてれてれとして嬉しそうにうんうん頷くものだから、堪らない。
私にひとこと褒められることのなにがそんなに嬉しいのかはよくわからないけれど、その無邪気さは私の未だ僅か残っていた怒りを削いで、そっくりそのまま遣る瀬なさへと変えてしまうにはじゅうぶんすぎるほどの威力を有していた。
「……それと、今晩の献立はお鍋じゃなくてステーキとサラダになっちゃうけど、いいかな?」
「ミユキのご飯はなんでも美味しいから、いいぞ!」
「複雑な気分だなあ……ありがと。食材、全部キッチンに持っていってもらってもいい?」
「うん!」
今にも小躍りせんばかりにうっきうきな背中を黙って見送って、込み上げかけたため息を無理に飲み下す。そうしてから私は、玄関脇に設置している卓上電話機に向き合った。
受話器を肩口に挟んで耳に添えながら、ボタンを押していく。その指に迷いは宿らない。親しい間柄相手の連絡先ぐらいは、電話帳を見ずとも当然頭に入っている。
最大の問題は、電話先の相手が在宅していて、かつこの時間にもなって夕飯の当てがないままでいてくれているのかどうかというところなのだが。
ぱっと目を引く艶やかなレッドのボディをなんとはなしに指でつつく。コール音を鳴り響かせる受話器の向こうへと耳を傾けながら、私は心の中で無機質な呼出音を数えた。
ひとつ。
ふたつ――。
「――……はい、イシワタリです」
果たして、ふたつめのコールが鳴り終わらないうちにお目当ての声が受話器から返る。私は少しだけ頭痛が和らいだ気がした。
電話の向こうの声の主は、石渡左橋くん。私とミツヒコくんの職場の同期にあたる人物で、共通の友人だ。
「もしもし? 豊年です。突然ごめんなさいね、イシワタリくん。……電話、かけても大丈夫だった?」
「――トヨトシ? なんだ、あなたか。問題があれば端から出ません。……なにかありましたか? まさか、出先ではありませんよね?」
電話越しに聞く彼の声音は普段よりもさらに硬い。恐らく急な仕事を警戒してのことだろう。職業柄、お互い夜分の電話にはいい思い出がない。
加えて、私たちの今晩の食事の予定はイシワタリくんも知るところだった。予定を立てた時点で、ミツヒコくんがはしゃいで親しい人たちに自慢して回ったせいだ。
中でも特に、彼はミツヒコくんと小学生からの長い付き合いがあると聞く。そのせいで何遍も同じ話を聞かされてうんざりしていたのを度々見かけていたし、「早くこいつを回収しろ」と目で訴えかけられたのは一度や二度のことじゃない。
彼がわざわざ口に出して言うことはなかったけれど、きっとそれらも含めて「タカハチと一緒にいるはずなのに、わざわざ自分に連絡をつけるほどのことが起きたのか」と心配してくれているのだろう。イシワタリくんには、他人に対する優しさや気遣いをわかりやすい形で表に出そうとしない、いじらしくも不器用な慎ましさがある。
彼の優しさに自身の見通しの甘さとミツヒコくんのお馬鹿さ加減が申し訳なくなって、私は意味もなく指に巻いて絡めた髪をくっと引っ張った。
「うん、家にいるわ、心配しないで。……それでね、イシワタリくんさえよければなんだけど、一緒にお夕飯をどうかと思って」
「……、は」
ほんの一瞬だけ重たい沈黙が差し挟まれて、直後に浅いため息。電話越しにも、彼の神経質そうに細い眉が顰められたのが手に取るようにわかった。
「僕に、馬に蹴られる趣味はありませんが」
「違うのよ。違うというか……なんて言えばいいのかわからないけど、とにかく、多分、イシワタリくんが思ってるような状況とは、ちょっと違うの」
「要領を得ないな。お家デート≠ニやらの最中なんでしょう。あの馬鹿に散々聞かされたから、わざわざ改めて言われないでもわかっています。そんなところにのこのこ出向いて、お邪魔虫を演じさせられるのはごめんですよ」
「私はお家デートのつもりだったのに、いつの間にかドカ食い気絶部合宿になってたの」
「依然状況を把握しかねているところですが、面倒臭そうな事態になっていることだけはわかったのでもう切っていいですか」
「駄目よ。ここまで話させたんだもの、最後まできちんと聞いて」
「一を訊いて十をべらべら捲し立てたのはあなたの勝手です」
なんだかんだ言ってもイシワタリくんは人が好いことを知っている。彼がここで無情にも受話器を置いてしまうことがないとわかりきっていた私は、なんら気負うことなく話を続けた。
「ミツヒコくんにお夕飯の材料のおつかいを頼んでたんだけどね、彼ってばあんまりたくさん買ってきてくれちゃったもんだから、ありがたいんだけど困っちゃって」
「それぐらいのこと、他人に迷惑をかけず内々で処理してください。大人がふたりもいるなら多少の無理を押せばどうとでもなるでしょう」
「でも、牛ステーキのパックが八つにレタスが三玉もあるの」
「は? とうとう気が触れたのか? 即刻叩いて直せ」
「あんな可愛い人、叩けないわよ。無茶言わないで」
「奴は頭が狂っているが、あなたは目が狂っているようですね、トヨトシ」
ミツヒコくん同席のもと、イシワタリくんをこのマンションの一室に招いた経験はそう少なくない。流れるように罵倒を吐き捨てたあとで電話口で忌々しげに黙り込んだ彼は、我が家の台所にある小さな冷蔵庫が、ミツヒコくんと一緒に搬入を手伝ってくれたときでさえ型落ちの製品であったことを思い出したに違いない。
「……では、御相伴に預からせていただきます」
やがて彼は嘆息混じりに、実に渋々ながらも私の招待に応じてくれた。
「――が、今回限りですよ」
喜びの声を上げかけた私を見越したように、イシワタリくんはそう言って素早く釘を刺す。
「今後はこのようなことがないようにお願いしたいものですね。僕にも、予定というものがあるんですから」
「うん、わかってるわ。ありがとう。こんなに友達想いの同期がいてくれて、私たちって幸せ者ね」
「薄っぺらい世辞で機嫌を取ろうとするのはやめろ」
「本心なのに」
「どうだか」
淡々と言い捨てるなり、イシワタリくんはそこで一方的に通話を切った。明らかに私の言葉をその場凌ぎの甘言としか思っていない様子に苦笑を漏らしつつ、私もまた受話器を置く。
ちょうどそこへ、キッチンのほうで随分長いことごそごそとやっていたミツヒコくんがぴかぴかの笑顔をぶら下げて戻ってきた。
「ミユキ! ちゃんとキッチンに置いてきたぞ! 豚肉は冷蔵庫に入れて、キャベツはよくわかんなかったからキッチン台の上に置いといた! 偉いか? 偉いだろ!」
飽きもせず「褒めて!」の顔をしている。
あれは牛とレタスだし、できればお肉も使うぶんは常温に戻したいから冷蔵庫に入れずに置いておいてほしかった。
――でも、気遣いのつもりで余計な手を出しちゃうのが、男の人って感じ。
私はミツヒコくんのこういうところがなんとなく擽ったくって、憎めない。
「ウン、エライエライ。ありがとう、ミツヒコくん」
「えへえへ」
「ところで急な話なんだけど、今日はイシワタリくんも招待したからね」
私の言うことをえへえへにこにこ聞いていたミツヒコくんの顔が見る間に凍りついて、すぐさま驚愕と僅かなショックに染まる。
「……エ! なんで!?」
「やっぱり、ご飯を食べるなら人数が多いほうが楽しいかと思って。ごめんね、急すぎて怒った? 私のこと、嫌いになっちゃった? ミユキ、かなしい、くすんくすん」
「ううん! そんなことない! 大好きだぞ!!」
「うれし〜🤍 私もミツヒコくんのこと、大好きだよ🤍」
「えへえへ、俺もうれし〜🤍 でも、俺のほうがもっといっぱいミユキのこと、大好きなんだからな!」
「も〜🤍 そんなこと言ってたらきりないでしょっ🤍」
――そしてぴったり三十分後、鳴らされたインターフォンに揃ってお出迎えをした私たちの頭を、イシワタリくんは男女平等平手で順番に引っ叩いた。
具材がほぼレタスのみのサラダは山盛りに。メインディッシュに特大牛ステーキを二枚食べさせたイシワタリくんの顔色は、ここへやってきたときと比べてかなりグロッキーになっていた。ただでさえ色白だというのに、白いを通り越していっそ消え入りそうな顔をしている。
それでいて食休みも挟まず早々に帰るというから、私は彼にお土産としてレタスと牛肉のパックをひとつずつ持たせて、玄関先まで送ってあげることにした。
外はもうとっぷり暮れて真っ暗だ。コンクリートで固められた共同廊下は冷蔵庫の中みたいに寒い。着込んだセーターもものともせず、冷気が容赦なく肌を刺す。
そんな寒気の中で暑さも寒さも同じみたいに平然と立つイシワタリくんはそれどころじゃないように、本当に嫌そうに手に提げたお土産を見つめている。食材に対して失礼だ。悔い改めたほうがいいと思う。
「イシワタリくん、」
「なんです?」
呼べば、イシワタリくんは食材を睨むのをやめてこちらを見る。
ミツヒコくんはお見送りにも出てこられないほどすっかり酔い潰れて、今もリビングでふやふや夢見心地でいるはずだ。暫くはまともに起き上がれもしないだろう。
私はそれですっかり安心して、秘めていた心を目の前の友人へ打ち明けるため口を開いた。
「……あのね、ここだけの話にしてほしいんだけど、実は私、結婚願望ってなかったの。ううん、なかった≠チて言うより、今もないって言うほうが正しいかも」
今以上にすごく嫌そうな顔をするだろうなとは思ったけれども、案の定ものすごく嫌なことに巻き込まれたみたいな顔で、イシワタリくんは睨むとも見るともつかない感じで再度私をじろりと眺めた。
「それは、結婚秒読みにもなって僕にする話ですか?」
「他に誰に言えって言うの?」
「まず、僕が選択肢に入ってくるのがおかしいでしょう。早すぎる婚前鬱ならあなたの恋人と解決しては? 一友人に過ぎない僕を巻き込むなと言っている」
「でも、こんなこと言っちゃったら、三か月前から私に隠れてこそこそプロポーズの準備してくれてるミツヒコくんが可哀想じゃないの」
「寒空の下でどうせくだらないだろう話を聞かされる僕ほどには、奴を哀れむ必要はないと思いますがね」
「私にとってイシワタリくんは別に可愛くないから、あんまり可哀想じゃないかな」
「この女……」
それにしてもイシワタリくんたら、寒いっていう感覚を一応捨ててはなかったのね。全然へいちゃらみたいな顔して、ちゃんと寒いんだ。
私はその事実がなんだか無性に面白いような気がして、氷みたいな玄関ドアに寄りかかりながらくすくす笑った。アルコールに弱いつもりはなかったけど、これで私も自分で思うよりずっと酔いが深まっていたのかもしれない。
「私たちの仕事って、謂わば危険職でしょう。いつどうなるか、明日の自分が今と同じように生きているかなんて、普通の人よりわからない職に就いてる」
「……まあ、そうですね」
なんだかんだ言ってもやっぱりイシワタリくんは人が好いから、私みたいな酔っ払いの戯言もきちんと向き合って聞いてくれる。
「だからね、私、この業界に入ったときに思ったの。『結婚なんかしたくないな』って。だって、好きな人なんてできたら、きっと私はその人の子供がほしくなっちゃうの」
――この世界の人間として生きていくからには、終生結婚なんてしない。こんな場所で恋愛がどうのなんて心持ちでやっていけるわけもないのだ。仕事ひと筋に生きて、そうして死んでいく。
ふわふわ浮ついた気持ちは、ライセ様に見出だされたその日に綺麗さっぱり全て切り捨ててきたのだから。
……あの頃、今よりももっと若く幼かった私は、心からそう思っていた。自分なりに固い決意を懐いて、この危険と隣り合わせの世界に飛び込んだつもりだった。
「それで子供ができたとして、私はその子の将来に責任を持てない、最低なママになっちゃうのよ」
それがこんなにも簡単に揺らがされてしまうなんて、少しも、ちらとも考えたことはなかった。きっとこんなもしも≠フ未来を語ることさえ、過去の私に対する手酷い裏切りに違いないのに、現在の私はそんなこともすっかり忘れてしまったみたいだった。
「……そうなるとは、限らないでしょう」
もう一度、「そうですね」なんて、同意してくれはしないかしらと思っていた。私の甘ったれた気持ちなんて全て見抜いていたかのように、イシワタリくんはやんわりとした否定を返した。
そのことに、力が抜けるような安堵を覚えた。自分自身、誰になにを言ってほしいのかがわからなかった。混乱していた。
「……そうね。でも、それって同じことなの。どっちに対しても、そう言えることなのよ。そして普通の人よりも望まないほうへ傾いてしまう可能性が高いってことが、私はすごく怖かったの」
固い決意≠ネんて言ってみせたって、たったひとりの男に溶かされてしまう程度の心持ちなんて、ほとんど気の迷いと変わらない。結局私は、自分の思い通りにできない未来が来てしまうかもしれないことにずっと怯えていただけだった。
ただそれだけだった。
「ほんとはお付き合いなんて誰とも、ミツヒコくんとだってするつもりなんて、ちっともなかったのよ。マ、人生って往々にして思い通りにいかないものよね。たかだか二十の小娘が、悟ったように語っちゃうけどさ」
「確かにあなた、人当たりはいいくせ、数年前までは妙に気を張っていて付き合いが異様に悪かったですし、タカハチのこともよくあしらっていましたね。いつの間にか根負けしていたようですけれども」
「だってミツヒコくんてば、本当に執拗かったし……、なにより可愛かったんだもん。今だってそうよ、ずっと可愛いの、彼」
「僕には、あの幼稚でむさ苦しい男のいったいどこが可愛いのか理解しかねますが」
「わかるまで教えてあげてもいいわよ。聞きたい?」
「耳が腐るから聞きたくない」
「失礼ね。……それでね、ええと、なんだっけ」
「『誰とも交際するつもりはなかった』?」
「ああ、そう、それ」
イシワタリくんが少し気疲れしたように腕を組んで足を踏み変える。こんなたくさんの荷物を持たせたまま長々と話に付き合わせるつもりはなかったのに、次から次へ口から言葉が溢れ出してくるようで止まらなかった。
「そう、そうね。そう思ってたんだけど、でも結局、こんな関係になっちゃったし。ここまできちゃったら、ミツヒコくんには私がいてあげないと駄目なのかもって。だって、ひとりじゃキャベツも豚肉も買ってこられない人なんだもの」
「……今日の体たらくが決定打になるなんて、海のように寛大なお心に感じ入るばかりですよ」
イシワタリくんは理解しがたいものを見るような目で私と、私の後ろにあるドアを見比べた。多分、ドアの先にいるミツヒコくんを見通していたのだろう。
「そうは言っても、僕にこんな話を持ち出すくらい不安があるなら思い直したほうがよいのでは? 結婚なんて大事を一時の気の迷いと勢いで決めるべきではないですし、なにより奴の躾は困難ですよ。僕はもう随分懲りました」
「もう、相変わらずイシワタリくんったら、ミツヒコくんには況して辛辣ね。ほんとは仲良しのくせに」
「然して酔ってもないのに絡むな。結局なにが言いたいんです、あなたは。背中を押してくれるだけの人間がほしいと言うなら、僕は明らかな人選ミスですよ。余所をあたってください」
どうやら彼の目には私が素面に見えているらしい。散々アルコールとの勝負に打ち勝ってきた姿を見せてきたのだから無理もないだろう。実際私自身、自分が酔っているのかいないのか、なんだか判然としない。
それでも気持ちが弱っているのは確かなんだから、少しくらいいつもの冷淡なスタンスは捨てて、迎合するような生暖かいことを言ってくれてもいいのに。
さっきは彼のその変わらなさを好ましく思ったくせに、今は正反対のことを考えている。
だから、やっぱり酔っているのだろう。心がアルコールに振り回されて、急な電話一本にも駆けつけてくれる彼に対して、こんな友達甲斐のないことを考えてしまっているんだわ。
情緒不安定だ。自己嫌悪に塗れて、なにもかも打ち捨ててしまいたいような気持ちになってくる。
イシワタリくんの言う通り、これがマリッジ・ブルーというものなのだろうか。
「……まあ、タカハチはアホですが少なくとも善人と呼ばれる部類ではありますし、比較的人間としての完成度は高いアホなので、手綱さえしっかり握っておけばそう不幸になることはないでしょうが」
私があんまりしょぼくれた顔でもしていたのか、イシワタリくんは咳払いをひとつ溢すとぼそぼそ言い出す。
どことなく言い訳染みて、気まずげな語調だ。彼らしくない態度にまた笑いが込み上げる。
「……やっぱり、イシワタリくんって、結構ミツヒコくんのこと好きよね」
「気持ちの悪いことを言うな。付き合いが長いなりに奴の為人への理解があるだけです」
本当に嫌そうな顔だ。今日だけでこの顔をもう何度見たことだろう。
「言っておきますが、あなたに対してもそうですよ」
「なにが?」
「まだ大した付き合いでもないですが、それでも僕はあなたの食えない性格をある程度理解しているということです。少なくとも僕の知る豊年深雪は、立ちはだかる障害になすがまま翻弄されてくれるような可愛げのある女じゃない」
「……褒めてくれてる?」
「お好きな解釈でどうぞ」
「わかった、褒めてくれてるのね」
にこにこ笑う私に大息するイシワタリくんはいよいよ殊勝な素振りも脱ぎ捨てて、すっかりうんざりした様子だ。
「まったく、この寒いのにどれだけ時間を取らせるつもりですか。もうそろそろ気は済みましたか?」
「うん、ちょっと吹っ切れちゃった。ありがとう、イシワタリくん。お礼にもう一枚、お肉持ってって」
「いらない」
一度も振り返ることなくそのまま帰っていったイシワタリくんの背中を見送って暫く。きんきんに悴んだ手を擦り合わせながらに部屋に戻ると、ミツヒコくんがリビングを出てすぐの廊下に転がっていた。どうやら、私を追いかけようとしてここで力尽きたらしい。
床でもぞもぞ蠢く彼に小走りに駆け寄って、胸に寄りかからせるようにして抱き起こす。ミツヒコくんは爽やかに青い目を今ばかりは熱っぽくとろんとさせて、私をのろのろ見上げた。
ウーン、可愛い。彼ったら、どうして一挙手一投足全部が私の心の柔いところをこちょこちょ擽るんだろう。後にも先にも自分と同年代の男の子を可愛く思うなんて、これっきりだと思う。
「ミツヒコくん、大丈夫? お水、持ってこようか」
「ミユキこそ、結構飲んでたように見えたけど……大丈夫なのか?」
しまった。そうだった。彼の前ではカワイコぶってお酒に弱いふりしてたんだった。私は内心慌てながら首を横に振る。
「ううん、泥酔だよ。今もミツヒコくんが五十人ぐらいに分裂して見えるの」
「そっか、そうだよな……」
こんなとき、ミツヒコくんが基本的に私の言葉を疑わない人でよかったと心底思う。
「あのさ、」
「うん、なあに?」
私の胸に埋もれたままでもごもご言う彼の顔を覗き込む。アルコール漬けの青い瞳は零れそうに潤んでいて、少し眠たげだ。
「……名字さ、お揃いにしないか?」
――これって、ほんとに三ヶ月前から用意してたプラン通りなのかしら。酔った勢いでぽろっと口に出しちゃったんじゃないの?
そんな疑問が浮かびつつも、プロポーズに舞い上がる心はそれ以上の軽やかさでぐんぐんと宙を目指す。
お揃いの名字ってことは、つまり、高蜂深雪になるってこと?
そうね、響きとしては、まあ、悪くない。――ウソ。ほんとは抜群に好いと思う。つい口元がだらしなく緩むのを指先でぐっと抑えつける。
嬉しいことに変わりないけれど、やっぱり一世一代のプロポーズはアルコールが抜けた状態で聞きたくて、私は腕の中に抱えていたミツヒコくんを投げ捨てて立ち上がった。ごつんという音がしたが、まだ寝こけているようなので平気だろう。気にせず急いでリビングへ駆け戻って山盛りの氷を入れたジョッキに水を注ぐと、それを彼の背中に全て流し込んだ。
「うわあっ! なんだ!?」
さすがに飛び起きたミツヒコくんが、目を剥いて私を見る。
「ごねんね。ミツヒコくんにお水飲ませてあげたかったんだけど、べろべろに酔ってるせいで手元が狂っちゃったの。ミユキ、うっかり」
「そっか……酔ってたんなら仕方ないよな……」
相も変わらずミツヒコくんの目は私限定で濁りきっていて現実が見えていない。それにつけこんでいる私が指摘することでもないけれど。
幾ばくか酔いが醒めたらしいミツヒコくんは、びしょびしょの床に座り直して私の顔をじっと見つめた。
「話を戻すけど、豊年蜜彦って、素晴らしく語感がいいと思わないか?」
「あ、そっち?」
「俺な、自分の名字を好きな人の名字にするのがずっと夢だったんだ」
そう言われちゃうと、悪い気はしない。
なんとなく、結婚と言えば女が男の家に入るものとしてわけもなく受け入れていたけれど、高蜂深雪も豊年蜜彦も、どちらも名前の響きは悪くない。
「そういうことならいいよ。お婿にもらってあげても」
「ほ、ほんとか!」
「うん、ほんと」
頷いて、特に理由はないけど彼の頬をぺたぺた触る。ミツヒコくんの瞳がきらきら輝く。青々とした虹彩の中に映る私は、鏡で見るよりなんだか綺麗に見えた。
「だってあなた、私がいないとろくにお買いものもできないんじゃない。こんな危なっかしい人、そこらへんに放り捨てられないでしょ」
言ってしまってから気付いた。同情で結婚を決めたみたいに聞こえたかしら。
「……そ、そっか。お前が俺と一緒になってくれるって言うなら、理由なんかどうだっていいんだ。嬉しいぞ」
案の定ミツヒコくんはしょぼんとしてそんな健気なことを言うから、私は彼の胸座を掴んで手繰り寄せてむちゅっとキスをした。
すっかり冷えて冷たい唇をくっつけながら彼のことをまじまじ見る。ぼやけて見えるくらい近くにあるふたつの青い目玉が、びっくりしたようにぱちくり瞬く。大きいなりして、子供みたいな顔するんだから。
「もう、そんなふうに誘惑しないで、カワイコちゃん」
「し、してない。……いや、した!」
「どっちなの。どのみち、今日はえっちしないよ。明日は早いんだから。あなたの体力に付き合ってあげられないの」
「えーっ!」
私に巣食った湿っぽさを吹っ飛ばすほど豪勢なブーイングだ。彼と一緒にいると、ナイーブになる暇がない。
「……ほんとにミツヒコくんって、魔法みたいな人ね。だから私、あなたとなら結婚してあげてもいいって言ってるの」
私のせいではあるけども、いつまでもずぶ濡れのまま寒々しい廊下に座っているわけにもいかない。ミツヒコくんの腕を引いて立ち上がらせながらに言うと、彼は自分こそ魔法にかけられたみたいに不思議そうな顔で私を見上げた。
「臆病な私にも、ミツヒコくんと一緒なら不幸になる隙もなさそうって思わせてくれる、恋の魔法がかかってるみたいだなって。
……なんてね。さすがにクサい?」
瞬間、両腕にぐわっと下に引く大きな力がかかった。思いもしない反撃に抗う術はなく、私はほとんど一直線にミツヒコくんの胸の中に飛び込んだ。
風邪を引いちゃう前にミツヒコくんをお風呂に入れてあげなくちゃいけないのに。
言葉もなく、それでも喜色満面の彼の腕を振り払うことができなくて、私も大きな背中をぎゅうぎゅうに抱き締め返した。
この瞬間を、私はきっと生涯忘れることはないだろう。
比類なき、宝物のように輝く大切な思い出を――。
――きっと、これが走馬灯と呼ばれるものなのだろう。脳裏で逆巻くように目まぐるしくちらつく記憶の奔流を断ち切ることもできず、私は床に転がっていた。
誰も悪くない。
本当よ。本気でそう思ってるの。
ミツヒコくんは素敵な旦那さんだったし、ミツユキもタマキも可愛いばっかりで。こんなに短い間だったけど、あなたたちの家族になれたことが人生で一番素晴らしく誇りに思えることだって、胸を張って言える。
あなたたちは誰も悪くない。
だから、そうね。きっとママが全部いけなかったの。
弱くてごめんね。あなたたちふたりのこと、ちゃんと守ってあげられなくて、本当にごめんね。
全身が痛い。起き上がれない。タマキがこんなに泣いてるのに。
おかしいな。私の腕も脚もお腹も、あんなに遠くにあるのに、ばらばらにされたはずの身体がまだ全部繋がってるみたい。もうない首から下が、痛くて痛くて仕方がない。
激痛が齎した錯覚か、視界は一面真っ赤に染まってなにも見えない。
だけどね、ミツユキ。あなたが今、私の前にいることだけはわかる。
だってママだもの。それぐらい、すぐにわかるわ。
だから、ねえ、お願い。
「みちゃだめ……みちゃだめよ、ミツユキ」
そう伝えようにも喉から空気が出ていくばかりで、まともに声も出せやしない。それでも私は母親としてあなたを遠ざけたかったから、必死に口を動かし続けた。
傍へ寄らないで。
すぐに後ろを向いて、部屋を出ていって。
こんなふうになっちゃったママのこと、これ以上見ないで。
どうせ死んでしまうなら、せめてあなたの思い出の中にはいつもにこにこしていて綺麗なママだったって、遺してほしいの。
どうして自分がこんな状態になってもまだ息があるのかがわからない。
明らかに底意地の悪そうな顔をした、賢しげな女妖だった。今はもう尻尾を巻いて逃げ出してしまったようだけど、この現象が彼女の最後の腹癒せなのだとすれば、きっと私は相当な痛手を食らわせてやれたのだろう。
そうね。イシワタリくんの言う通り、確かに私、やられてばっかりの女じゃなかった。だって、可愛いタマキに手をかけようとした忌々しい怪異にひと太刀浴びせかけて、その上追い払いまでしてやったんだもの。
イシワタリくんが見たら、「やっぱり可愛げのない女だ」って、また褒めてくれるかしら。
なんだか笑えてくる。
次に虚しさが襲って、最後に絶望が私を隙間なくぴったりと閉じ込めていく。
『我が子を守れたのだから悔いはない』
なんて、そう言えたら格好よかったのにね。
でも私、まだ死にたくないの。
思い出になんてなりたくない。
まだ、まだまだみんなと一緒に生きていたいよ。だってまだみんなとしたいこと、行きたい場所、たくさんあったのに。
まだなにも、やりきれてないのに。
死にたくない。
――死にたくない!
「しにたく、ないよぉ……」
たすけて、ミツヒコくん。
――――
23/09/20
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