君と海と甘味

 とあるマンションの一室の扉を開くと海が広がっている。比喩ではなく実際に白い砂や青く澄んだ空、穏やかに波打つ海面が目に飛び込んでくるのだ。ここは陀艮の領域によって再現された空間だが、領域の主は水面から顔を出して揺蕩うばかりで誰かを攻撃する意図はない。
 浜辺に並べられたビーチチェアの上では脹相が仰向けに寝転んでいた。彼と陀艮以外の者は皆外出している。その中でも脹相が帰りを待ち望んでいるのはただ1人だった。彼女が買い物に行くと告げて出てからどれくらいの時間が経っただろうか。眼前の青を眺めることに退屈してきた脹相が一眠りしようかと考えていると、扉を開ける音が聞こえた。視線を向ければ待ちわびていた彼女がいくつかの紙袋を持って立っていた。

「ただいま」
「...おかえり」

 苗字に教えられた挨拶を返す。彼女は満足気に微笑むと隣にあるビーチチェアに荷物を下ろした。

「今日は何を買ってきたんだ?」
「服と雑誌と化粧水とー」

 苗字は楽しそうな様子で紙袋を指さしていく。脹相の記憶が正しければ先週も同じ量の紙袋を抱えていたはずだが、結局は彼女が笑顔になるのなら何でもいいと思うのであった。
 紙袋に紛れてひとつだけ白いビニールの袋があった。苗字は戦利品報告の最後にそれを持ち上げ、脹相へと手渡した。

「これは脹相君にお土産。気に入ってくれると嬉しいな」
「土産?」
 
 袋を受けとって中身を取り出す。出てきたのは長方形の箱。適当に白い包装紙を剥がすと竹皮を模した箱が現れた。中には何やら半透明の物体が花葉色の粉にまみれた状態で詰められている。竹製の楊枝が付属しているので和菓子の類のようだが、脹相は首を傾げた。

「これは何だ?」
「わらび餅だよ。和菓子だから知ってるものかと思ってた。脹相君の時代にはなかったのかな?」
「分からないが、俺は初めて見たな」
「そっか。美味しいから食べてみてよ」

 苗字に促され、脹相は竹の楊枝をわらび餅に刺した。半透明の物体は思いのほか柔らかく、重力にしたがってだらりと伸びたので、落とさないよう口に運ぶ。ほのかな甘みと独特の食感を持つ食べ物だ。脹相が飲み込んだのを見て、苗字が言った。

「どうだった?」
「美味いな」
「良かった! 私もそれ好きなんだよね」

 脹相の返答を聞くと苗字は破顔した。脹相はこれが彼女の好物であるとことをしっかり脳に刻む。そして腰掛けている位置から横にずれて、自身の隣をぽんぽんと叩いた。察した苗字がこれまた嬉しそうに彼の隣に座ると、口元にわらび餅が差し出された。

「ほら、名前も」
「ありがとう」

 彼女が小さな口でもぐもぐと頬張るのを脹相はじっと見つめている。苗字は照れてたのか「脹相君ももっと食べて」と一言。
 本来ならば美しい日本庭園でも眺めながら縁側で食べるのが風情があるのだろう。しかし2人にとって重要なのは場所ではなく、隣に誰がいるのかということだ。さざなみの音に耳を傾けながら、わらび餅に舌鼓を打つ。浜辺と和菓子。呪霊と呪詛師。奇妙な組み合わせだが、それを指摘する無粋な者は誰もいない。

「お茶でも淹れたら良かったね」
「陀艮の領域を解かねばならん」
「そしたら元の室内か。ちょっと味気ないなあ」

 苗字はそう言うと脹相に凭れかかった。筋肉質な身体が当たり前のように受け止める。触れている部分からじわりと熱が広がっていき、言葉を交わすよりも何か温かい感情が心に溢れる。彼らは長い間、身を寄せ合っていた。





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