九尾狐-2-
高専の1年生の教室では通常通りの授業が行われていた。五条は自身とサイズ感の合わない教卓の横で、生徒たちにプリントの束を見せる。

「んじゃーまずは昨日の小テスト返却を、」
「すみません、授業中失礼するっス! 緊急事態が発生したっス!」

突然開かれたドアの方を見ると、新田がタブレットを持って立っている。彼女の慌てた様子を見て、五条は嫌な予感がした。

「何があった?」
「任務中に苗字さんが...九尾狐が完全顕現したっス。暴走状態に陥って、伊地知さんと現地の窓の方々が結界で閉じ込めてるんスけど、壊れるのも時間の問題っス。五条さんは今から現場に向かって欲しいっス」
「分かった。すぐにトぶから場所を教えて」
「ここの神社っス」
「悪いねみんな、今日の授業は全部自習だ」

五条が差し出されたタブレットを覗き込んだ後、生徒たちに向き直って言うと、即座に伏黒が立ち上がった。

「五条先生、新田さん。俺も行かせてください」
「俺も行く」
「私も」

続いて虎杖と釘崎も立ち上がり、全員の真っ直ぐな瞳が大人たちに向けられる。彼らと苗字に親交があることをよく知っている五条は念を押した。

「...きっと今の名前は平気で攻撃してくるよ。死ぬ気で戦わないと止められない。それでも行く?」
「行きます。必ず止めます」

力強く宣言した伏黒を見て、五条は満足そうに頷いた。

「...よし、全員近寄って。術式でトぶよ」


教室から現地までは一瞬だった。五人に気づくと、顔面蒼白の伊地知が駆け寄ってくる。

「五条さん! 助かります!」
「伊地知、もうちょっと踏ん張っといて。今回は頼もしい生徒たちがやってくれるから」
「だ、大丈夫でしょうか...。一度目よりも凄まじい呪力ですが...」
「大丈夫だよ。まあもし何かあったら僕が止めたらいいし」
「分かりました」

伊地知から手短に状況を聞き出し、五条は彼の生徒たちの前に立った。

「恵、悠仁、野薔薇。この中に名前がいる。戻すには呪力を消費させるか、気絶させるのが一番手っ取り早い。一応僕も結界内にはいるけど、余程のことがない限り、手助けはしないつもりだ。君らが止めるって言ったから、僕はそれを信じるよ」

伊地知の手助けに入った新田の隣を通って四人は結界に足を踏み入れた。
眼前には九本の尾を持つ巨大な狐が現れた。人を丸呑みしてしまいそうな巨躯から、普段の戦闘時とは段違いの禍々しい呪力を放っている。九尾狐は咆哮すると、臨戦態勢に入った。

「オ"オォッォォア"ァアアアア」
「悪い、名前さん! 目覚ましてくれ!」
___逕庭拳

先手を取ったのは虎杖。地面を蹴って高く跳んだ彼の一撃が前足に炸裂する。痛みに唸りをあげる九尾狐に、すかさず釘が放たれた。

「ちょっと痛いかもしれないけど!」
___芻霊呪法「簪」

九尾狐は痛みに声を上げるが、傷口はすぐに塞がっている。攻撃を受けると同時に反転術式を使っているようだ。攻撃を繰り返していけば反転術式による呪力の大量消費で追い込める。戦闘経験を積んできた1年生たちはすぐに気づいた。
九尾狐が咆哮を上げ、足を振りかざす。爪は青い炎を纏っている。伏黒は苗字との戦闘を思い出し、影絵を作った。

「苗字先輩の術式くらい知ってんだよ」
___満象

満象の水で炎を掻き消す。勢いは弱めたものの、逃げ遅れた伏黒は腕を掠めてしまった。追撃で彼が弾き飛ばされる寸前、虎杖が前足を殴って軌道を変える。

「グゥウオ"オォオォォォオ"オ"」

襲いかかる巨大な爪、牙、炎に連携を駆使して対処する。三人は互いに補い、かつ確実に攻撃を決めていく。それぞれ火傷や多少の傷は受けているものの、十分に動けている。

「...いいね、全員手加減なしだ。この様子じゃ、僕の出番はないかもね」

苗字は準一級術師だが、今の状態の九尾狐はもっと等級が上がっているはずだ。それに張り合っている一年生を見て、五条は彼らの成長を嬉しく思った。八十八橋での彼らの活躍を直接見ることが出来なかったのもあり、彼は手を貸さずに見守ることにした。


真っ暗な空間で、苗字の脳内は洪水のように溢れかえる言葉でかき乱されていた。
「なんで」「知りたくなかった」「自分だけ」「どうして」「知らない」「あの女のせい」「放っておいて」「好き」「もう二度と」「いつまでも」「あの男が悪い」「ずっと一緒」「嫌い」

「嫌だ、なにこれ...」

身体は重く、頭は締め付けられるように痛む。黒くてドロドロしたものが全身を飲み込んでいくような感覚。

「置いておかないで」「忘れないで」「大嫌い」「覚えていて」「もう一度」「さようなら」「愛してた」

「誰なの、ねえ、やめて...!」

知らない声から逃げるように頭を抱えて座り込むと、昔聞いた言葉が蘇った。

「もうお前とは無理だ。やっていけない」
「どうしてよ! 私はアナタのこと、ずっと...」
「ずっと?違うだろお前だって、」
「愛していたのに...私を裏切るのね」

今は亡き両親の声だ。思い出したくない過去。振り払うようにひたすら助けを求め続ける。

「やめてよ、二人とも...!誰か、誰か助けて...!」

未だ声の嵐は止まない。黒い液体はどこからともなく絶えず溢れ、苗字に纏わりついていた。全てを振り切りたい。助けて欲しい。彼女は叫ぶ。


「オ"オ"オオアア"ああアァぁァオォッォォォッッ」

急に呪力が上がり、九尾狐の一撃が釘崎と虎杖に叩き込まれる。それを見た伏黒は思わず声を張り上げた。

「釘崎、虎杖ッ!!」
「後ろだッ!!」

虎杖が伏黒に注意を促す。振り返ると、もう一撃とばかりに大口を開けているのが見えた。血液が滴る口から炎を纏った牙を覗かせる。

__鵺

伏黒は咄嗟に鵺を出して空に舞い上がる。間一髪で避けた彼の手には、影から出した大剣のような呪具が握られている。鵺に抱えられ、九尾狐の首元まで飛ぶと、伏黒は呪具を大きく振り上げた。

「名前!! 起きろ!!」
「グオオ"オォッ...ッオオオオオオンン"」

首の後ろから血が吹き出すが、すぐに反転術式で傷口を塞いだようだ。新たに血液が流れる様子は見られない。首の再生で呪力を使い切ったのか、血液と黒い液体にまみれた九尾狐は徐々に身体が小さくなっていった。液体が完全に流れ落ちると、一人の少女の姿が見えた。伏黒は地面に降り立ち、今にも倒れそうな少女を抱きとめた。

「伏ぐ、ろ、く...」
「名前ッ...」
「名前さん!」
「大丈夫か!?」

戻ってきた苗字を見て、釘崎と虎杖も駆け出した。傍で見ていた五条がやってきて労いの言葉をかける。

「三人ともお疲れ。無事に止められて良かった。僕の予想以上だよ。早く高専に帰って名前の治療をしないとね」

五条は苗字の足元に広がる液体から、お守りのようなものを回収した。彼の特殊な目で、それが呪物になっていることがすぐに分かった。


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