帰る場所(七海)
 苗字と七海が同棲を始めたのはつい最近のことだ。都内某所の住宅街にあるマンションの一室で暮らしている。しかし現在、そこにいるのは苗字ひとりだけ。本当は二人で休日を謳歌する予定だったのに、急に七海だけ仕事が入ってしまったのだ。互いに呪術師なので仕事への理解はあるが、残念な気持ちが無いと言えば嘘になる。それでも、彼が帰ってくるのはここなのだと思えばいくらか心が晴れてきた。気を取り直した苗字は買い物へ出かけることにした。目的は今日行くはずだったパン屋だ。美味しいバゲットを買って今夜はシチューを作ろうと計画を立てるのだった。
 
 夕刻、パン屋とスーパーの袋を抱えて帰宅した苗字は早速キッチンに立った。エプロンをつけて夕飯の支度に取りかかる。新居にしてはやけに調理器具が充実しているのは、二人に共通した趣味によるものだ。良く研がれた包丁で野菜と鶏肉を切り、鋳物ホーロー鍋に入れる。焦げないように炒めて小麦粉をまぶし、牛乳と水を足していく。コンソメを加えて煮込み、とろみがつくまで混ぜる。普段はルーを使うところだが、たまには手間をかけてみるのも悪く無い。鍋から漂う濃厚な香りに苗字は口角を上げた。続いてパン切り包丁でバゲットを切ってバスケットに盛りつける。あとはレタスとトマトでサラダを作れば、彩り豊かな食卓の完成である。時計を見ると、普段七海が帰宅する頃合だった。

「建人さん、そろそろ帰ってくるかな」

 期待を込めてスマートフォンを確認したが、通知は何もなかった。残念ながら時間外労働になってしまったのだろう。仕事が終われば必ず連絡が来るので、今は待つしかない。
 ところが、いくら待っても連絡が来ない。最悪の事態が頭をよぎったが、それなら補助監督から連絡があるはずだ。悪い想像は頭の隅に追いやり、先に食事をとった。残りのシチューは器に入れて冷蔵庫へ。バケットはラップをかけてキッチンに置いた。後に回すと面倒な洗い物や風呂掃除なども済ませておく。
 ソファに寝転んでテレビをつけると、いつも七海と見ていたドラマの次回予告の最中だった。見逃してしまったようだが、別に気にならなかった。どうせなら彼と一緒に見た方が楽しい。苗字はそのまま流れる見慣れない深夜番組を眺めていた。しばらくして瞼がだんだん重くなってきたのでブランケットを手繰り寄せた。


 翌朝、苗字はベッドの上で目覚めた。柔らかな日差しがカーテンの隙間から降りそそぐ。鈍った意識が徐々にクリアになり、彼女は飛び起きた。昨日はリビングで寝ていたはずだ。隣に人はいないが、寝ていた形跡は残っている。まさかと思って彼女は部屋を飛び出した。リビングのドアを開けて呼びかける。

「建人さん!?」
「名前さん、おはようございます。昨夜は連絡も無しに遅くなってすみません。思いの外戦闘が長引いてしまいました」

 部屋着姿の七海がキッチンから顔を出し、頭を下げた。セットされていない髪がさらりと揺れる。特に大きな怪我はしていないらしい。苗字は彼の元へ行き、そっと抱きついた。

「無事で良かったです」
「...随分心配をかけてしまったようですね」

 七海が苗字の頭を優しく撫でる。彼女は顔を上げて尋ねた。

「何時頃帰ってきました?」
「日付はとっくに変わっていましたね。それから適当にシャワーを浴びて、シチューをいただきました。美味しかったですよ」
「あ、食べたんですね。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。空腹だったので助かりました」

 苗字は夜中なのに重くなかっただろうかと心配していたが、その言葉を聞いてほっとした。七海が微笑んで、もう一度ゆるりと頭を撫でた。

「パンが少し固くなっていたので、フレンチトーストにでもしようと思って準備をしていたのですが。朝食にいかがですか」
「最高ですね! 食べたいです!」
「分かりました。今から焼くので少し待っててください」
「はーい」

 元気な返事を残し苗字は洗面所へ向かった。素直な子供のようだと七海は目を細めた。
フライパンの上にバターを滑らせ、満遍なく塗り広げる。卵液に浸していたバケットを並べると、ほんのり甘い香りが立ち上ってきた。実に穏やかな朝だ。

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