黒一色で統一された部屋。ベッド、壁紙、家具と何から何まで呑みこまれそうな、黒。
「証拠」を握られ、条件をのんでから、俺が寝泊まりしているのは自室ではなく、少し前までは全く知らなかった黒い部屋。
 病院のような白一色の部屋とは対照的に、黒は自分がここにいるのかも分からなくさせる。目が覚めても、本当に覚めたのか分からない。そんな危うさがあった。
 窓もカーテンの黒に呑みこまれている。明かりを点けなければ、夜目もきかないくらい真っ暗闇の中に取り残される。まるで、そう。ドラマの中の監禁された主人公(ヒロイン)みたいだ。とは、ここで寝泊まりして何度目かに思ったことである。
 しかし、ドラマと違うのは、拘束がされていないことや出ようと思えばいつでも出られる状況にあることだ、明かりも点けられないわけじゃない。
 但し、逃げられはしない。
 アイツの手に「証拠」がある限り、条件をのんだ俺がここから逃げることは叶わない。どんなに出入りを自由にされていても、帰る場所はここしかないのだとインプットさせられては逃げ場もない。逃げたとしても、一時凌ぎにしかならないことは明白だ。
 恐らく、この取引は次の取引のための材料となり、不毛な取引となって終わらない。
 今のところ、真鍋一弥は「証拠」を大々的にお披露目することもなかった。
 いつそうなるのか。俺は怯えている。
 わけでもなかった。
 俺には、一つ確信があった。最初はなかった、一つの確信が。取引を重ねていくごとに確固たる自信を伴って。
「証拠」の行く末は、もう案じてはいなかった。
 目が覚めたついでに何も纏っていない体にシーツをまいて、リビングに出た。大分長いことこの部屋に通い詰めているからか、明かりがなくても出入り口の場所くらいは分かる様になった。後は、電気のスイッチの場所くらい。細々としたものは勿論分からないが、それだけ分かればここで生きるには十分だ。
 リビングに出た瞬間、ふわりと鼻を掠めたのは味噌汁の香りだった。良い匂いに、キッチンに視線を向ければすっかり見慣れた後ろ姿がそこにはあった。
 広い背中。夜毎、しがみつき、頼りある場所。
 ともすれば、うっとりとして頬ずりでもし、身を委ねたくなるような衝動に駆られるのは、ここ連日続く取引のせいだろう。そうでもなければ、男の背中などにうっとりしない。
 こんなひとつひとつで、俺は自分という一人の人間が作りかえられていっていることを実感する。
 根性がねじ曲がってて、自分さえよければそれでよくて、自分のためなら誰にでも阿るし、だれでも蹴り落とすようなやつが。一人の男に寄り添い、安心を得るなんて、笑い話にも程がある。
 それでも。
 夜毎爪を立て、痛みか快感か判別がつかない衝撃に追い立てられる俺の頭を優しく抱え、大丈夫だとでも言うように撫でてくれるのはコイツの手だった。楔を打ち込むたびに俺の顔を眉根を寄せながらも見て、少しでも苦しげにしようものならば止めようとして。
 この男に、女以外には見せたことが無い場所を全て暴かれて、眼前に差し出され曝け出されても、それが快感にしかならないようなところまで来てしまった。
 もう、これ以外は欲しくない。
 そう思わせるには充分だった。
「ん、起きたのか?」
 吸い寄せられるように背中に抱き付くと、真鍋一弥は首だけで振り返った。
 俺は、筋肉のある男の背中に頬ずりをして堪能した。
 いつもは、背中を見せてくれることはあまりないので知らないが、こんなにも気持ちが良いものだったのかと改めて驚いた。男の背中に頬ずりなんてしたことがないから分からないが、これは癖になりそうだ。
「どうした?」
 クツクツ、と真鍋一弥は俺が頬ずりをするのを眺めていた。
 まるで、猫になったみたいだ。
「はよ」
「ああ。おはよう」
 背中を堪能し終えて、肩口に顎をのせて挨拶をすると、穏やかな笑みを浮かべて返してくれた。
 脅して、しばりつけて、雁字搦めにして。逃げられない様にしている癖に。なんだってそんな甘ったるい目が出来るのか不思議だ。
 もしかすると、この目のせいかもしれない。逃げられなくなったのは。
 逃げ場ならあったのだ。会社を辞めて田舎に行くなり、実家に戻るなり、どこか遠いところへ行けば逃げられた。
 それをしなかったのは、この目が嘘をつかなかったからだ。いつだって全身全霊で俺に訴えかけて来たから、逃げようと思えなくなった。
「なあ」
 俺は、いつだっておまえを見てきたんだぜ? お前が、お前しか見せてくれなかったから。ちゃんと、忠実に、おまえだけを見続けてきたんだ。
 俺を脅迫する時も、起きて一緒に過ごす日も、ずっとずっとおまえだけを見せられてきた。他には何もないかのように覆い隠してしまって、麻薬のようにおまえの存在が体中に染みわたる時間をおまえといた。
「好きだよ」
 口にしたのは、どちらからだっただろうか。
 俺からだ。だって、真鍋一弥が目を瞠ったから。肩がぴくっと震え、顎を置いていたからあわすように揺れた。
 瞬時に、抱きつく手に力を込めて、また肩口から顎を退かした。顔を見られたくなかった。
「嘘だ……」
「と、思うのも分かるけどな」
 でも、そうしたのはおまえだぞ? と、言うと、言葉を繰り返した。
「おまえが閉じ込めたくせに」
 おまえの世界に。
 意図せずして出た言葉は艶やかで、ねっとりと耳を撫でるような声音だった。自分でもそんな声が出るとは思っていなくて、したり顔で笑ってしまった。
「嘘だ。そんな……。………一体、そんなこと言って何になる」
「嘘じゃねえよ」
 ここまできて、まだ否定されるので、ちょっとだけむっとしながら言った。
 そう。嘘でもおふざけでも、得意の逃げでもない。もうそんなものでは済ませられないところまで来てしまった。
 何度も自分に問いかけて、それでも選んだ答えがこれだったのだ。
「好きだ」
 ここまで来て逃げようたってそうはいかない。おまえが閉じ込めて、連れてきたんだから。おまえしか見れない世界に。おまえを好きになる世界に。
 俺を縛って逃げられないようにするその全てが、まだ足りない、逃がさない、とでもいうように強く、しかし所在なさげに彷徨う双眸(め)が愛しい。
 俺だけしか見ないその目が。
「好きだぜ、一弥」
 うまれたばかりの雛にすりこむように、同じ言葉をただただ繰り返した。
 そして、
「……っ。尋、人!」
 まるで犬みたいに、縋り付く様に、体の拘束を振り払って腕を伸ばした真鍋一弥を抱き締めた。ずっと、そうしたかったかのように。
「好きだ。好きだ好きだ好きだ!尋人が、好きだ!!」
 精一杯縋り付いていく様は、頼りなげで、夜毎俺を抱きとめる腕がそれこそ嘘の様で。俺が、コイツを守ってやらなきゃと思った。



 いつも、真っ暗闇の中でただ無心に、俺だけを求めていた手は、ようやっと居場所を見付けた。
 俺は、笑って、その手を引いて抱き締めた。
     
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