moon

けして立派とは言えない宿屋の一室の壁に掛かった木枠の時計は、午後の十一時を回っていた。シェリーが出掛けてくると部屋を出たのは夕方。出る時にあまり遅くなる前に帰って来るようにも言ってあった。いくら久しぶりのアレクサンドリアとはいえ、何かあったのではないかと不安に駆られたクジャは、部屋で拾ったシェリーが落としていったと思われるチケットをこれから羽織るフロックコートのポケットに入れ、シルクハットにレンズの大きな伊達眼鏡をかけると、裏路地に潜む小さな宿屋を後にした。これからの作業を考えると今はできるだけ人目につきたくない。故に、本当はあまり外には出たくなかったのだがやむ終えなかった。クジャは人気のない路地を小走りに通りすぎながら、この時間に女一人でこの通りを歩いていたら何かあってもおかしくないと思った。彼女が行くとしたら何処だろうか。クジャは推測を巡らせる。この時間帯なら酒場と考えるのが妥当だが、彼女が一人酒場へ向かう姿は想像がつかなかった。他に行きそうな所となるとアレクサンドリア城くらいしか思い浮かばない。もし城にいるのだとしたらいいのだが。とりあえず、まずは酒場を回ってみることにした。もしかしたら誰かから目撃情報を聞き出せるかもしれない。クジャは以外と自分がシェリーの生活を知らないことに気づかされた。

***

人の集まりそうな酒場を探しながら歩いていると、思いの外早く彼女の姿が見つかった。長屋の一角に腰位の高さの看板を置いただけの古ぼけた店の脇で、だらしなく座り込んでいるのは間違いなくシェリーであろう。

「こんなところで何してるんだい?」
「…クジャ?」

近くに寄って声をかければ、彼女は怠そうに顔を上げる。ほんのりとアルコールの臭いが漂った。

「君、酒飲めたのかい?」
「うん?ほとんど飲んだことないよ。だっておいしくないもん。」
「……それなのになんでこんなになるまで飲んだんだ。」

路上に座り込んでいる時点である程度予測はしていたが、相当酔っているようだ。舌っ足らずな喋り方に頭を抱えたくなる。

「シェリー、具合はどう?」

店の扉が開き、中年のがたいのいい女性が顔を覗かせる。服装から見るにこの店の従業員だろう。

「全然駄目。よく皆こんなの飲んでられるよね。」
「それはあんたが飲み過ぎるから。あら、お知り合いの方?」
「ああ…いや、そうです。連れの者なのですが、帰りが遅いので探していたのです。」

女性が此方を気にかけるので、いつも通りの口調で答えかけたが言い直した。別にこれが原因で正体が公になるとは思わなかったが、なんとなくそうした方がいい気がしたのだ。

「なら丁度よかった。この子、こんな状態で帰るだなんて言い出すから引き留めてたのよ。」
「おばさんが心配性すぎるの。この辺は私の狩場だよ?なんかあっても自分でなんとかできるって。」
「支えなしじゃ歩けないくせによく言うわね。」

狩場…?言葉からするにろくでもないことしか浮かばないが、とてもアレクサンドリアのメイドだった頃の様子とはマッチしない。彼女にはもしかするとまだ自分の知らない一面を持っているのではないかという発想が頭をよぎった。

「お代はいくらでしょうか?」
「ああ、お代?それならいらないわ。血は繋がってないけどこの子は娘みたいなものなの。昔からやんちゃばっかりで、腕試しだなんて言って大人相手に喧嘩しては怪我してうちで手当してあげたものだわ。」
「ちょっとおばさん、余計なこと言わないで。」

慌てて口を挟むシェリーを無視して女性は話を続ける。

「それが、しばらく見ないと思ったら突然明日はリンドブルムに泊まれだなんて言い出して…。まあ、元々明日はリンドブルムに買い出しに行く予定で、たまには泊まって来ようかなんて主人と話していたから丁度いいって言ったら丁度いいのだけれど。」

リンドブルム…。ふとクジャはあるものを思い出し、コートのポケットから二枚の紙切れを取り出す。シェリーが何をしたかったのか理解できた。

「僕もそうすることをお勧めします。」
「これ、もしかしてシェリーがなくしたって言ってた…」

明日リンドブルムで行われる芝居のチケットを手渡せば、女性は驚いたように目を見開く。ちらりとシェリーにも目をやれば、彼女も同様の表情を浮かべていた。

「宿屋の部屋に落ちていました。」
「まあ…、でもあなた達は行かなくていいの?」
「僕達は用事があるので。」

目の前の女性とその主人がリンドブルムに行っている間にこの場で何が起きるかを想像すると複雑な気分だ。

「そう。じゃあ喜んで頂くわ。」

そんなクジャの思いとは裏腹に女性は輝かしい笑顔を浮かべる。今回、彼女らの命を奪うことはないことだけが救いだった。

***

女性と別れ、クジャはシェリーをおぶって宿屋へと向かっていた。

「クジャ、ありがとう。私、おばさんとおじさんにはすごくお世話になったんだ。」

ありがとう。全ての元凶である自分には不似合いな言葉だ。この街並みも明日には変わり果ててしまう。つまりは、彼女の故郷が失われるということ。そんな状態であるのに、彼女は自分に感謝の言葉を口にするのだ。違和感を感じずにはいられない。

「全く…、いろいろ言いたいけど、せめて大事な物くらいは持っていきなよ。」
「持っていったつもりだったの。」
「とにもかくにも、酔っ払っていること以外で君の身に何事もなくてよかったよ。けっこう心配したんだ。」
「ごめん。でも、アレクサンドリアで私に何かあるなんてまずないわ。」

それは狩場だからということなのだろうか。この期に及んでまだそれを主張するところにアルコールの影響を思わせられる。

「君ってそういう類いの人だったのかい?」
「…!あっ、違っ…」

その話題を出したのは彼女自身だというのに、此方が聞き返せば慌てて口を塞ぐ。その動作のせいで首に回された腕がクジャの喉を圧迫した。

「シェリー、首、苦しいんだけど。」
「…ごめん。ねぇ、クジャ…」
「なんだい?」

シェリーは腕を緩め、表情こそは伺えないが神妙な声色で語りかける。

「私がこんなんだったら嫌いになる?」

何を言い出すかと思えば、拍子抜けするほど単純な質問で自然と笑いが溢れた。

「…笑い事じゃない。」

彼女は恥ずかしいのか、小声で咎めるとクジャの肩に顔を埋めた。道理で彼女の口からそういった話が出なかったわけだ。

「今更嫌いになんてならないさ。そんなことを気にしてたのかい?」
「だって、クジャは私とは正反対なんだもん。」
「それはどうだろうね。」

彼女が言う通り、正反対なのかもしれないが今、こうやって彼女を背負って歩いているとそんな気はしなかった。

「ほら、もう着くよ。」

いつの間にか目の前には宿屋が見えていた。

「なんだか明日になってほしくない。」
「僕もそう思うよ。」

シェリーが突然酒を飲み出したのもなんとなく分かる。クジャはテラが滅びようが、ガーランドが死のうが寧ろ万々歳とさえ思うが、トレノがなくなるとしたら少し寂しい。いずれテラに取り込まれるガイアのことを考えたら泥酔くらいできるかもしれない。なんだかんだで自分も案外ガイアに愛着を持っているのだろう。元々なくなるものとして見てきたが、今宵は初めて勿体ないと感じさせられた。宿屋に入る前に振り返り、空を眺めれば、いつも通り青い月が輝いていた。





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