faintly dyes

ザーッと床にお湯が打ちつけられる音が断続的に響く浴室のシャワーを止めれば、自分の動く音以外は聞こえないくらいに室内は静まりかえった。私は浴槽に足を浸からせ、ゆっくりと全身を沈める。最近の彼は屋敷を空けることが以前より多くなり、今日も出かけている。そういえば、私がクジャの元へ来てからもう半年以上は経っているのだ。そう考えると私もだいぶ彼に慣れたものだ。初めの頃を思い返してみるとつくづくそう思う。最初に用件以上の会話をしたのは確か…

***

私が一四歳になった頃、私はブラネ様の側近のメイドとして正式に雇用された。それからは他のメイドと同様に給料を貰うようになり、経済的に自立した生活を送ることになった。当時、兵になることを望んでいた私の身をブラネ様は案じていた節があり、それ故の役職かと思ったが、私の推測とは裏腹に側近となり初めて渡された物は刃渡り一五p程のシースナイフだった。受け取ったナイフは太腿のスカートで隠れる位置に常に身に付けるよう命じられた。私が側近に選ばれたのは、ある程度の武術を心得ているからだった。その頃からであろうか、ブラネ様が私にきつく当たったり、時に優しくしたり、を繰り返すようになったのは。
それから一年程経ったくらいに、城にトレノの武器商人がやってきた。霧を使った兵器の製法を持ち込んだ彼はすぐにブラネ様に気に入られ、頻繁に城に出入りするようになる。
そんなある日のことだった。

「違う!!私が待っていたのはそんなものではない!何年も仕えて、私の気分も分からぬのか!作り直しじゃ!!早く行け!!」
「……はい、申し訳ございません…ブラネ様。…直ぐに作り直して参ります。」

ふらつく足でなんとか無理矢理に身体を起こす。毎度のことながら、ブラネ様の拳は重い。じんじんと痛む頬を押さえながら辺りにを見渡せば、先程焼いたマドレーヌが散らばり、給仕服は紅茶で濡れ、ティーカップは割れて破片が散乱していた。酷い有り様だ。拾える物はトレイに集めて、急いで掃除用具を取りに行く。片付けが済んだら、服も着替えないといけない。今日はクジャ様も来ていてブラネ様と黒魔導師の件で話し合いをしているので、休憩時間になったら紅茶も出しに行かなければならなかった。本当に私一人で間に合うのだろうか。ふと心配になるが、選択肢はどうやってでも間に合わせること以外に用意されていなかった。

なんとかラズベリーパイを釜戸に入れるところまで進んだところで丁度よく休憩時間になった。事前に生地を準備していたことが功を成して、紅茶と一緒にクジャ様の元へ運ぶことができそうだ。

「紅茶とお菓子でございます。よろしければお召し上がりください。」

トレイからクジャ様の前へとティーカップを移す。クジャ様は相変わらず美しい顔立ちをしている。その為メイドの間でも人気があり、接待できる私が羨ましいと言われるのだが、少し私は彼が怖い。クジャ様が来てから更にブラネ様は冷たくなった気がするのだ。さっきのマドレーヌのことだって、ちょっと前までは人前であんなところは見せなかったというのに。

「君もよくあんな仕事やってられるねえ。僕が君なら即行で辞めるよ。」
「え…あの、私そんな…」
「こっちにおいで。」

クジャ様は突然何を言い出したと思えば、椅子に腰掛けたまま平然と私の手を引き自分の側に寄せた。ブラネ様に見せるにこやかな顔とは違う、きつめな切れ長の瞳が際立つ少し冷めたような表情で、彼は私に手を翳す。何をするのだろうと不思議に思っていると、翳された手が光を帯びたのが目に入ったので、私は反射的に目を瞑った。

「怖がらせて悪かったね。でも、ちゃんと治ったよ。…手も切れてるじゃないか。」
「………?」
「腕は?火傷とかしてるんじゃないかい?…やっぱりね。全く…」

彼はティーカップの破片で怪我した指の傷も見つけたようで、ついでに私の袖を捲り上げ火傷も確認すると、また同じ様に傷を治す。やっと状況が読めた。彼は私にケアルをかけたのだ。

「見苦しいものをお見せして申し訳ございません。」

時間に追われてブラネ様に顔を殴られていたことをすっかり忘れていた。私はクジャ様に深々と頭を下げる。

「本当だよ。毎日あの象女に殴られてるのかい?」
「………。」

黙り込む私の頬をクジャ様は優しくさすると頭を上げるように促す。表情こそ不機嫌そうにも見て取れるのに、一瞬心配げな声色になるのでどう反応を返せばいいか分からなかった。そう、なんだか優しかった頃のブラネ様みたいで。

「あのパンチを何度も受け続けたらそのうち君の顔、変形するかもしれないね。あの攻撃力は凄まじいよ。女であることを疑いたくなるくらいにね。また殴られたら早めに治してもらいなよ。もし顔に痕が残ったらもったいないからね。」

“本当によく象女になんかに仕えてられるよ。君くらいの容姿なら雇ってくれる貴族はいくらでもいるだろうに。”クジャ様は付け加えるようにぶつぶつと呟くと紅茶を一口啜った。

「今日はレモンミント、かい?」
「はい。先程の会談で少しお疲れかと思いましたので…」
「シェリーっていったっけ?」
「…はい?」
「君の名前だよ。」

紅茶の話から突然話題が逸れ、流れを掴めずに聞き直せば、ティーカップを片手に彼は横目で私をチラッと見ながら返答し、もう一度口をつけた。

「…そうですけど。」

間が悪いながらも頷き、私の名前がどうかしたのだろうかという考えが浮かんでくるや否や。

「君の紅茶嫌いじゃないよ、シェリー。」
「…へっ?」

思わぬ台詞を聞かされ、私は目を見開き、持っていたトレイを胸元でぎゅっと抱きしめた。何故かほんのりと頬が熱を持っている。そういえば、こうやって褒められたのは何時ぶりだろうか。

「そんなに驚くほどのことでもないだろう?まあでも、君もそういう顔をするんだね。」
「……!私、そんなに変な顔してましたか…?」
「そんなことはないけど…」

クジャ様は椅子から腰を上げ、私の頭を撫でると耳元に顔を寄せ、“他の人には見せないでほしいかな。”と甘い声で囁く。いくら細身だとはいえ、身長差や手の大きさ、筋肉の付き方と、近づくとやはり身体の線は男性だと思わされる。そんな彼との今までにない接近ぶりに恐ろしく緊張しているのだが、私にはそれ以上に彼の言葉の意図が疑問だった。

「……変ではないのにどうして、他の人だと駄目なのですか?」

気になって尋ねれば、数秒の間が空く。何か変なことを口走ってしまったのだろうか。

「もしかしてとは思っていたけど君、鈍感な人かい?」
「うんと、その…ごめんなさい。」

呆れたような顔のクジャ様に何が悪かったのかよく分からないが、とりあえず謝る。

「駄目だよ、お仕置きだ。」

しかし、ばっさり駄目だと切り捨てられた挙げ句、腰に手が回されたかと思うと、私の身体はすっぽりと彼の腕の中に収まっていた。驚いて彼を見上げると、後頭部に手が添えられクジャ様の顔が近づいてくる。その瞬間だった。

「クジャ様、お時間です。」

扉をノックする音の後に、ベアトリクスが入ってくる。
クジャ様は私を解放し、“酷いタイミングだねえ。”と苦笑いと共に小声で吐き捨てた。

「わかったよ。それじゃあまたね、シェリー。」

クジャ様は私に笑いかけると、ベアトリクスに連れられ会談の続きへと行ってしまうが、後にベアトリクスに問い詰められたのは言うまでもない。そして、このことを境にクジャ様は度々私に構ってくださるようになる。それからしばらくして彼に引き取られることになるのだが、その頃はそうなることを微塵も想像していなかったのだから滑稽なものだ。




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