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「クジャ、ごめんね。さっき…」
「いいよ、僕も悪かったから。」

あの後、私は無事彼によって発見されたが、手間をかけさせてしまった。箱形の馬車に並んで腰掛ける私達の間に暫し沈黙が流れる。声のない車内は、車輪の回る音と車体の揺れる音のみが断続的に続いていた。外は真夜中だが、眠らない街と称されるトレノだけあって街の灯りが消えることはない。何かそれらしいことをすることもなく、ただやり過ごしただけのようなパーティだったが、帰り道にはやはり祭りが終わった後の侘しさと似た感覚がある。このドレス姿も屋敷に着けば見納めだ。

「シェリー、僕は君が可愛くて仕方がないんだ。」

沈黙を破ったのはクジャだった。澄ました横顔の視線は遠く、まばたきの度に長いまつ毛が小さく揺れる様は、どこか切なくも絵になりそうだ。

「君もアレクサンドリアを出て、長いわけじゃない。まだ気持ちが落ち着かないのは分かってるんだけど、君を見てるといじらしくて堪らなくなるのさ。男は馬鹿だからね。一回思うと、抑えきれなくなる。」

背もたれに肘を乗せ足を組んだ姿勢のまま彼は口角を上げ、自嘲気味に首を傾げてみせた。何かが違う。そういうことではない。私は彼にこんなことを言わせたいわけではないのだ。

「……私、クジャといるとなんかおかしいの。変にドキドキしたり、焦ったりして、どうしたらいいか分からないから、つい避けちゃう。でも、クジャのこと嫌なわけじゃないから……きゃっ…」
「…それは反則だよ。」

言葉を紡ぐ口元の動きが収まるのとほぼ同時に彼の腕に引きずり込まれる。強引な手つきであったが、濡れた声は弱々しく、彼の身体は糸の切れた操り人形のようにくたびれ、私の首元に額を置いた。

「クジャ…?」
「しばらく、こうしていたい。それ以上のことは君がいいと言うまでしないから。」

身を包む華やかなドレスの芯を確かめるかのように彼は私を抱く腕に力を込める。彼が私をどうしようと咎めることも離れることもしないというのに、何故こんなにも気遣うのだろうか。そして、こんなにも胸を締め付けるものは何であるのか。
私は吸い込まれるように彼の頬に触れ、額を上げさせる。不思議そうに見上げる瞳には目もくれず、彼の唇に自分の唇を押し当てた。彼に少しでも気持ちを返したくて、私に思いつく事柄はこれくらいだった。

「本当はこうしたかったんでしょ?………いいよ、しても。」

当然に自分からこんなことはしたこともなく、恥ずかしくて今にも気が飛びそうだが、それでも構わなかった。クジャは驚いているのか、言葉も出さずに眉を寄せ、目をぱちぱちとさせる。日頃の私の佇まいからすると、無理もないのかもしれない。実際、慣れない行動に目元まで潤んでくる始末なのだから。

「…そんな顔されて、遠慮できる程の余裕は持ち合わせていないけど。」

彼はやっと状況に追いついたようで、大きな手を私の首筋に這わせ、顎骨を包み込む。頬の熱が彼の手の中でじんわりと膨らんでいく。クジャにしてみれば確認のつもりなのだろうけれど、今にも唇が触れそうな距離は、私にとって寸止めを食らわされているに等しい。

「遠慮なんかいい。…したいようにして。」

到底自分が吐いたとは思えない挑発的な台詞が空気に溶け込み、全身が彼に委ねられた。要望通り、柔らかな感触が私を呑み込むように、ゆっくりと解していく。

「ん…」

力が抜け、崩れそうになる身体を彼の腕が受け止めた。

「シェリー?」
「大丈夫。…クジャ、せっかく綺麗に着付けてもらったのに結局何もできないで終わっちゃった。私、クジャに面倒かけてばっかりだね。…もっとしっかりしなきゃ。」

心配そうに覗き込むクジャの首元にすがり付く。この蕩けるように甘い空気に、箍が外れてしまったのかもしれない。勝手に口から溢れ落ちる台詞は、単に彼に甘えたいだけなのだろう。

「別に面倒なんかじゃないんだけどねえ…言っただろう、可愛くて仕方ないって。」
「でもきっとこれじゃ駄目。」
「なら約束だ。次は僕と一緒にいて。そして、ワルツを踊ろう。いいかい?」

顔を上げれば、仄かに弧を描くブルーの瞳と視線が交わる。

「うん。ワルツは上手に踊れるか分からないけれど…」

躊躇いがちに頷く私の身体はくるりと翻され、彼の膝の上で横抱きに抱えられた。しっかりと支えられた背中は後ろに倒れ込み、もう片方の手が覆うように腿を掴む。成されるがまま、あっという間に完成した彼優勢の体勢に変な緊張感が走った。怖いだとか不安だとかとはまた違うが、それがどうしようもなく脆い感情であることだけは理解できる。

「心配には及ばないよ。ちゃんとリードする。…ねえ、シェリー?」
「…なに?」

耳元へ添えられる唇。反り返った胸元に彼の銀髪が落ちた。今日の私はやはりおかしい。今だって彼の次の行動に心の何処かで期待している。

「“したいようにしていい”はまだ無効じゃないだろう?」
「………まだするの?」
「うん。したら怒るかい?」
「…怒らない。」

誰に言われるまでもなく、瞼が緞帳のように落ちていく。視界が途切れ、残像の彼も薄れた頃、唇が重なり合った。その直後だった。

「到着致しました。」

クジャのものとは違う男性の声に目を見開く。振り向けば、御者の男が申し訳なさそうに扉を押さえたまま、会釈した。クジャはというと、面白くなさそうに口を真一文字に結んでいる。私は慌てて彼の肩を押し、腕中から脱出した。みるみるうちに頬に熱が集まっていく。

「あの、ごめんなさい。どうもありがとうごさいました。」

降りる際、手を差し伸べてくれた御者の男にお礼を言い、見慣れた屋敷の門の前へと忙しなく足を進める。一気に現実に戻されたかのようだ。今までしていたことが信じられない。どうして、クジャともあろう人が私なんかと…。目まぐるしく考えが巡る間にも、後を歩くクジャが見たままを直言する。

「シェリー、動揺しすぎだよ。」
「そんなことない…!」
「そうかい?」
「うん、そう!」

門番が開ける銀柵の間を通り抜け、クジャを振り返ることなく早足のまま屋敷の玄関へ到達した。そこでも開けてもらった扉を潜り、エントランスでやっと足を止めれば、彼の手が私の肩を抱き寄せた。その後に続いて玄関の閉まる音が静かな広間に響く。

「明日になったら、君はまた何事もなかったかのように元通りに戻ってしまうのかい?それならそれで仕方ないけれど、どうしてだろうね、寂しいとさえ思えてくるよ。」

彼には私の思うことなどお見通しなのか。はたまた偶然なのか。少なからず私は彼の儚げな声調に揺さぶられてしまう。

「シェリー、着替えておいで。まだ脱いでしまうのは勿体ない気もするけど、疲れただろう?すぐ手伝いを向かわせる。」

抱かれていた腕が解かれ身体が自由になるが、一つだけ疑問があった。

「…クジャじゃないの?」

これまで、そういう類いの事柄は彼が率先してやってくれていた。確かに彼自身の着替えもある手前、苦労をかけてしまうことにはなるが、ほんの少し見限られてしまったのではないかと不安な気持ちもある。

「僕がよかったかい?」
「………!」

クジャは悪戯に笑いかけた。

「残念だけど、そんなことしたら手を出さないでいれる自信がないんだ。だから、また明日ね。ドレス姿、見納めにするには名残惜しいくらい綺麗だよ。」

手を出すとはどういう意味なのだろう。悩んでいる間にも、彼はこめかみにキスを落とし、去っていってしまう。残された私はしばらく硬直した後、諦めて着替えを済ませに向かった。




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