遠まわり



『なあ、抱き締めさせてくれないか?』


放課後の教室。夕日が差し込むこの広い空間で、突然、目の前に立つ幼馴染から発せられた言葉に耳を疑った。彼の眼差しは真剣そのもので、少しだけ憂いを帯びたその視線は、断る事を許さないようだった。


『どうしたの、急に……』


冗談交じりにそう答える。緊張と驚きから、私の鼓動は、より一層速くなるばかりで、精一杯に搾り出したその声は、僅かに震えていた。


『何と無く、人肌恋しい感じがして……』


柄にも無く落ち込む彼に、私の心は揺さぶられた。
しばらくの沈黙が流れた後、私は静かに腕を伸ばした。彼は少しだけ驚いたような顔をすると、ふっと笑って、やさしく私を抱き締めた。


『いいの?勘違いされちゃうよ。君、結構人気あるんだから……』
『じゃあ、俺とお前、二人だけの秘密』


そう言うと彼は、私を抱き締める腕に、より一層力を込めた。今にも消え入りそうな声で“秘密”なんて言うものだから、言葉を返す事も出来なかった。彼もまた、私と同様に、沈黙を守った。

そして、数分の時が経った。彼は私の体から、ゆるりと腕を解くと、気恥ずかしそうに俯いて、小さくありがとう、とだけ告げた。


『誰にだって、甘えたい時くらいあるよ。気にしないで』


如何にもらしい事を言っておきながら、本心では、離れるのが惜しいと思ってしまっている。本当に他人の温度を求めていたのは、私自身だったのかも知れない。
不意に顔を上げる彼。その表情は、いつものような明るい笑顔だった。


『そろそろ帰ろうか』


そして鞄を持ち上げると、私の一歩先を、夕日に向かって歩いていく彼。
帰り道は、先程のことなどまるで無かったかのように、いつもの友人同士の何気ない会話、何気ない位置関係を保ったままだった。

そんな二人の奇妙な関係が、しばらくの間続いた。

はじめのうちは、放課後の教室で、お互いに体を寄せ合ったり、手を繋いだり、その程度の関係だった。一ヶ月が経った頃から、互いの家へ行き来し、関係は次第にエスカレートしていった。しかし、唇を重ねることは、一度もなかった。

ある日のこと。私は昼休み、友人に連れ出され、中庭に来ていた。
いつものように、昼食に誘われただけ。そう捉えていた私は、ただ何と無く彼女の後ろを歩いていた。

不意に振り返る彼女に、反射的に立ち止まる私。


『幼馴染のあの人と、付き合ってるの?』


突拍子もないその質問に、息を飲んだ。


『付き合ってないよ』
『でも、最近突然仲良くなったっていうか、一緒に帰るようになったんでしょ?』
『前から、仲は良かったよ。あいつが部活引退したから一緒に帰るようになっただけ』
『ふぅん……』


腑に落ちないと言ったような顔で、暫くの間私の顔を見つめる友人に、本当のことを打ち明けてしまいそうになる私。僅かに口を開いた刹那、脳裏に彼の“二人だけの秘密”という言葉が過ぎった。

隠し事は、得意ではない。ましてや嘘をつくなんて、こんな私には出来る筈も無かった。息苦しい程の沈黙の後、友人はパッと表情を明るくした。


『まあ、いいよ。一部で勘違いしてる子居るみたいだから、気をつけなよ』
『うん、ありがとう』


その日、私から彼に声を掛けることは出来なかった。不安だったのだろう。周りからこの関係を怪しまれていることも、周囲に知れたことで、この関係が終わってしまうかも知れないということも。

放課後になると、彼はいつものように、私の元へ現れた。


『今日のお前、変だな』


そう呟く彼に、ドクンと脈打つ私の鼓動。やはり、彼には伝えておくべきなのだろう。こんな関係も、本当はすぐにでも終わらせるべきだったのかも知れない。

緊張交じりに答えた私の声は、朱い夕日に、飲み込まれてしまいそうなほど、か細いものだった。


『友達に、付き合ってるのって聞かれた。一部の女の子が、怪しんでるって。だから、気を付けろって……』
『ふうん。それで、何て答えた?』
『付き合ってない、とだけ伝えた。それは事実だし、嘘はつけないから……でも、付き合ってるって言った方が、自然だったのかな』


彼からの返事は無かった。不安と緊張で彼の表情を伺うことが出来ず、私は只管、机とにらめっこするだけだった。

突如、すぐ近くで椅子を引く音が聞こえる。勢いで顔を上げると、目の前の席に座り、こちらを向いた状態で机に突っ伏す彼の姿があった。私も同じように机に伏せ、彼と向かい合う。


『別に、俺はどっちでもいいけどな……』


彼の目は真っ直ぐに、私を捉えていた。何故だか、どうしても彼から目を逸らす事が出来ず、呆然としてしまった。彼の意図が汲み取れない。

暫く見つめて居ると、突然、彼は私の手を強引に掴んだ。驚き身体を起こすと、彼もまた同じように起き上がり、そして真剣な眼差しで、静かに言い放った。


『もう、終わりにしよう』


言うが早いか、彼は私に唇を重ねると、軽く微笑んだ。


『……帰ろう』


その後、足早に教室を去る彼を、追い掛けた。いつもの様に、一歩後ろを歩く。彼は、家に着くまでの間、一度も振り返ることは無かった。私もまた、彼の顔を覗き込むことも、声を掛けることもしなかった。いや、出来なかった、と言うべきなのかもしれない。彼の後姿が、それを許さなかった。

自宅の前に着き、彼と向き合う。いつもなら、軽い挨拶を交わしてすぐに此処で別れるのだが、今日は何と無く、言葉を交わせずにいた。彼もまた同じように、この場に似つかわしい言葉を必死で探っているように思えた。

しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは、彼の方だった。


『じゃあ、また明日な』


言うと彼はすぐに私に背を向け、去ってしまった。私は正直、驚いた。数ヶ月間、毎日のように彼は、学校から自宅まで送ってくれた。それでも“また明日”なんて言われたのは初めてのことで、戸惑いを隠せなかった。驚きと嬉しさとが入り混じった、不思議な感情に襲われ、高揚感に包まれた。

鞄を持つ手に、少しだけ力を込めた。そうでもしなければ、笑みが零れてしまいそうだった。その後、私は玄関先で小さく深呼吸をし、帰宅した。

いつも通り、夕飯と入浴を済ませ、学校の課題をこなし、ベッドに入る。いつも通りの生活をしても、頭に過ぎるのは、放課後のこと。何故キスをされたのか、帰り道のあの言葉の意味は何だったのだろうか。思い出すたびに、あの時の緊張感と、彼の切ない表情が浮かぶ。考えても、考えても、答えを導き出すことは出来なかった。





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