吾輩は猫である。
そんな有名な小説の一節が、今の俺には到底笑えない。ベッドの上には、財布から引っ張り出した千円札が一枚。そこに描かれた漱石の顔は大きく偉大だった。比喩ではなく、文字通り本当に大きい。紙幣に触れてみると、爪が当たって、カシッ、と乾いた音をたてた。自分の身に起こったことが本当なら、今の俺にはこんなもの何の役にも立たない。
一度冷静になろう。
さっきから何度、自分にそう言い聞かせただろう。いい加減、頭がおかしくなりそうだ。ここは諦めて認めるべきか。俺が――
「猫だ......!」
振り返るとそこには、同室である後輩の巨大な顔が視界いっぱいに広がっていた。奴はベッドを覗き込むようにぐいぐいと顔を寄せて来る。
そのぶしつけな行為に、俺が思わず怒りを表すと、喉の奥から自然に「シャーッ!」という声が漏れた。
「うわっ!」
突然のことに驚いた奴がのけぞり、カーペットにどしんと尻もちをつく。
もう考えている暇はない。とにかく逃げなければ。そう自分を奮い立たせて、ベッドから飛び降りる。ここが下段で助かった。この体なら上からでも飛び降りることができたかもしれないけど、慣れない動作をするのは危険極まる。
ドアの方へ走ると、うまい具合に隙間が少し空いていた。いつもはこのずぼら加減が許せなくて、幾度となく後輩を注意してきたものの、今は幸運だった。俺は隙間に体を滑り込ませるようにして外へ飛び出した。
日曜の朝の寮内は静かだった。いつもなら部員たちで騒がしいけど、今日は久しぶりの休暇。もちろん自主トレに励む者もいる。でも今日は皆、思い思いの時間を過ごすのだろう。遅寝をしても、遊びに出掛けても、この日だけは許される。
......さて、これからどうする?
とにかく元に戻ることが先決だ。
俺は慣れた景色を見回した。
それにしても――世界はこれほどまでに巨大なものだったのかと、驚きを隠すことができない。巨大なバット、巨大なボール、巨大なバッティングマシン。いつも見慣れたグラウンドに至っては、東京ドーム何個分などという表現がしっくりくるくらいの面積だった。猫の目には、世界がこんな風に見えているのか。
朝の爽やかな空気を吸い込んでから、足取りを確かめるようにゆっくり歩き出した。歩を進めながら、さっきまでの経緯を頭の中で整理する。
まず、今朝目覚めると、俺の体は猫になっていた。ちなみに体毛は白。
そういえばと唐突に、朝目覚めるとxxになっていたという、これまた有名なある小説の存在を思い出した。俺はまだ、おぞましいアレに変身しなかっただけマシだろう。でも一瞬、その小説の展開が脳裏をよぎり、暗澹たる思いに駆られたが、無理やり頭の隅へ追いやった。
起こってしまったことは仕方がない。そこからいかに解決策を導き出せるかだ。まずはこうなってしまった原因を考えよう。
俺は昨夜の出来事を反芻していた。なんとなく検討はついている。おそらくあの自称“魔法使い”の仕業だろう。それ以外にこんな常識外れの展開はありえない。奴を探し出して解決策を聞き出すとするか。
けれど、ここで一つの問題が発生した。俺の正体が猫だということは誰も知らないし、俺にはそれを伝える術がない。なんせこの体だ。いっそ部員たちの協力を仰ぐのは?
そこまで考えて、でも思いとどまった。部内にはいろんな人間がいる。頭の良い者もいるしそうでない者もいる。乱暴で大雑把な者も多い。そんな中で、うまく協力してくれる人間を見つけることができるだろうか。
――いや、待てよ。協力者は必ずしも部員である必要はない。俺は閃いて、急ぎ足で駅前へと向かった。
▽
なまえが今日、駅前に新しくできた大型書店に行くと話していたのを思い出した。
駅前は人が多い。俺は踏まれたり蹴られたりしないように、人混みを避け慎重に道の端を歩いていた。
すると――運が良いことに、前方からなまえが歩いて来るところだった。
俺はなまえの足元に駆け寄り、できるだけ可愛らしく鳴いた。
「ん? ああ、猫ちゃんか」
なまえが俺の存在を認め、屈み込む。
「白猫ちゃん。こんなところでどうしたの? 車も多いし危ないよ」
そう言って目を細め、俺の頭を撫でる。
俺は鳴きながら、必死で抱いてくれのポーズをする。こんなの普段の俺からすると屈辱だけど、今はしょうがない。
そうすると、動物好きのなまえは案の定、柔らかく笑って俺を抱き上げた。
「可愛いね。どこから来たの?」
なまえは赤子をあやすように、小刻み揺らしながらその場を行ったり来たりする。
さて、これからどうしようかと思案していると、
「あ、こんにちは」
前方から歩いてきた女子が手を上げ、なまえにあいさつをした。
あれは確か鳴の彼女か? でも、あいつがあまりにのろけるのがムカついて、興味ないふりを貫き通しているため、彼女のことは詳しく知らない。
「こんにちは」
二人は短いやりとりのあとすぐに別れた。でも、俺は彼女よりも、その後ろに隠れた人間がずっと気になっていた。既視感。どこかで会ったことがある気がするけど、思い出せない。その間、そういった心の声が漏れてしまったのか、俺の口からは妙な鳴き声が出た。よく皆からブツブツ小言を言うなと指摘されるけど、その猫版といったとこか。
その後もできるだけ甘えた仕草を見せたから、手放せなくなったんだろう。なまえは俺を抱いたまま近くの公園へ行き、芝生の上へ腰を下ろした。
「あったかくて気持ちいいねぇ」
なまえは、園内にいる親子やカップルを眩しそうに眺めていた。そして俺の頭をひと撫でし、
「白河くん、今頃自主練してるかなぁ......」
ぽつりと言って顔を伏せた。
急に名前を呼ばれた俺は、一瞬どきりとする。
「あ、白河くんてね、私の恋人なの」
おい、なまえ。猫相手にひとり言なんて恥ずかしくないか。
もちろん俺の心情は届くはずもなく、なまえは構わず続けた。
「野球がすごーく上手でね、努力家だし、冷静だし、ちょっと毒舌なとこもあるけど......あ、あとね! 私の好きなラジオ番組のリスナーなの! あれ結構マニアックな深夜番組でね、私そんな人初めて会ったよ」
そういえば出会った頃、そんな話で盛り上がったな。こいつもなかなかのマニアだなと、それ以来気になり始めたんだ。
「......会いたいなぁ」
その時、胸のあたりがきゅっと締めつけられるような痛みにおそわれた。猫でもこんな感情を持つのか。
なまえとは付き合っているといっても、恋人らしいことはほとんどしてやれていない。俺が野球に忙しいからだ。せいぜいお昼を一緒に食べるくらいのもの。
ひどく淋しげな横顔がたまらなくなり、その小さな手の甲をそろりと舐めた。
「ひゃっ?!」
そしてひと鳴き。
「慰めてくれるの?」
それに応えるように、もう一度鳴いた。
すると、なまえはキラキラ目を輝かせながら俺を抱き上げ、愛おしそうに頬ずりをする。
......近い。近いぞ。
そのままキスしそうになったので、俺は爪を立てずに肉球だけでその顔にパンチした。こんな形でキスするなんて冗談じゃない。
「ごめんごめん。白ちゃんだって選ぶ権利あるもんね」
......勝手に名前がついている。しかも白なんて安直な。でも、俺は白河だからあながち外れてはないか。
「あ、神谷くんだ」
その時、なまえが唐突に呟いた。視線の先を辿ると、カルロスが懸命に一人の女子を引っ張って走っている。その顔はかなりの余裕を欠いていた。あいつがあんなに必死になるなんて、珍しいこともあるな。
なまえはしばらくそれを見つめていたが、
「神谷くんって、休みの日は脱がないんだね」
と、どこか見当違いなことを言った。
それから、なまえは俺をそっと膝の上に乗せた。優しく背中を撫でられると、さっきまで寝ていたにもかかわらずすぐに睡魔がおそってくる。朦朧とした意識で見上げると、なまえの顔もとろんとして眠そうだった。
そしてつかの間、俺は意識を手放した。
――目の前に男がいる。見知った顔。そうだ、昨日会った自称“魔法使い”だ。お前のせいで俺はこんな姿になった。早く元に戻せ。
男を問い詰めるため起き上がろうとするけど、なぜかうまく体が動かない。
男が行ってしまう。待て。元に戻せ――
そこで目が覚めた。ここはどこだ。寮の部屋? いや、違う。
俺は一旦呼吸を整え、顔を上げた。
そうだ、ここはなまえの膝の上だ。確か猫になって......。
そこまで考えて、ちらと視線を下げた。するとそこには、懐かしい自分の体があった。
戻ってる。元の姿に戻ってる。
手のひらを握っては開いて感触を確かめる。軽く脚を持ち上げる。一見して異常は見当たらない。
......よかった。
俺は安堵の息を漏らした。
すると、俺が動いたためなまえがぱちりと目を開けた。猫の時は膝の上に乗っていたけど、今俺は、ちょうど膝まくらをされている状態だった。
「白ちゃん? ......え、白河、くん?」
と、驚きで目を見開く。
まぁ、びっくりするもの当然だな。
「なんでなんで? なんで白河くんがこんなとこにいるの?」
「......白い猫を」
「え?」
「白い猫を追ってたら、ちょうどなまえがいた」
我ながら苦しい言い訳。けれどなまえは、泣き笑いみたいな顔で愛おしそうに言った。
「そっか。じゃあ白ちゃんが連れてきてくれたんだね」
俺はさっきなまえがしてくれたみたいに、その頭を優しく撫でた。