いただきます


 マンションの扉にキーを差し込む純は、この蒸し暑さに少し辟易しているように見えた。そのTシャツの背中は、汗でわずかに湿っている。手元で、がちゃり、と解錠の音がした。

「おじゃまします」
「お前さ、ここに来んの何回目だよ」
「え? ......えっと」

 私はここでの記憶を反芻しながら指を折って数えてみる。初めて来た時と、その次に一緒にマンガを読んだ時と......。

「今日で十回目くらい? あってる?」
「いや、俺だって覚えてねぇし」
「えー?」
「そうじゃねぇよ! だからもうかしこまって『おじゃまします』言うのやめろ!」
「一応礼儀として言ってるんだけどなぁ......」

 他人の家みてぇだろ、と純はぽつりともらしながら扉を開けた。純の家だから他人の家なのに、と心の中で呟いたけれど、純の言わんとするニュアンスもわからないくはない。彼氏の家だからもっとくつろげ、と言いたいんだろう。不器用な純の言葉を、そうやって都合よく解釈してみる。
 純の一人暮らしも、ようやく板についてきたようだ。
 中へ入ると、むっとするような室内の熱気が私たちをおそった。

「うわ、あちぃー」
「むっとする......」

 真夏の閉め切った室内は、こもった熱気でサウナ状態になっていた。暑いところから帰ってきたのに、新たにまた汗が噴き出る。
 純は、私の荷物が入った大きな鞄を、どさりとベットのそばに置いた。くそれから、テーブルの上のリモコンでクーラーをつける。
 私は先ほどスーパーで買った食材を冷蔵庫へしまっていく。卵、ハム、玉ねぎ、その他もろもろ。冷蔵庫の中身が潤沢だと、心まで満たされたような気になる。
 今日は奮発して、ちょっとお高いケチャップを買ってみたのだ。洒落たデザインのパッケージを見つめると、思わず顔がにやけてしまう。これで今日は純の舌をうならせてやる。といっても、オムライスにかけるだけなんだけど。

「クーラーちょっと効いてきたね」
「おう」

 先ほどより涼しくなったものの、ブラウスは汗で肌に張り付き、少し気持ちわるかったので、早く流してしまいたい。

「なまえ、先にシャワー使えよ」

 私の様子に気づいた純が、うちわであおぎながら声をかけた。

「純が先でいいよ」
「や、俺はあとでいい」
「じゃあ......お先に失礼します」



 他人の家のバスルームは少し緊張する。そのパーソナルな部分に踏みこむということは、その人に一気に近づいたような、そんななんとも言えない心地がするからだ。
 ここはトイレと一体型ではないから、変に気を遣う必要もない。
 そういえばここを使うのは何回目だろう。おそらく片手で足りる回数のはずだ。
 コックをひねって頭から熱い湯を浴びながら、私は静かな胸の高鳴りを感じていた。


 バスルームから出ると、純がソファに寝転んでマンガを読んでいた。もちろん少女マンガだ。高校の時ほどマンガを読まなくなったものの、今でもたまに買っているのを見る。純が少女マンガを卒業するのはいつになるんだろうと想像すると、ちょっとおかしかった。

「ふぅ、いいお湯でした」
「お、あがったか」
「純もどうぞ」

 立ちあがった純が、不思議そうに私を見下ろした。

「お前、明日の服着てんの?」
「だって、さっきの服は汗かいたからもう着たくないし」
「パジャマ持ってきてねーのか?」
「あるけどまだ夕方だし」
「ふ〜ん」

 それがどうした、というニュアンスの生返事。
 わかってない。この男はわかってない。少しでも長く純の前でおしゃれしたいという乙女心なんて、少女マンガを読んでるくせに気づいてないんだろう。汗をかくからと、着替えは余分に持ってきてあった。
 それにパジャマは、少し無防備だ。

 キッチンに立ち、さっそく今夜の夕食に取りかかる。本日のメインディッシュはオムライスだ。料理のできない私の、なけなしのレパートリーだった。
 慌ただしく準備をしていると、純が何やらそばでウロウロ行ったり来たりしていた。なんだかご主人の帰りを待つ忠実な犬のようだ。忠犬・ジュン。ウロウロさまようの巻。でも、そんなことを言うと吠えられるから、その言葉を自分の内にとどめておく。

「なにやってんの?」
「あ、いや、なんか手伝うことねーかなぁと思って」
「大丈夫だよ。座っててよ」
「おう......」

 以前、私が料理中に指を切ったものだから心配なんだろう。純の優しさはとてもうれしいけれど、じっくり見られたらこちらも料理どころではない。
 私に追い出されてすごすごとソファへ歩き出した純の後ろ姿は、やっぱり、しょんぼりした犬みたいだった。

 純がシャワーを浴びたり、マンガを読んだり、用事をしている間に夕食はちゃくちゃくと完成に近づいてきた。今日のオムライスは卵がやぶれることなく、なかなかの出来だ。
ケチャップを取り出したところでしばし逡巡する。
 さて、今日はなんと書こうか。
 つかの間、そのつやつやの黄色い表面を眺めたあと名案が浮かび、意気揚々とケチャップを傾けた。
 久しぶりにあの名台詞が聞きたいな。



「お? できたか?」

 テレビから顔を上げた純がこちらを見る。Tシャツに短パン姿で早くもくつろぎムードだ。

「今日は大成功〜」
「へぇ、どれどれ」

 さぁ、言うがいい。
 私は純の前のテーブルに、とんとお皿を置いた。

「誰がスピッツだコラァ!!」

 スピッツ、いただきました。



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