11. リスタート

「あ〜あ。結局、甲子園にも修学旅行にも行けずじまいかぁ」

 朝練が始まる前のロッカールームで、隣の先輩二人の会話が耳に入ってきた。今朝は早めに自宅を出たため、集合時間には余裕があり、ここには今俺達三人しかいない。寮の皆はおそらくまだ食堂だろう。十一月も半ばになり、登校時に頬をたたく風が冷たくなったのを感じる。
 俺はその声に耳を傾けながら、慎重にアンダーソックスを伸ばして履いていく。

「ふわぁ、ねむ。てか、ぶっちゃけ甲子園行けねーんなら修学旅行行きたかったよなぁ」
「まぁな。高校でのメインイベントだもんな」
「ホント何やってんだろな、俺達。ずっとスタンドで応援してるだけで何か意味あんのかな。なんかアホらし……」

 次に、アンダーストッキングを手に取り、前後を確認しながらゆっくり丁寧にソックスへ重ねる。前後は微妙な差だが、違えると大変不恰好になる。少年野球時代、そそっかしいなまえは、よく前後を間違えては慌てて直しに走っていた。
 ズボンの裾を膝下まで上げてソックスガーターで固定。この調節も非常に重要だ。脚が引き締まる感覚を覚えながらズボンを腰まで上げ、ベルトをする。ユニフォーム着用の過程は、グラウンドを渇望する気持ちを高めると同時に、それを静かに抑え込むような儀式だと思っている。物事に真剣に挑むためには、何事も入念な下準備が必要だ。剣術の達人が刀の手入れを怠らないのと同じなのだ。

「辞めんなら今だよな……。今ならまだ高校生活半分は残ってるし。どうせ今からレギュラーなんて無理だしよ」
「キツイ冬練もむなしくなるだけだよな……」

 俺は制服をしまいロッカーの扉を閉めた。先輩たちの方へゆっくり振り返る。

「先輩」
「あ? なんだよ結城。何か文句あんのか? お前は秋大でベンチ入りできてよかったよなぁ?」
「お、おい、やめろよ……」

 目の前の先輩は俺を睨みつけていた。そういえば俺は入部した当初、この先輩を見上げていた気がするが、今は俺が見下げる形となっていた。俺も気づかぬうちに多少なりとも背が伸びたのだろう。
 俺は更に視線を落とした。

「アンダーストッキングが前後逆です」
「え……、あ」

 先輩が脚に視線を移しているのを横目に、俺は出口まで歩きだした。外へ出て、朝の光を全身に浴びながら軽く伸びをする。これから冬を迎える野球部は、体力強化のためトレーニング中心になる。大会は来年の春までお預けだ。
 “甲子園にも修学旅行にも行けない”
来年の俺達にも、もしかしたら起こりうる事かもしれない。しかし、だからこそ俺達はたとえ両方に行けなくとも、後悔しないほどの練習を積まなくてはならない。
 部屋に残された先輩が何事かわめいている気がしたが、俺は気にせずにグラウンドまで走った。秋大が終わり、しばらく試合がないせいか、服装の乱れが気になる今日この頃だ。


 その日の夜の夕食の席で、なまえが俺に意外なものをくれた。

「はい、哲ちゃん、これ。前に渡そうと思ってたんだけど、大会でバタバタしてたみたいだったから渡しそびれちゃって」
「なんだ?」
「いいから開けてみて」

 なまえがニコニコしながら、俺に重量のあるビニール袋を差し出した。中を確認すると、1kgサイズのプロテインの袋が入っていた。しかもこれは、高島先生お勧めの銘柄のものだ。

「これから冬に向けてトレーニング中心になるし、身体作らないとね」
「なまえ……」
「ちなみにそれ」
「ありがとう……」
「え、ああ、うん」

 なまえはなぜか焦ったような面持ちをしていた。照れているのだろうか。

「しかも俺の好きなココア味だ」
「うん……」

 母はたまに安かったからと、バナナ味やストロベリー味を買ってきてくれるが、本当はあまり好みではなかった。特に文句を言ったことはないが、あの甘い後味が俺はどうにも苦手なのだ。ココア味も甘いが、一番飲みやすい味だった。

「本当にたいしたものじゃないから」
「……!」

 なまえは両手を振りながら必死に謙遜している。俺は、まだまだ子供だと思っていた妹が、いつの間にか謙譲の美徳を身につけていた事が嬉しかった。

「なまえ……」
「本当にたいしたものじゃないんだって!」

 そう言い残してなまえは居間を出て行った。それを少し不思議に思いながら、俺はなまえからの贈り物を台所の棚にそっとしまった。


 翌日の昼休み、俺達は廊下で話しこんでいた。気温は低いが、もたれた窓際からは陽射しが降り注ぎ、ブレザーの肩にそれが当たってぽかぽかと暖かい。伊佐敷、小湊、増子とだいたいいつもの野球部の顔ぶれだ。

「最近、少し疑問に思う事があるんだが……」
「あ? なんだよ哲」
「近頃、一部の先輩達が少し小さめ練習着のズボンを履いているだろう? あれはなんだ?」
「あーあれな。自分の太腿の筋肉をアピールしてぇんだよ。ワンサイズ小さめ履くとピッタリすんだろ?」

 伊佐敷は当たり前の事のように話した。

「ま、そんなムダな事してるヒマあったら練習すべきだと思うけどね」
「うが」
「そうだな。……ああ、そういえば小湊は入部当初、大きめのズボンを履いていたな。あれは何か意味があったのか?」

 そう言い終わると同時に、俺の頭に手刀が振り下ろされた。厳密に言うと、小湊のほうが身長が低いので振り上げられたという形か。俺は痛む後頭部を押さえた。

「何をするんだ」
「大丈夫。哲の頭から、その記憶が抹消されるまでの辛抱だから」

 忘れろという事だろうか。それは実に難しい。

「つーか、宮内も最近筋肉つけてきたよな。最初は細かったのによ」
「プロテインとかウエイトに詳しい先輩に伝授してもらったんでしょ」
「あ〜、あのマッチョの先輩か。確かにあの胸板スゲーよな」
「うむ……」

 増子は気まずそうに自分の胸のあたりを眺めている。
 俺は“プロテイン”という言葉を聞いて、昨日の出来事を思い出した。

「そういえば昨日、なまえからプロテインをもらってな」
「プロテイン? あいつが?」
「ああ。しかも部で推奨しているメーカーのものなんだ。あいつなりに色々調べてくれたのかもしれない」

 それを聞いた伊佐敷が、わずかに片眉を寄せる。

「……それってもしかして、飲みやすいココア味か?」
「そうだが?」
「ぶっ!」

 伊佐敷はなぜか、笑いを噛み殺しながら俺の顔を見ていた。

「いや、よかったな哲」
「……?」

 俺は伊佐敷がなぜ笑ったのかよく分からなかった。

「なまえちゃんといえばさ、夏休みに純が『哲に彼女がいる!』って大騒ぎしてたよね」
「ああ、そんな事もあったな」
「うが。ただの勘違いだったが」

 なまえが夜遅くまで俺達の練習を見学していた事が分かり、それを咎めた翌日の話だ。

「仕方ねーだろ、全然似てねぇんだし。まず兄妹なんて思わねーよ」
「確かにね。彼女は純の早とちりだったけど」
「うるせぇな……。つか、青道祭んときもあいつの顔見たけどよ、やっぱ似てねーよお前ら」
「そんな事はない」

 俺は強く否定する。

「じゃあどのへんが似てんだ?」
「耳の形だ」
「微妙すぎてわかんねーよ!! 普通そこは顔のパーツ挙げろよ!!」
「耳も顔の中の一部だろう?」
「いや、そうじゃなくて……」

 伊佐敷はなぜか困り果てていた。

「なまえの耳とは、輪郭といい耳郭といい……」
「あ、そろそろチャイム鳴るんじゃない?」
「お、そうだな」
「うむ、戻ろう」

 三人は俺の説明を聞く事なく、各々の教室へと戻っていった。なぜ誰も聞いてくれないのだ。一人廊下に取り残された俺は、窓の外の空をぼんやり眺める。空に浮かぶ雲は、どことなく逆三角形の上半身が素晴らしいボディビルダーの形に見えた。先ほど、あの筋肉の先輩の話題が出たからだろう。
 今は野球部にとって、長い長いオフシーズンだ。敗戦で落ち込んでいる暇などない。皆それぞれが、目標に向かって再び歩き出しているのだ。俺は拳を握りこみ、目の前の雲に向かってぐっと突き出した。




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