08


マヒロがマルコの部屋に戻った時、案の定そこには空幻がいて、ソファで寛ぐ姿があった。まるで当然のように、まるで当たり前かのように、暢気に過ごす空幻にマヒロは思わず二度見して眉を顰めた。

「話はついたかよい?」
「あ、はい。許可してくれました」
「そうかい、そりゃ良かったよい。あァそうだ、空幻よい」
「んー何じゃ?」
「ここなんだがよい」
「え? その書類って……」

マルコもまた然も当然のように空幻を手招いた。そして空幻に書類を見せながら仕事の話をする。そんな姿にマヒロは唖然として見つめた。

―― 何これ? この二人……何だか凄く仲良くなってない?

訝し気にじっと見つめるマヒロに、空幻は書類から視線を外して見るなりニタリと怪しい笑みを浮かべた。

「何じゃ? ひょっとしてわしとマルコ殿の仲を嫉妬しとるのか?」
「は?」
「……ん?」

空幻の言葉にマヒロは素の声を漏らした。マルコもキョトンとしてマヒロへと視線を移した。

―― 何なのこのクソ爺……。どうしてだか無性に腹が立って来た。

空幻の態度にマヒロはムッとして不機嫌な様相を浮かべた。

「……マヒロ?」

マルコはマヒロのちょっとした変化が気になったのか手に持っていた書類を空幻に押し付けてマヒロの方へと歩み寄った。

「どうしたよいマヒロ?」
「ッ……」

マルコが顔を正面に近付けるとマヒロの瞳がウルウルと涙で濡らし始めていることに気付き、目を丸くした。

「おい、どうし――」
「マルコさん!」
「――!?」

マルコが気遣う言葉を投げ掛けるのを遮るようにマヒロはマルコの懐に飛び込み、マルコの背中に腕を回してギュッと抱き締めた。

「な、何だよい急に……本当にどうしたよいマヒロ?」
「ひょっ! 何じゃ何じゃ見せつけよってからに! 若いのぅ! ひょっひょっひょっ!」

突然の事に驚き戸惑うマルコは囃し立てる空幻の言葉にハッとして慌てて引き離そうとした――が、僅かにマヒロの身体が震えていることに気付き、抱き付くマヒロの背中に手を回しながら宥めるようにトントンと叩いた。

―― オヤジに何か言われたか?

何やらマヒロの様子がおかしいことからマルコはそう思った。

「全くマヒロは相変わらずの甘えん坊じゃて」
「ッ……」

揶揄いにも似た言葉を吐く空幻だが、そこには親心のような温もりがあった。
マルコは視線を空幻に移した。すると顎に蓄えた髭を撫でながら空幻はマルコに微笑を浮かべた。

「仕方が無い。今回ばかりはサービスじゃ。これらの書類はわしが代わりに処理しておいてやろう。じゃからマルコ殿はしっかりとマヒロの相手をしてやっておくれの」
「良いのかよい?」
「何、造作も無いことじゃ。処理しなきゃならん書類も残り少なそうじゃしのう。存分にその子の気持ちに応えてやっておくれ」

空幻はそう言うと机の上にあった書類の束に向けて杖を振るい、宙に空けた亜空間への入口へと飛ばすと自身もその空間へ飛び込んで姿を消した。するとマルコの胸元に顔を埋めていたマヒロがふと顔を上げて不思議そうな表情を浮かべた。

「書類処理……できるの? 空幻が?」
「あ、あァ、おれが空幻に手伝わせる為に強制的に扱いて覚えさせたんだよい」
「え?」
「あまりにも仕事の邪魔をしてくれるんでねい、恐喝して教え込んだんだよい」
「……へ、へぇ…そ、そう……」

島から戻って部屋のドアを開けた時のマルコのピリついた様子を思い出したマヒロはヒクリと頬を引き攣らせた。

―― 恐喝した時は正に鬼の形相だったんだろうなァ……。

過去はどうであれ、今はとても穏やかで優しいマルコが主体だ。そんなマルコを怒らせた時の怖さといったら言葉では表現し難いものがあるとマヒロは思った。
マルコを抱き締める腕にギュッと力が入る。
お互いの身体がより密となるとマルコの胸元にマヒロは頬を擦り寄せた。

「で、本当にどうしたんだよいマヒロ?」
「うん……、あのね……」
「ん?」
「オヤジ様から聞きました。私と会う前のマルコさんのこと」
「!」

マヒロの言葉にマルコは目を見開くと同時にドキンと心臓が大きく弾んで呼吸を一瞬だけ止めた

―― マヒロと会う前のおれのこと……? それは……。

マヒロと出会う前の自分の他者(特に女性)に対して本当に碌でも無い価値観しか持っていなかったことをマルコは自覚している。
更に、思い出したくもない苦く辛い経験をして来た過去に関して知られることは、ただ同情を誘うだけのものでしか無く、そういう目で見られることを好まないマルコにとってはバツが悪いものだった。

「マヒロ、おれはっ」

言い訳というわけでは無いがマルコが焦り気味に声を掛けるとマヒロは首を振った。そして抱き締める腕を解くとそっとマルコの胸に手を当てた。

「……心、痛く無い?」
「!」
「痛く…無いの…?」

憂いを帯びた表情でそう問い掛けるマヒロにマルコは胸を締め付けられる感覚に囚われ、眉間をグッと寄せて表情を曇らせた。

「同情とか、慰めとか、そういうのじゃない」
「!」
「ただ、マルコさんの受けて来た痛みを和らげてあげたいだけ。私の痛みをマルコさんが救い取ってくれたように、私もしたいだけ」
「……マヒロ……」

不思議なものだとマルコは思った。
相手がマヒロなら同情や慰めを受けても然して気持ちに変化は無く、寧ろ頑なだった心が溶かされて素直になれる気がした。
何とも言えないこの柔らかく優しい情愛は凄く心地が良い。これは所謂『母性』というものの力かもしれない。そう思うとマルコの脳裏にある人物の顔がフッと浮かんだ。

―― あァ、成程な。

似ていないようで似ているところが散見してあった。だからこの『母性』も何となく納得した。

「……痛ェ……」

マルコはポツリと零した。するとマヒロは小さく頷いた。

「そうだよね。痛い…よね……」
「痛ェ…けど、良いんだよい」
「え?」
「マヒロの心の方がずっと痛ェ、そんな顔をしてるよい」
「!」
「おれのことは別に気にする必要は無ェよい」

マルコが苦笑を浮かべてそう言うとマヒロは眉尻を下げて言った。

「ダメよ! マルコさんだって本当は!」
「マヒロ」
「辛くて苦しくて孤独で……本当は寂しかった……そうでしょう?」
「……」
「あなただって本当はっ……!」

マルコの胸元に当てた手はマルコのシャツをギュッと握る。そうしてマヒロは泣きそうな表情を浮かべた。そんなマヒロにマルコはまるで観念したというように大きく溜息を吐き――「あー、あー、そうだよい」――いや、開き直ったと言った方が正しい。少し自棄気味にぶっきら棒に言い放った。

「…マ…ルコ…さん?」
「過去に受けた痛みを掘り返して改めてなぶり倒してくれたどっかの祖母さんのおかげで、そういうもんには慣れちまってんだよい」
「……え?」
「散々ボロ糞に罵られたよい」

マルコは苦笑を浮かべた。するとマヒロは目をパチクリさせて首を傾げた。

―― 私の言う『痛み』とマルコさんの言う『痛み』が何だか根本的に違っているような気がする。

そんなマヒロにマルコは少しげんなりした表情を浮かべて話し始めた。マヒロの祖母である幻海に言われた言葉を一言一句違えずに――。

「疾うに過ぎた昔の話をいつまでも引き摺ってんじゃないよ。大事なのは今からこの先どうするか、それを考えな。過去なんてもんは今更どうこうしたって修正なんざできやしないんだ。わかったらいつまでもウジウジしてんじゃないよ。女々しい男はあたしゃ嫌いだよ。いつまでもそうやって亡くなった者達を引き摺ってりゃあ、死んだ者達があの世に逝くに逝けないじゃないか。あんたが引っ張って怨霊にしちまってるってェことを自覚しな。大体何だい、覚悟が全くなってないさね。何ならもっと地獄を見るかい? 教えてあげようじゃないか、本当の地獄というものをね。死にたくなけりゃあ死に物狂いでついて来ることだね。血反吐を何度も吐いて、死んだ方がマシだと思える程に厳しく扱いてやるから覚悟しな」

過去はどうしたって過去。
大事なのは今からこの先の未来をどう生きるかだ。

修行時に幻海がマルコに向けて話した言葉だが、今思えばこれはマルコを通じてマヒロに向けた言葉なのかもしれないとマルコは思った。一方マヒロは思わず眉間に手を当てて悩まし気な表情を浮かべるとガクリと項垂れた。

「……幻海、……祖母らしい言葉の羅列に頭が痛い」
「ハハ……。ある意味で強制的に乗り越えさせられたってェとこかねい。おれの心に残る痛み未だにあるってェんなら、幻海の祖母さんから受けた抉られる罵声が殆どかねい……」
「うっ……、そ、それに関しては……ご、ごめんなさい!!」

マヒロはマルコに向けて頭を下げて謝罪した。幻海の孫でもある自分が物凄く責任を感じ、謝罪せずにはいられなかったのだ。本当に――。

「は…、何でマヒロが謝るんだよい?」
「だって、あの人ったら本当に遠慮なんてしない人だから!」
「いや、そうでもねェよい?」
「嘘! 庇ってるんでしょ!?」
「寧ろ良かったんだよい。おれにはあれだけ厳しく罵ってくれた方が身に染みて理解したからよい」

マルコが首筋に手を当てながら笑った。

―― どうして……どうしてそんな風に笑えるの? どうして?

「マヒロは親父から父性を感じたろい?」
「え?」
「おれは幻海の祖母さんから厳しいが母性を感じたよい」
「嘘……あの人からそんなの……」
「気付いてねェだけだ。厳しさが全面に出てるからわからねェだけだ」
「……」
「あとこうも言われたよい」
「え?」

頑なに否定するマヒロの頭に手を置いてクシャリと撫でながらマルコは続けた。

「あんたが前を向いて立ってもらわないと真尋が困るんだよ。真尋は泣き虫の甘えん坊だからね、あんたがしっかり立って引っ張ってもらわないとあの子は簡単に潰れるだろうさ。あたしゃあんたに厳しく当たるのは、あんたが辛い思いをしても逃げずに必死に生き抜いてきた根性を見込んでのことさね。何も無い輩ならあたしゃあそもそも相手にもしないよ。さっさと過去から立ち直って修行を再開しな。そして真尋の為に少しでも強くなりな。真尋はあたしの大事な孫だからねェ、泣かしたりダメにしたりするようなら承知しないよ」

幻海の言葉を聞かされたマヒロは目を見開くと戸惑いを見せて少し後退った。

―― 嘘……。

「途中からは殆どマヒロを使った脅しが多かったよい」
「ッ……」
「修行を終えて別れる時、幻海が『マヒロを、孫を、頼んだよ』って言ってくれたよい。託されたんだおれは……マヒロをなァ」

クツリと笑ってそう話すマルコにマヒロは今度こそ涙ぐんだ。

「そ、そんなことを…あの人が言ったの? 祖母が…ッ、私を……心配して?」

マルコはコクリと頷くとマヒロの頬に手を添え、今にも零れ落ちそうな涙を拭う様に親指でマヒロの目尻に触れた。

『厳しくて頑固で気難しく冷たい祖母』

マヒロにとっての幻海はそんなイメージしか無い。とてもでは無いが想像し難い。しかし言葉尻は確かに祖母のものだと感じられる。

「マルコさん、私……」
「昔は、そりゃおれも辛くて苦しくて孤独で……マヒロが言う通り寂しかったよい。けどそれはマヒロも同じだっただろい?」
「……うん……」
「おれはもう平気だよい。十分に自己処理したからねい。だからこそ、おれはマヒロの為に、マヒロの心の歪を埋める為に、集中できんだよい」
「ッ……やだ……」
「マヒロ」
「……ズルい。そんなの……私はマルコさんの心を救い上げた自覚なんて無いのに。何も…何もして無いのに……」
「そう思うかい?」
「え?」
「ほら、来いよい」

両手を広げてマルコは促した。その意味がわからずにマヒロが首を傾げるとマルコは軽く溜息を吐いた。

「さっきは自分から飛び込んで来ただろい?」
「…え? あっ…!」

マルコはマヒロの腕を取ると自分の元へ引っ張り込んでマヒロを抱き締めた。
優しく、それでいて力強く、温かい。
凍えて震える不安だらけの心が温もりに満ちて安らいでいく不思議な感覚にマヒロは素直に浸った。

―― 敵わないなァ。本当に、この人には敵わない。

「やっぱり、やっぱり私ばっかり……マルコさんから幸せを貰ってる気がする」
「何言ってんだよい。おれはこれで十分幸せだよい」
「どうして?」
「何度も言うがおれはマヒロが側にいりゃそれで良い。今この時、この世界で、共に過ごし、共に生きて、共に笑い、共に戦い、共に…愛し合える。それが一番大事で幸せなことだ。間違ってるかい?」
「ッ、も、もう、やっぱりズルい」
「何がズルいんだよい?」
「私の欲しい言葉ばかりくれるんだもの。私は何もあなたに言えないのにズルい」
「ハハ、自覚無ェのも困りもんだよい。十分過ぎる言葉をいつもくれてるだろい?」
「例えば……?」
「マヒロはおれが好きかよい?」
「!」

マルコの問いにマヒロは潤む瞳を丸くすると途端に頬に赤みが差して顔を俯かせた。

「……好き…です……」
「ん、ありがとよい」

マルコは抱き締める腕に力を込めてより強くマヒロを抱き締める。トクン…トクン…と温かく優しい鼓動がマヒロの胸を打つ。

「やっぱり敵わない……」
「ククッ、それこそおれの台詞だよいマヒロ」

マルコはクツリと笑った。どこをどうしてマルコが敵わないと思うのか、マヒロは疑問に思って見上げるとマルコは真っ直ぐにマヒロの目を見て言った。

「惚れた弱みってェやつだよい」
「なっ!?」

ニコリと笑って直球の言葉を投げ掛けられたマヒロは思わず面食らい、一瞬だけ、本当に一瞬だけ意識が飛びそうになった気がした。

「も、……あなたが好き。マルコさんが好き。大好きです」
「クク、あァ、ありがとよい」

愛情に満ちた気持ちに堪らず『好き』という言葉を口にする。顔を赤くしながらマルコを見つめるマヒロに、マルコは嬉しそうに笑みを零しながらお互いの額をコツンと引っ付けた。

「ふふ…、よいよい」

マルコの口癖をマヒロが笑みを浮かべて呟くとマルコは「真似すんなよい」と笑いながら言った。。

「今、凄く、幸せ」
「あぁ、おれも幸せだよい」

お互いにクツリと笑い合い、マルコの両手がマヒロの両頬を包んだ。するとマヒロも応えるようにマルコの両頬を包み返す。鼻と鼻がくっつく距離で見つめ合うと、どちらとも無く軽い口付けを交わした。

痛みの行方

〆栞
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