第一幕


時は幕末――
黒船来航により日本は動乱期へと突入した。京都では攘夷を唱える志士達が暗躍し、討幕派の動きが加速していた。そして、それを討伐すべく幕府方から浪士組で構成された『新撰組』なる隊士達と討幕派志士達の斬り合いによる血生臭い日々が続いていた。

ピィィィィィッ!!

夜半遅くに笛の音がけたたましく鳴り響いた。暗闇の中を一人の剣士が颯爽と走り去って行く。
それから暫く後に、ダンダラ羽織を纏った数人の剣士達が辺りを探索しながらその道を掛けて行った。





薄暗い川辺を走って橋の麓に身を寄せた一人の剣士。呼吸が荒く肩が大きく上下している。それでも、息を殺すように努めて気配を消した。隠れる分においてここは絶好の場所だった。草々が生い茂り足元は暗い。剣士の衣もまた闇に溶け込む暗い色をしている為、見つけるには困難だ。

急がないと……。
剣士は焦っていた。仲間がいる屯所へ火急の知らせを届けなければならないからだ。

バシャバシャッ――!

複数の足音が聞こえた。新撰組だ。彼らは辺り一帯を捜索し始めた。
剣士は草葉の陰に身を潜めて彼らが去るのを待った。
一人、また一人と、この場を離れて行く。
暫くして人の気配が無くなると、剣士はその場から早々に離れようとした。しかし――

「待て」
「!」

剣士は、ゆっくりと振り向いた。
今、最も出くわしたくない人物――新撰組一番隊隊長である沖田総司。彼は既に抜刀して身構えていた。

「探しましたよ、橘さん」
「あまり嬉しくは無いな」
「ハハ……、まァそう言わないで下さいよ」

橘と呼ばれた剣士は、親指で鍔を押し上げながら右手を刀の柄に触れるか触れないかの位置に留め、少し腰を落とす形で半身の態勢で身構えた。
目の前にいる沖田総司は優れた剣士だ。油断も隙も与えてはいけない。少しでも気を抜けばその瞬間に斬られていてもおかしくは無い。しかし、それは沖田とて同じであった。目の前にいる剣士の実力は他を寄せ付けない強さだとして名を馳せていたからだ。

お互いに睨み合うこと数分――
どちらが先に動くともなく間合いを取って睨み合っている間に周辺で笛の音が鳴った。
ほんの一瞬、沖田の気がそちらに逸れた。
剣士はその隙を見逃さなかった。抜刀するや否や無駄の無い動きで沖田の首筋を狙った太刀を放つ。

「くっ!」

キンッ――!

バランスを崩しながら沖田は辛うじて剣士の攻撃を受け止めた。しかし、剣士はその勢いのままに力付くで弾き飛ばすように往なして逃走を計った。沖田は強く弾かれたことで体勢を崩して思わず地に膝を突いた。その為、直ぐに剣士の後を追うことができなかった。

「沖田さん!」

沖田総司が誰かと対峙していることに気付いた他の隊士達が慌てて引き返して来ると沖田は直ぐに指示を出した。

「追ってください! あれは討幕派志士! 橘迅です!」

指し示された方角へ隊士達が走って行く。だが、沖田が視線を向けた先に人影は既に無く、ただ暗闇が広がっているだけだった。

「やっぱり一筋縄ではいきませんか……」

討幕派志士 橘迅――
名を知らぬ者はいない程、彼の名は天下を駆け巡っていた。
最強と噂される剣の腕。状況判断、先読み、冷静さ、豪胆さ等、全てにおいて秀でた剣士。
幕末期に忽然と現れたその剣士は、今や討幕府派勢力に加担している。仕える国本が無いのであれば、流浪の浪士であるのなら、できることなら新撰組として力を貸してくれたらどんなに良かったことかと沖田は度々思う。
そして――
案の定、橘迅は隊士達を振り切って姿を眩まし捕らえることができなかった。

「沖田隊長、すみません」
「いえ、追い付いたとしても恐らく斬られてしまう可能性が高いでしょうから」
「ッ……」
「屯所に戻りましょう。土方さんに報告します」
「はい」

橘が逃げ去った方角を見つめながら刀を鞘に戻した沖田は、隊士達と共にその場を立ち去った。





夜が明けて日が高くなった頃、本営とされた男山八幡宮に掛け込んだものの長州藩の軍勢は最早そこには無く、蛻の殻だった。

「クソッ! 間に合わなかった!!」

『武力をもって京都に進発し、長州の無実を訴える』――進発論を断固反対する桂小五郎の手紙を彼らに届けることができなかった。
橘は荒い呼吸をそのままに地に膝を突いてギリギリと歯を食い縛った。だが直ぐに首を振った。

「いや…、まだだ。まだ、間に合う。長州藩が朝廷に刃を向けた朝敵とされてしまう前に、何としても止めなくては!」

橘は長州藩の軍勢が向かったとされる方角へ急いで駆け出した。

〜〜〜〜〜

「橘君、まだ幼い君にはわからないだろうが、その年でそれだけの腕を持つ君は、きっと凄い剣士になるだろう。いつかきっと……、この国の運命を左右する程の存在に……」

〜〜〜〜〜

恩人の声が頭の中で響き、胸が苦しくなる。

「松陰先生! 私は! あの時、海を渡ろうとした貴方の気持ちを、子供ながらにわかっていたんです!」

――この国は病んでいる――
世界から隔離され特別な文化を育んだこの国は、黒船来航の折に激動の時代へと突入していった。欧米諸国がこの国を狙い食い物にしようとするのは、この国に魅力があり尚且つ弱者であったが為だ。
この国を守る為、欧米諸国と対等になる為には力を持たなければいけない。その為には、敵国の文明や知識を得る必要がある。『己を知り、相手を知る』のは何も剣や戦場におけるものだけの話ではないのだ。

冷静になれ! 戦うな! 状況を見ろ! 相手を間違うな!

だが、その願い虚しく長州藩は、蛤御門にて遠征した薩摩軍によって敗退した。更に、若く有望だった久坂玄瑞が、寺島忠三郎らと共に鷹司邸内にてお互いに刺し違えて自害し果てたのだった。

「すみません桂さん。お力になれず……」
「いや、気に病むな。君のせいじゃない」
「ですが……!」
「まだ終わりじゃない。君もそう思うからこそ、こうして生きているのだろう?」
「ッ……」
「君はまだ若い。これから先、この国を担う人物にきっとなる。だから決して死ぬんじゃない。生きることを考えなさい」
「桂さん……、今の仰った言葉をそっくりそのまま貴方にお返しします」
「どこへ行く?」
「私は、私でやれることをやるまで……」
「敢て自ら修羅の道に行くのか?」
「私ができるのは、この剣で邪魔者を消すことのみ」
「そうか……。高杉はきっと怒るだろうな」
「逆ですよ。寧ろ高笑いが聞こえてきます」
「人斬りの成れの果てなど見たくはない。気をしっかり持て。良いな?」
「……はい」
「おい、そこにいるのは誰だ!?」
「「!」」

ダンダラ羽織を羽織った剣士が刀を手に向かって来る姿が見えた。

「逃げて下さい」
「すまん」

橘は刀を抜いてその場に残り、みすぼらしい格好をした桂小五郎は暗闇に紛れて逃走した。

「お前は!?」

ザシュッ――!

「がっ! かはっ……!」

暗闇にいた人物が橘迅であるとわかった時には、放たれた一閃によって隊士は心臓を貫かれて絶命した。
橘はヒュンッと刀を振って刃に付いた血を払うと静かに鞘に納めた。そして、先に逃げた桂小五郎とは別の方角に向けてその場を立ち去った。

この日を境に橘迅は、人斬りとして京都を中心に多くの志士を殺害して行く。最早その名は京都に留まらず各地へと瞬く間に広がり、遂には江戸幕府に従事する者達の耳にも届き、戦々恐々とする畏怖の対象となっていった。

幕末動乱の末期となる頃、薩摩と長州が坂本龍馬の手引きによって会合を行い同盟を結んだ。これにより倒幕への動きが一気に加速していった。朝廷の軍旗をはためかせる薩長軍が朝敵となった幕府軍を討伐すべく進軍する。その中には行く先々で起こる戦禍の中で剣を振るう橘迅の姿があった。

敵の返り血を浴びながら多くの者を瞬時に斬り殺していく様は一種の舞のようで、血飛沫が飛び交う凄惨な場面でありながらもその動きは神々しささえ感じられた――と、共に戦う者達が後に語る程に強い印象を与えた。

古武流剣術一迅の太刀――
始まりは神前に奉納する舞だったというそれは、江戸より更に東国の地にて発症したとされる幻の剣術だ。西国を拠点にする者達にとっては異彩を放った剣技に見えた。そして、それは味方でありながらも思わず畏怖を抱く程に苛烈を極めた。

「うああああっ!!」

ヒュンッ――!

恐怖に駆られた者が剣を振り翳して背後を襲っても一瞥すらされずに無残に斬られて息絶える。襲い来る者達の攻撃を回転しながら舞うように軽やかに躱し、自ずとついてくる刀の軌道は敵の首をあっさりと斬り落として行く。多くの返り血を浴びながらも何の躊躇いも無く表情一つ変えない冷酷な人斬りの姿に多くの者達が恐れをなして戦場から逃げ出した。

数日後――
幕府は無血開城により江戸城を放棄した。こうして徳川有する江戸三百年の歴史に幕が下ろされたのだった。だが、戦いはこれで終わりでは無かった。まだ幕府の残党勢力が各地で抵抗を試みていて、その筆頭は会津藩だ。

「橘、無理をするな。お前はもう休め」
「いえ、戦います」
「よせ。お前……、休まなければ本当に戻れなくなるぞ」
「桂さん、松陰先生や久坂の夢……、あなたに託しましたよ」
「橘!!」

桂小五郎の制止を振り切った橘は会津遠征に参加。そして、希代の人斬りと恐れられた彼はこの戦の最中で姿を晦まし行方不明となる。
会津戦争が終結した日、橘迅は齢二十五でこの世を去った者として葬られ、歴史上に彼の名が残ることは無かった。


〆栞
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