遡河魚生け捕り生食計画
▼第一話 



「あ、死んだなコレ……」

ディートリヒは呟いた。
崖上から飛び出してしまった失態に最早諦めが浮かぶ。とんだ馬鹿をやらかしてしまった。断崖絶壁、このまま50メートル程にはなるだろう崖下へと落ちれば、十中八九死ぬだろう。運良く生きられたとして、タダでは済むまい。

彼は顔をこれでもかと引き攣らせながらもしかし、少しでも落下の衝撃を和らげようと木々の先端に必死で手を伸ばすのだった。


町民に偽装した恰好のまま、彼は森の中を必死で駆け抜けてきたのだ。一体どこでバレたのか、追手はこんな田舎町にまでやってきていたのだ。追手を巻こうと迷わず険しい山中の森へと駆け込んだのだが、相手はどうやっているのか、森の中に隠れてもすぐに見つかってしまう。彼等の中に魔法使いでも居るのか、とディートリヒは最悪のパターンを想像した。

自分の生きてきた三十五年と少し、ちゃんと主に尽くしてきたつもりだったが、どうやら向こうは違ったらしい。己は切り捨てられる程の人間でしか無かったようだ。裏切り裏切られるが当たり前の世界で、少しでも信じてしまった己が馬鹿だったのだろう。ディートリヒは麻痺してしまっている感情で、しかし確かに微かな痛みを覚えていた。

木々なのか自分の身体なのか、ボキボキと折れていく音を耳にしながら必死で腕と手を伸ばし、ディートリヒは地面に激突し、転がり、何度も木々やら岩やらに激突した。4回目位まではなんとか耐えられたものの、5度目はとうとう身体が耐えられなかった。

骨がどっかイッてるだろうな。そんな他人事の思考を最後に、彼はプッツリと意識を飛ばしてしまったのだった。



崖上から、その様子を眺めていた者達がいた。彼等は音を立てながら崖のギリギリの所で踏ん張り立ち止まると、それぞれが崖下の方を窺い見た。3人の男達は、フードローブからブーツから手袋まで全てが黒尽くめだった。顔はほとんど見えなかったが、それぞれが異様な雰囲気を放っており、普通の町人なんかが遭遇して、フードの中をの少しでも見えてしまったのならば、たちまち泡を吹いて気絶してしまうような恐ろしさがあった。それ程に、彼らは異質だった。それら3人は、少しの間、互いを見合って微かに頷くと、その場から瞬く間に姿を消してしまったのだった。

そこに残ったものは何もなく。
森の中、崖下で草に覆われながら倒れる男が一人。








* * *








ディートリヒはここ何年も感じたことのないような懐かしい匂いに誘われて目を開けた。太陽の光に溢れた部屋の中、木目の天井が優しく暖かな色合いを出している。知らない眺めではあったが、彼をどこかホッとさせる。

次に、ディートリヒは首をゆっくりと動かしてみた。それと同時に首も背中も腕も痛んで微かに涙が目に浮かぶも、しかし我慢できぬ程では無かった。ディートリヒは痛みを堪えながら、半ば無理矢理に左へ向いた。自分の中途半端に長い白髪が目に入り、その先にはもう一つだけベッドが備え付けられているのが見えた。

キッチリとメイキングされた隣のベッドは、殆ど皺が見当たらない。ここの住人は随分と几帳面なのだろう、とディートリヒはぼんやりと思う。そのベッドの奥には扉が見えた。あそこが正規の出口、ディートリヒの足なら3歩あれば届くだろう。それ以外に逃げ道はないかと目をぐるりと動かせば、自分の横たわっているベッドの正面の方に窓が見えた。人ひとりは通れるサイズだ。ほとんど無意識に、ディートリヒは真っ先にそれらの逃走経路を確認して、そこで漸く少しだけ安心した。

こうやって、知らない天井を見上げる事は何度もあった。その度に行ってきた逃げ道の確保は、最早彼の習慣と化している。例え大怪我を負っていたとて、それを無意識にできる程に彼には染み付いている。そうでなければ、彼はとうに死んでいたろう。それは最早、生き残る為のスベだった。

次にディートリヒは、この部屋の主を知るべく部屋の観察を続けた。この家の主は実に几帳面で、きちんとした人間らしい生活を送っている事がわかる。香ってくる食事の芳しい香りからも、微かに聞こえる水音からも、ここの人間が商人並に豊かな暮らしを送っている事は想像に難くない。

だが同時に、ディートリヒはひとつの懸念を抱いた。果たして家主は、あの険しい山中の森の中に住んでいる者なのだろうかと。だとすれば相当の癖者に違いないと。ともすれば、自分のような訳の分からない後ろ暗い人間だったり。想像すれば想像する程、良い考えは浮かばなかった。

あれだけの深い森と険しい山々は、普段は人も殆ど近付かない。だから、ディートリヒは逃亡の際ににこの山を選んだ。追手も撒きやすいと睨んでの事だ。まさか先に自分が下手を打つなんて事は予想だにしていなかったが。しくじったなぁ、とそんな感想を抱きながら次に、ディートリヒは明らかに常人ではないだろう家主に、どんな言い訳をしたらよいかを考えるのだった。
そうしている内に、ディートリヒはうとうととしてくる。窓から入ってくる日の光が、丁度良い陽気を彼に伝えてくるのだ。余り陽の光が得意ではないディートリヒだったが、柔らかな雰囲気と暖かさが、ディートリヒを眠りへと誘う。傷も深い、疲労も溜まっている彼が、再び眠りにつくのはすぐだった。薄い紫をした眼が、ゆっくりと瞼の下へと隠れていった。














次に気付いた時、ディートリヒはすっかり寝過ごしてしまっていた。確か早朝に目を覚ましたと思っていたが、いつの間にか眠ってしまったようだ。既に空は茜がかった色へと変化していて、昼もとっくに過ぎてしまったようだ。腹も空腹な気がする。自分は死んではいないようだが、身体を動かせば何処かが痛む程には怪我が酷い。故に、体力の回復に身体が睡眠を欲していたらしい。ディートリヒはそれに気付いて、ふぅっと息を大きく吐き出した。

ここまでの酷い怪我は、ディートリヒの駆け出しの10代の頃以来の事だった。初めてやらかした日も、何処かの親切な人間に助けられた。未熟だったのだと、彼は今でも後悔している。その時は、助けてくれた家の人間が全員皆殺しになった。他でもない、己の主の命で。

それからも何度か同じようなミスをする事はあったが、浅知恵を振り絞って皆殺しだけは何とか避けてきた。そもそもこんな大怪我さえしなければ良いのだが、未熟な部分は中々消えてはくれなかった。それから十年以上も同じことを延々と繰り返して、ようやくまともになれたのが此処数年の事。長くは続かなかったが。

そして、その結果がコレである。ディートリヒは考えれば考える程何とも情けない気分になってしまって、そこで考える事を辞めた。


「あれ?やっぱ起きてる」

突然隣から聞こえてきた声に、ディートリヒはその場でビクリと身体を震わせ、そしてその反動で遅れてやってきた全身の痛みにしばらく悶えた。

「おどろかせちゃった?」

しばらく痛みに悶え終えた所で、ディートリヒは漸く声の聞こえた方へ目をやった。途端に彼は驚愕した。そこには、世にも美しい男が立っていたのだ。何故、こんな森の中に。元より表情を動かさない事に神経を注いでいたディートリヒは、辛うじて反応を面に出す事はなかったが、恐らくそれが無かったら彼は目ん玉をひん剥いて惚けてしまったに違いない。それ程の美貌だった。

シルバーブロンドと呼ばれる類いの髪を肩口で切り揃えた男は、その整った顔に優し気な笑を浮かべている。その目にはサファイアでも埋め込んだかのような深い蒼色が微かに見えて、油断すれば目に吸い込まれそうな感覚に陥る。若者らしく、そして森の中に住んでいるとは思えぬ程にみずみずしい陶器のような白肌で、頬や唇といったそこにピンクを帯びた赤が落ちていなければ、人形と間違えんばかりだった。

そんな完璧な容姿の中で、時折髪の隙間から垣間見える淡い水色の小さな石が、やけにディートリヒの印象に残った。そして次の瞬間には、ああなんだ彼は魔法使いかと、ディートリヒは合点がいった。
あれは、魔力に関する道具の何かだ。以前に宮廷魔法使いだかのそれを見たことがあった。ディートリヒは、そう直感した。

「何で、あんな所に?」

身体を横たえるディートリヒのベッドの傍で、男はいつの間にやら椅子に腰掛けている。そこで問い掛けられたディートリヒは、尋問だなと直感した。目を瞑って大きく息を吐き出す。気持ちを落ち着けるのと同時に、どんな嘘なら通じるだろうかと思案した。それから間も無く、ディートリヒは目を開けて、改めておキレイな男を見上げたのだった。

「落ちた。あの上の崖から」
「へぇ?……良く、生きてるね。それに、何であんな崖上から?街道からも随分離れてるし、意図しないとあそこには辿り着けないと思うんだけど」
「逃げ回ってたんでね。山の中まで地理は詳しくないし、周りに気を配る余裕がなかった」
「追われてるの?」
「まぁ……、な」
「ふぅん?……まぁ、いいや。オジサンどっから逃げてきたの?」
「北の方」
「北のどこ?」
「……それ以上知っても、厄介なだけだぞ。怪我が治ったらすぐ出てく。感謝はしてるし礼もする。だから首突っ込んでも良い事なんてなーー」
「良いか悪いかは僕が決める。アンタだって気付いたんでしょ、僕は魔法使いだ。耳のピアスを知ってるって事は普通の人じゃないよね。逃げてるって事は捕まりたくないって訳だ。ーーなら余計に、僕の気が済むまでは逆に帰してあげられないよねぇ。隠居してるから他人に此処を知られたくないし、アンタが此処にやって来た理由、僕は信じてないからね?」

男の張り付けたような笑みを浮かべながら言った男に、彼は思わず黙り込んでしまう。ディートリヒが思っていた以上に、男は食わせ者だった。隙なくディートリヒを観察して見破ったのもそうであるが、全く信用していないと言った男の目。全く笑っていない。

ああ、この男もそうなのだと、ディートリヒは逆に親近感を覚えた。自分と同じだ。似たもの同士、互いを監視する。今までと何ら変わらない。この、見掛けばかりの暖かい家は、単なる箱に過ぎなかった。少しだけ、普通が分かるのかもしれないと期待していたディートリヒは予想通りの展開を残念に思う。

「監視か、ーーそれならばまだ納得もいくが。……追われてるのは本当だ。回復したら出て行く。関わるな、ほっとけ」
「…………」
「どうせお前も後悔するだけだ」
「……まぁ、今はそれで許す。でも、アンタの都合じゃなくて、僕の判断でアンタをどうするかは決めるよ。身体鍛えてるようだし、中々使えそうではある。ノー・マジ(非魔法使い)があの崖から落ちて生きてるなんて、ほんと信じらんないけど……暫くこの僕が匿ってあげる」
「……勝手にしろ」


 そもそもディートリヒは実行する側であって、交渉ごとは門外漢だ。口下手で筋肉バカ、戦闘やら荒事やらのセンスだけはまぁまぁ持ち合わせている御歳三十*歳。少々強引な男を説得する程の頭は生憎と彼にはなかった。結局、ディートリヒはこの歳にしてとうとう、年下の美人な青年のヒモになりましたとさ。
 めでたしめでたし。


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