遡河魚生け捕り生食計画
▼第七話 




 イェルンはただ無心で腕を動かした。
 まるで飛び回る羽虫を叩き落とすが若く。一人、また一人とソレが消えようが、何とも思わなかった。

「ッば、化け物がーー!」

 幾度となく呼ばれた呼び方で呼ばれようが、イェルンには最早どうでも良かった。そこいらの虫も、獣も、人ですら同じ。自分に害なすものは皆、ただの動き回る物体に過ぎない。
 久々に己の魔力に存分に浸されたイェルンは、すっかり酔ってしまっていた。この世で強大な力を持つ魔法使いが皆、悩まされるというその症状に。

 魔女と呼ばれる者達がこぞって人の世を離れるのは、己の魔力が及ぼす影響の大きさを危惧しての事。それは確かに真実ではあるのだが、それは半分でしか無かった。そのもう半分が今、イェルンの陥っている症状のせいだ。
 人のとしての心を、何処かに置いてきてしまう。魔力そのもののせいなのか、それとも巨大すぎる力に精神が耐え切れなくなるからなのか。実際の所は誰にも分からない。
 しかしけれども、それは強大な魔力と共に、周囲には多大な影響を及ぼすのである。

「ヒッ、あーーー」

 またひとり、その場から人間が減った。
 イェルンの周囲一帯は最早氷で覆われ、そんな季節ですら無いにも関わらず冷気が漂っている。呼吸をすれば、吐き出した息は白く濁った。木々すらも凍りつき、滴れる氷柱は地に到達する程育っている。
 イェルンはそんな中で、氷で出来た岩のような塊の上に、ただ座っていた。如何なる感情すらも浮かべず、淡々と人を襲う。まるで神か精霊かのように。

「あんなのーー、敵う筈がない……」

 誰かが小声で呟くのを、その場の誰も肯定しない。言わずとも、見れば分かる。出会ってしまったが最期、怒りを買ってしまったが最期。

 あっという間に、その場にいた魔法使いは4人全てが狩り尽くされてしまった。何せ魔法使いというのは、誰も彼もプライドが高く、己が負けるはずが無いと理由もなく信じているーー否、理由はあるが。
 しかし、圧倒的な魔女の力の前には、国一番の宮廷魔法使いだろうが、そこいらの雑魚魔法使いだろうが、唯の人間と大差はないのだ。だから率先して突っ込み、そして率先して死ぬ。死ぬ間際まで、彼らは己の勝利を信じて止まないのだ。
 イェルンが魔法使いが厄介だと言ったのは、ただ単に自分の魔力の大部分を無理矢理押さえ付けたままでは狩りにくい、という一点につきる。今やその押さえ付けていた部分も全部、ついうっかり洩らしてしまって、イェルンはこんな状態になってしまっている訳なのだが。
 こうなってはもう、敵を殺し尽くすまで止まらないだろう。そしてイェルンが気付いた時には。そこら一帯はきっと、永久凍土が如く人の住めぬ土地へと変わり果ててしまうのだ。
 忙しなく動き回る彼等を一人、また一人と潰していく。まるで、地を這う虫を踏み潰してゆくが如く。

 だがそんな時の事だった。
 イェルンの死角に、運良く滑り込んだ男が居た。気配を徹底的に消し去り、音もなく獣のように素早く背後に回り込む。
 常ならばイェルンも気付くだろう。けれどもその時、イェルンはいつもの彼ではなかったのだ。壁一枚、隔てたかのように他人事。魔力の気配には敏感だが、魔力もない、暗殺者の消し去られた気配などは追えなかったのだ。
 またとない好機。彼等がそれを見逃すはずもなかった。その隙を狙い、男の持つ刃物がイェルンに牙を剥くーー。

「んなッーー!」

 だが、その刃はイェルンに当たる事はなく。突如横から伸びてきた手によって阻まれた。
 刀身を握ったその手には血が滲み、ポタポタと地面に赤いシミを作った。

 その突然の乱入に驚いたのは、何も刃を向けた男ばかりではない。声に反応して素早く背後を振り向いたイェルンもまた、先程までの様子が嘘のように驚きの表情を浮かべていた。
 まるで、長い長い夢から覚めたかのように、その淡いブルーの瞳の奥に微かな意志が宿る。

「ーーーーディー、トリヒ……」

 まるで夢見心地に呟くかのような声音だった。イェルンはジッと、ディートリヒの横顔を眺める。
 ディートリヒの顔には微かな怒りの色が見られた。感情の薄い、いっそほとんど見られなかったあの、ディートリヒが。イェルンがそれだと分かる程に怒っている。
 イェルンはそこで、ぼんやりとしながら不思議に思っていた。ディートリヒは一体、何を怒っているんだろうかと。夢見心地にイェルンは心の中で呟く。

「だから、言ったんだ」

 怒りすら滲ませた声音でそう言うと、ディートリヒは。
 イェルンが追えぬ程の速度で、ディートリヒは男に何かをした。何も見えなかった。気が付けば、刃を向けてきたその男は宙を舞っていたのだ。
 そこからは、イェルンが再び男達を攻撃する事は無かった。そうするよりも早くらディートリヒが、黒尽くめの彼等を蹴散らしていったのだ。場に漂う冷気なぞモノともせず。身体の不調すらも、老いすらも感じさせぬ程の暴れっぷりで。
 ひたすら彼等から逃げ続けていた時とは大違いだった。攻撃は最大の防御とはよく言ったもので、一度屠ると決めたならばもう、ディートリヒは今なお優秀な兵器なのである。
 まるで先程までのイェルンのように、ディートリヒは彼等を次々と地へ転がしていった。倒れた者達はもう、二度と立ち上がれまい。腹を括ったホンモノの殺し屋は、決して下手を打たないのである。


 それからどれ程の時間が経っただろうか。イェルンはその間ずっと、ディートリヒの姿をただ眺めていた。
 目にも留まらぬ速さで駆け抜け、まるで死神かのように奪った刃で一閃する。敵の短剣もナイフも、彼に当たろうはずもなかった。元が違いすぎる。例え全盛期は過ぎたとて、彼等の一族は夜を駆ける戦士なのだから。
 いつの間にやら戦いの気配は消え去り、周囲はすっかり静けさに包まれた。

「ーー大丈夫か?」

 いつ、それが終わったのかも分からぬまま、イェルンがぼんやりと何処かを眺めていると、彼のすぐ近くから声が聞こえてきた。
 ゆっくりと緩慢な動作で見上げれば。ディートリヒがすぐ近くにまで寄って来ていた。
 月明かりに背後から照らされ、彼の白髪がまるで金糸のように輝いて見える。暗がりで顔はよく見えないけれども、きっとその目は、アジサイのように淡い紫色を湛えているのだろう。きっと、想像するよりも美しいに違い無い。
 ああまるで、自分を迎えに来た死の天使か何かのようだ。イェルンは何を言われているのか考えも及ばず、ただそうやって見つめるだけ。そんなイェルンが、正気では無い事は誰の目にも明らかだった。

 そんな、返答も碌にできないイェルンにディートリヒは。一瞬の戸惑いの後、座っている彼の肩口に正面から顔を埋めた。その肩は、微かに震えている。

「よか、った……」

 大きく息をつく音と共に漏れ出た小さな声もまた、微かに震えていたかもしれない。けれども今のイェルンは、そんな事にさえ気付けない。
 しばらくそうしていた後で。ディートリヒはイェルンの傍から離れていった。それでも尚ぼんやりとするイェルンを、ディートリヒは腕を引きながらゆっくりと連れて行く。

「帰ろう」

 ポツリ、ディートリヒによって静かに口にされた言葉にもやはり、イェルンは応える事はなかった。
 ここ数ヶ月ですっかり歩き慣れた道を、ディートリヒは進んでいった。途中まで凍り付いてしまった森はしかし、ある一線を越えてしまえば元の姿のままを保っていた。あの一帯はしばらくの間、凍り付いたままだろう。夏には涼しくて、休憩には丁度良いのかもしれなかった。

 来た時と同じように草木を掻き分け、安全な道を選んで進む。
 虫の声と草木の擦れる音だけが響く静かな夜。先程までの喧騒なぞ最初から無かったかのように、穏やかな夜だった。


 そうして半刻程も歩けば、そこはもうイェルンの住む家だった。宮廷魔法使いにも、魔女にもおよそ似つかわしく無い、小さく小ぢんまりとした家だ。
 家に入るなり、ディートリヒは真っ直ぐに寝室へと向かった。つい数時間前までは、普段通りに好き勝手騒いでいたはずなのに、そんな気配はとっくに消え失せてしまっていた。
 ディートリヒはまず、様子のおかしいイェルンをベッドへと座らせる。普段とはまるで逆の立場に、ディートリヒは何とも言えない気分を味わっていた。
 とうとう熱を持ち始めた手の平を庇いつつ、今自分が出来ることに思考を巡らせる。今、少しでも腰を落ち着けてしまえば、ディートリヒはきっと動けなくなるに違い無い。
 けれど今、彼は倒れる訳にはいかないのだ。イェルンはきっと、自分の所為でそうなってしまっているのだから。彼をどうにかするまでは、ディートリヒが何とかしなければなるまい。
 ディートリヒの気分はすぐれなかった。いつ、元のイェルンに戻るのか。そもそも元の彼に戻るのか。戻ったところで、イェルンは普段通りに自分と接してくれるのか。
 ディートリヒは内心、不安で堪らない。

「そこで、待ってろ」

 そう言って寝室を出ると、手慣れたように茶を沸かす。最早この家の家主程に知り尽くしたキッチンには、イェルンが好きなものに加えて、ディートリヒが気に入ったものも多数、取り揃えてある。何を考えているのかさっぱり分からないと、そう言われるのが常であったのに。どうやってバレるのか、イェルンは目敏くディートリヒの好みをたちまち見抜いてしまうのだ。
 ディートリヒはまさか、自分がこんな普通の生活が送れるだなんて想像すらもしていなかった。
 だからだろう。今は、この生活が壊れる事が恐ろしくて堪らないのだーー。




* * *




 イェルンが目を覚ましたのは、いつもよりも遅い、昼も近い時分だった。
 窓から見える日差しはすっかり熱を帯び、照り付けるようだった。普段ならばすっかり家事を終え、昼の支度を始めるような時間だろう。
 イェルンは窓の外を眺めながら不思議に思った。何故、今日に限ってこんな時間に起きたのだろうか、と。昨晩は、一体何をしていたのだったかーー。
 そこまで考えた所で、イェルンは飛び起きた。何があったのか。何を見たのか。何をしたのか。イェルンは鮮明に思い出してしまったのだ。

「ッーー!」

 イェルンは起き上がってまず始めに、ディートリヒの姿を探した。キョロキョロと周囲の気配を探り、慌ててベッドから降りようと視線を下に下ろした所で。イェルンは目的の人物を見つけた。そして同時に、彼は息を呑んだ。
 ディートリヒは、イェルンの側に椅子を置いて座り、ベッドに上半身を預けながらその場で眠っていたのだった。
 ホッと詰めていた息を吐き出すのと同時にしかし、イェルンは気付いてしまった。ディートリヒの息が荒い。心なしか苦悶の表情が見える。
 途端、再び焦燥感を覚えたイェルンは、慌ててその額に手を当てる。案の定、熱があった。早く寝かせて身体を癒やさなければ。そう逸る心を押さえ込み、素早くディートリヒの様子を観察した。理由は何だ。あの程度の怪我でこうもなるものか、と。
 そして次に、イェルンはディートリヒが右手を庇うように、胸の前で両手を抱え込んでいることに気が付いた。それを身体の下からそっと引っ張り出してやれば、しっかりと巻かれた包帯に、赤黒く変色した血が滲んでいた。
 イェルンは目を覚ます気配の無いディートリヒをその場で抱えると、自分が眠っていたベッドの上へと引き摺り上げた。
 最早意識のない彼を介抱するのも慣れたもの。彼はディートリヒの用意したであろう椅子に座りながら、巻かれた包帯を解いていった。
 それは、イェルンを庇う為に彼が受けた傷だ。いくらディートリヒの為とはいえ、暴走していた自分にも責はある。
 現れた傷口を見て、イェルンは眉根を寄せた。

「毒、か……そりゃあ使うよね。暗殺者だし……」

 珍しく顰めっ面をしながら、イェルンは紫色に変色した傷口に黙って魔法をかけた。魔女とまで呼ばれた魔法使いだ。回復魔法や解毒魔法なぞもお手の物である。
 その、はずだった。だが、いつまで経っても消える様子のない毒の様子にひとつ、イェルンは顔を顰める。

(僕の魔法が効かないーー新種か)

 彼は舌打ちをした。イェルンの手にかかれば、解毒の効かぬ毒なぞはこの世に存在しないはずだった。もし、そんなものがあるのだとすれば、それはイェルンの知らぬ新たな毒。それも、魔法耐性のあるものに違いないのである。
 魔法の効かない毒というのは、大抵が人工的に造られたものである。毒を精製する段階であらゆる魔法をかけ、組み合わせ、魔法や魔力への耐性をつけてしまう。とんでもなく時間がかかり、そして高価なものであるがしかし、並の魔法使いには手も足も出ない程には強力で、そして解毒にはかなりの時間がかかるようなものだった。
 だが、イェルンは魔女とまで呼ばれた魔法使いだ。いくら魔法耐性があろうと、解毒など容易かった。
 だからこそ、そんな魔女ですら梃子摺る毒があるとすれば。それは新たな耐性をつけた、最も強力なものであるに違いないのである。

(この、僕にできない事なんてこの世にある筈が無い。絶対あってはならない。ディートリヒは、僕のなんだからーー)

 怒れる魔法使いイェルンは、ありったけの知識と魔力と道具を使い、その後一日中、ディートリヒの治療に専念したのだった。

 来るもの拒まず、去る者追わず。淡白だった筈のイェルンは今、驚く程の熱量で、たった一人を生かす為に毒とすら格闘するーー。



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