遡河魚生け捕り生食計画
▼第八話
ディートリヒがハッキリと目を覚ましたのは、その日から2日後の事だった。よく晴れた、いつもの朝だった。
突然、フッと意識が戻ったのだ。まるで何処かの空間から落ちてきたかのように錯覚して、身体がビクリと一瞬震えた。しかし同時に酷く怠い身体を自覚して、ディートリヒは身じろぎも出来ずに大きく息を吐いた。
しばらくそうした後で。幾分か余裕の出てきたディートリヒは、あちらこちらに目をやる。探したのは当然、イェルンの姿だ。
だが今、部屋には誰の気配もないようだった。ディートリヒにはそれがほんの少しだけ寂しく思えた。
頭をゆっくりと動かし、寝室とリビングとを繋ぐ廊下の方へと顔を向ける。扉の向こう側では、誰かが微かに動く気配がした。
それに少しだけ安心して、ディートリヒは再び目を閉じたのだった。
記憶はハッキリと残っていた。一体、どれくらい前になるのか。
その時、イェルンが目の前で戦っていたのは覚えている。相手はディートリヒが良く知る者達だった。見間違いようもない。
イェルンはディートリヒの事を守る為に、或いはもしかすると、己の領域に踏み込もうとしてくる邪魔者をただ排除しようとしただけなのかもしれない。自惚れなのかもしれない。けれどもそれは結果的に、ディートリヒを守る事になった。
そんな戦いの最中だ。イェルンが次々とあれらを屠っている最中。その毒牙がイェルンを狙ったのだ。
ディートリヒは知っていた。あれに刺されれば恐らく命はない。いかに強力な魔法使いといえど、魔法の効かない毒に対抗する手立てはないに違いないのだと。
ずっとずっと自分の世話を焼く不思議な男。ディートリヒに普通を覚えこませようとする、美しく彫像の如く笑う天使のような男。連中は、そんなイェルンを狙ったのだ。
それに気付いてしまった途端にだ。ディートリヒは己の血が沸騰するような怒りを覚えたのだ。それ程の憤怒に駆られたのは、彼の人生の中でも初めての事だったかもしれない。自分の命なぞは惜しくない、だなんて。逃げ出した癖にそんな事を思ってしまう程、ディートリヒは怒りに我を忘れた。
彼を傷付ける者は、何者だろうと許せなかった。地の果てまでも追いかけて、確実に息の根を止めてやる。そう考えてしまう程に、ディートリヒはその時静かに怒り狂っていた。
暴力的な思考に支配され、彼は気付くとあれらを殺して回っていたのだ。逃げようとする者すらも追いかけ捕まえて一人残らず。まるで死神にでも取り憑かれてしまったのかと自分でも思うほど。
そうして次に彼が我に返った時。周囲は血の海だった。だがその時、ディートリヒにはイェルンの事しか見えていなかった。心配でならなかったのだ。以前は思いもしなかっただろうそんな感情を、ディートリヒは極自然に覚えてしまった。
終わるや否や、ディートリヒは慌ててイェルンの元へと駆け寄った。慌てて彼の体中を検分するも、当の本人に怪我はないようだった。
だけれども。イェルンの様子は明らかにおかしかった。底抜けに自分の事しか考えていないような彼が、戦いの最中も、そして終わった後の呼び掛けにも上の空。まるで、魂か何かが抜け出てしまったかのようで。
ディートリヒは、心臓を後ろからひょいと突然鷲掴まれたかのような、そして同時に足元が崩れ落ちるかのような。そんな怖ろしさを感じていた。自分のせいかもしれない。
早く、彼のいつもの顔を見て安心したいのに。ディートリヒは必死だったのだ。重たい身体を引き摺りながら、変に従順なイェルンを引き連れてこの小屋へと戻った。
一生このままなのではないか。自分の知るイェルンは、居なくなってしまったのではないか。嫌な想像は止まらなかった。
横になって目を瞑った彼の隣を一晩中、片時も離れる事なく。柄にもなく、ディートリヒは祈りつつ願った。あのイェルンが、ちゃんと戻ってきますようにと。死ぬ前に一度でも良いから。彼のいつもの笑顔が見たかった。
じわじわとそんな事を思い出しながら。ディートリヒはただじっと、顔を扉の方へ向けたままその時を待ったのだった。
自分を見た瞬間、ニコリと花が咲いたように笑うその顔が見たかった。今までに見た事のない程に美しい、厳しくも慈愛に満ちた神の御遣いのようなそれが。
それからどれ程経ったのか。ディートリヒは気付くと再び、眠ってしまったようだった。
次に目を覚ましたのは、額にひんやりとした柔らかいものを乗せられた時だった。
それの気持ちの良さにひと息をついて、ゆっくりと目を開ける。するとすぐ目の前に、彼の姿があった。ハッと息を呑み、大きく目を見開くその人の姿があった。
自分の記憶と違わぬいつもの様子に、ディートリヒはようやく安堵の息を漏らしたのだ。自然と緩やかな笑みが溢れる。
「よか、った」
起き抜けにそんな事をポロリと口に出してしまうと。
突然、イェルンが動いた。
ベッドの上で覆い被さるように、彼はディートリヒにぎゅうと抱き付いてきたのだった。イェルンは何も言わずに、痛い程に抱きしめて離そうとしない。
突然の事に目を見開いたディートリヒは、いつものようにされるがままだった。キスもセックスも伴わない、ただの抱擁。痛い程に締め付けられるそれが、何故だかひどく離れ難く思われた。心地良かったのだ。
そのまましばらく、二人は抱き合ったまま、ジッとして動かなかった。
「バカ。ディートリヒの阿呆。それは、僕のセリフだよ」
ようやく沈黙を破ったかと思えば、イェルンはそんな事を言ってのけた。まるで子供のようである。
けれどもそんな彼が、普段と全く変わり無いイェルンそのものであって。ディートリヒはそこでようやく、心底安堵する事が出来たのだった。
「全く。何、食らってんのさ。僕が出た意味ないじゃん。君は僕に飼われてたらいいの。あんな汚い連中の前になんて出なくていいの。僕程の使い手じゃなかったら、今頃どうなってた事か。あんなのは──」
「イェルン」
イェルンが全くいつもの調子で、けれどもどこか叱るような雰囲気でそんなことを語っていた時。ディートリヒが遮るように言った。
以前のように何の感情もこもらない声ではない。どこか芯のある、静かな声だった。
「なに?」
「お前、俺の事を全部知ってたのか?」
抱きつくイェルンをゆっくりと引き剥がしながら、真っ直ぐに見上げて言う。イェルンの艶やかな銀糸が、さらりと耳から零れ落ちた。それが、ディートリヒのものとは全く違う、滑らかな肌触りである事を彼は知っている。
「当たり前でしょ。もうぶっちゃけて言うけど、僕は『魔女』って呼ばれるような魔法使いだよ? 人の域なんてとっくに超えてる。僕に知れない事はないよ」
「いつからだ?」
「拾って、すぐかな?」
首を傾げながら笑って言うイェルンに、ディートリヒは真剣な顔を崩さなかった。彼にはどうしてだか分からなかったのだ。イェルンが何故、自分なんかを傍に置こうとしたのか。それだけはどうしても知りたかった。
「何で、お前は──お前程の魔法使いが、何故俺のような厄介者なんかを」
「うん、まぁ、最初はね、ただ面白そうだと思っただけだった。だって君、せっかく逃げ出せたのにずっと死にそうな顔してたんだもん」
「死にそうな」
イェルンにそんな事を言われ、ディートリヒは少しだけ目を見開いた。そんな事を言われたのはもちろん、初めてだったからだ。
ディートリヒの周囲には、同じような者達しか居なかった。同じような目をした従順な狗達ばかり。たまに外の人間に目撃される事はあれど、狗達は証拠を残さない。
「うん。自覚なかった? もういっそ、ずっと死んでるみたいな」
子供の頃の記憶は、ディートリヒの中ですっかり薄れてしまっていた。ほとんど覚えてすらもいない。
思い出しただけで今が辛くなる。死にたくなる。ただ生きているだけの今を生きる為に、忘れるしかなかったのだ。ただ従順に言いつけさえ守っていれば、今以上に悪くなる事はなかった。諦めていたのだ。逃げ出す事なんて、考えもしなかった。
そのような事を思い出してしまいながらも、ディートリヒは何も答えられなかった。
イェルンは真っ直ぐに彼を見ていた。
「君は、あそこから捨てられて逃げ出したんだよね?」
笑みを引っ込めながら、イェルンはディートリヒを見下ろしながら静かに言った。それをディートリヒは、ジッと見返しながら言う。
「そうだ。捨てられた。殺されそうになった。だから返り討ちにして逃げた」
そう淡々と告げたディートリヒに、イェルンは尚も続けて聞いた。
「これ、ずっと聞こうと思ってたんだけど──逃げられて、嬉しくはなかったの? やっと、自由になれたのに」
問われてディートリヒは、一瞬考えてから答える。そんな言葉、あそこから離れられても尚、考えもしなかった。
「自由だなんて、そんなもの──覚えている事も期待する事もなかった。その時は特に何も。ただ、今までと同じで生きなければならないと必死で」
心の奥底でいつかはと、恐らく考えた事くらいはあっただろう。けれどもそれは、いつしか考えにも上らなくなり、ディートリヒはすっかり忘れてしまっていたのだ。そんな夢物語。
イェルンはそれに、ふぅんと相槌を打って更に続けて言った。
「それなら、今はどう? 僕といれて嬉しい? 僕が無事で、ホッとした?」
「それは、」
問われてそこで、ディートリヒは言葉に詰まってしまった。自由だ何だのと考えた事はなかったけれども。
彼の頭はここに来てからはずっと、イェルンの事ばかりを考えていたのだ。彼の傍は心地良かった。時折求められる事も含めて、ずっとここに居られればと思ってしまう程に。
追われてさえいなければきっと、ディートリヒはここを離れようとさえしなかっただろう。居心地が良すぎたのだ。
そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、イェルンに直接問われてディートリヒは言葉に詰まったのだ。どうするのが正解なのかが分からない。命令なんて何も無いから、この気持ちを正直に話してしまっても本当に良いものか。イェルンはそれで本当に良いのか、ディートリヒには分からなかった。
更にイェルンは続けて言った。まるでディートリヒの迷うその気持ちに気付いて、畳み掛けるように。押して傾かせるかのように。
「言ってよ、ディートリヒ? 僕は君の事を助ける事ができて嬉しいよ。とられなくて良かった、って思ってる。もうね、どうしてだか、今の僕には君が居ない生活は考えられないんだ。──ねぇ、ディートリヒは? 僕といるのは嫌だ? 他に行きたいところでもあるの? ないなら、僕の所でもいいじゃない。僕はどんなものにも負けないし、殺されないと約束するよ。だからね、いいでしょ?」
お願いだよ、ディートリヒ。
そうやってにこりと文字通り目と鼻の先で微笑まれてしまうと。ディートリヒは途端に我慢が利かなくなる。心が抑えきれなくなってしまう。
「俺のせいで、お前がいなくなるのは、嫌だ」
「ふふふ。もう、ひと声。僕と、いたい? ずーっと僕と一緒は、嫌だ? 君の怖れる連中がやってこれない所へ、共に行く事も可能だよ。ねぇ、ディートリヒ? 君の口から聞きたいな」
まるで誘導尋問のようだ。そう思ったディートリヒだったのだけれども。その尋問に乗る形で答えるは、やぶさかではなかった。彼も確かにそう、同じことを思っているのだから。
言ったところできっと今までと生活は変わらないはず。今までと同じ。
けれども、今までとは何かが変わってしまうような気がした。
「お前と────イェルンと、いたい。離れるのは嫌だ」
視線を僅かに逸らしながら、ディートリヒは消え入りそうな声で、しかしハッキリと告げた。
「ここが、いい」
それから先はもう、言葉にはならなかった。それ以上、二人には言葉などいらなかったのだ。
どちらからともなく唇を合わせる。いつもとはまるで違う、優しく互いの存在を確かめ合うかのような口付けだった。
今までしてきたセックスとはまるで違った。どこを触られても、何をされてもヨかった。
ただ、請われて上に乗るように言われた事だけは、ディートリヒの羞恥心をいたく煽った。そんな経験なんてもちろん皆無で、当人にはえらく荷が重いように感じられた。
「イェ、ルンッ──!」
「ん。ゆっ、くりでいいからさ?」
「ま、て、無理っ、だ! いつものじゃあ、駄目なのかっ」
壁際に背を預けているイェルンの腰の上に、ディートリヒは乗らされた。自重で腹の深くまで届いているそれに、変に意識がイッてしまう。まだ押し入ってきてからそれほど経ってはいないというのに。既に奥が疼いていた。
「だって、せっかくディートリヒがちゃんと言ってくれたんだし、ね? やりたいように動いてよ。僕、見たいんだ」
その目の中にありありと欲望を激らせているのに、うっとりとその目を細めながらディートリヒが動くのを待っている。
そして突然、イェルンの手がディートリヒの腹部に触れた。中にイェルンのものを挿れたまま動けないでいるというのに。その手が、押し込むようにぐいぐいと中を押し込んでくるのだ。堪らず、ディートリヒの身体がビクリと揺れた。
「君も気持ち良くなりたいでしょ? 頑張ってよ」
ニコリと笑いながら言ったイェルンに、ディートリヒは絶望にも羞恥にも似た感情を覚えた。表情が歪むのは、自分でも分かった。
無理だ、と首を振りながら訴えるようにイェルンに視線を合わせたが、彼はただその笑みを深めるばかりだ。
美しくも残酷な、人智を超える天使のように。
「かぁーわいい。動かないとずっとこのままだよ。──まぁ、これはこれでスローセックスみたいで僕はイイんだけど。ディートリヒは耐えられるかな?」
まるで遊んでいるかのようにひとしきりクスクスと笑うと。イェルンは不意に、ディートリヒの腕を引いて唇を寄せた。リップ音と共に、触れるだけの可愛らしい口付けが唇に落とされる。
不意打ちの行動に怯み、バランスを取ろうとイェルンの肩を咄嗟に掴んだディートリヒに、イェルンは優しく言った。
「んー、それじゃあ、少し手伝ってあげるから、同じようにディートリヒもやってみてよ。それで勘弁してあげる」
そう言うや否や、イェルンは動けないでいるディートリヒの腰を両手で掴み上げた。上気した顔でうっそりと微笑み、色気を撒き散らしながらぐいと腰を引いて突き上げる。
最早慣れきってしまったイェルンのものが、ディートリヒの好い所を擦り、快感が背筋を走った。思わず声を詰めたディートリヒに、イェルンははぁと大きく息を吐き出した。
「ッ────、」
「ふふ、こんな感じだよ。ほら、やってみて。キモチイイ所に当ててみてよ」
一度そこに当てたっきり。イェルンは動く事なくディートリヒの様子をジッとうかがったのだった。