ひらひらと淡い紅色の花弁が頭上を舞う。
青い空によく映えるそれを、早稲弥生(さいね やよい)はぼんやり見上げていた。
まだ三月も半ばだと言うのに花は満開に近く、こうも咲き乱れてしまっては入学式の前にほとんど散ってしまうだろう。そういえば、私の時もそうだったっけ。去年の出来事を思い出して溜め息が漏れた。
お世辞にも大きいとは言えない神社の社(やしろ)は古び、寂れ、図々しく賽銭箱を背もたれに使う無作法者を注意する者はいない。
ゆっくりと閉じた瞼の裏に浮かぶのは、同い年の従姉妹の顔。
本来であれば同じ大学に通い、学科は違えどそれぞれの得意分野を学んで思い思いにバイトをしたり、友人達と遊んだりしてお互いに充実した日々を過ごすはずだった。
しかし弥生は今現在、一人で大学に通っており、従姉妹が別の大学へ進んだ訳でも、況(ま)してや浪人した訳でもない。
――…二年前の夏、従姉妹は突然いなくなった。
まるでその存在だけが切り抜かれたかのように部屋には携帯や財布が残され、読みかけの雑誌と彼女が好んで飲んでいたジュースだけが放置されていた。友人関係や家庭環境に何の問題もなかった従姉妹の失踪に地元は一時騒然となった。
警察も困惑した様子で捜査をしていたのをよく覚えている。
言うまでもないが今も従姉妹は見つかっていない。
叔父夫婦の手によって捜索届が出されているけれど、弥生はもう諦めていた。
家族想いで将来に希望もあった従姉妹が二年も姿を眩ませる理由なんてどこにも見当たらない。事件に巻き込まれたのか、あるいは本当に家が嫌になったのか。
どちらにせよ、二年も変わらぬ状況に希望を抱けるほど弥生は楽天家ではなかった。
当初は急な出来事で混乱したし、ショックも大きくて、叔父夫婦に言われなければ弥生は今頃別の大学に通っていただろう。
「…会いたいなぁ」
先ほどよりも深い溜め息をもう一度零し、どっこいしょ、なんてどこか年寄り染みた掛け声と共に立ち上がって境内から下りる。少し歩いて、ふと参道の中央は神様の通り道だから歩いてはいけないことを思い出した。
今更退くのも微妙な話だ。どうせ誰も見てやしないと頭の隅にそれを追い払い、社へ振り返った。
肩にかけたトートバッグから財布を取り出して中を覗き込む。小銭入れにある五円玉は一枚。自分が生まれた年に製造されたそれに小さな赤いリボンを縛り付け、ちょっとした縁起担ぎのつもりで持っているやつだ。
中を探ってみても他に五円玉はない。仕方なくそれを取り出し、財布をバッグに戻す。
それなりに開いている距離を無視して五円玉を持つ手を賽銭箱へ振りかぶると、綺麗な放物線を描いた後にちゃりん、と涼やかな音がしてそれは狭い口に消えた。
小学生の頃に従姉妹とよくやった遊びで、どちらがより遠くから賽銭を投げ入れられるか勝負するものだった。今思えば少々罰当たりな遊びだが、あの頃は二人して夢中になって競い合ったものだ。
「ナイスシュート」
昔は従姉妹の方がずっと投げるのが上手く、まだ幼かった自分は彼女より下手なことが悔しくて悔しくて、一人で来てはこっそり練習したものだ。
我ながら酷い負けず嫌いだと苦笑いを浮かべて階段へ向かう。
古い鳥居を潜り、道路へ続く階段に足を下ろそうとした。
「っ?!」
瞬間、グラリと世界が傾いた。
事態を把握する間もなく水中と思(おぼ)しき場所に投げ落とされる。
何っ?なんなの?!
思わず開いた口から容赦なく空気が漏れ出ていく。
呼吸が出来ない苦しさと分からぬ天地から、何とか抜け出そうと本能的に体が動いた。
恐らく水面だったのだろう。
ばたつかせた手の指先が突き出る感覚。同時にそこに何かが触れ、そちらへ急激に体が引っ張られる。
空気のある場所へ顔が出た途端、無意識に肺が膨らみ、弥生は盛大にむせた。
* * * * *
淡く琥珀色に輝く泉の中、男は膝まで水に浸し、今し方自身が引き上げたものを見下ろしていた。
暗い地下室内を薄く照らす泉の光に艶めく短い黒髪、泉と似て黄色みを帯びた珍しい肌色の少女は水を飲んだのか座り込んだまま激しくむせている。
見覚えのある色彩に振り返って室内にいる者の一人を見れば、その顔は驚愕に染まっていた。
その人物と少女が知り合いであることは聞くまでもなさそうだった。
「ヤヨイ?!」
耳慣れない響きの単語を口にして、その人物が泉に入って来る。
するとそれまでむせていた少女がパッと顔を上げた。
髪と同様に黒い、けれど狼狽しながら泉に入ってきた人物よりも少し吊(つ)り気味の瞳が見開かれ、咳き込みながらも口を開く。
「…ムツ、キ…?」
駆け寄ってきた人物の名前を少女はハッキリと呼んだ。
支えられて何とか立ち上がった少女の肩に上着をかけてやると、不安と戸惑いの色が滲む黒い瞳が此方へ向く。何かを言われたが男の耳に届いた言語は残念ながら彼には理解出来ないものだった。
泉から出た少女はぐったりと疲弊した様子で縁に座る。
そのまま二人は何かを話し出した。内容は理解出来ないものの、少女がかなり怒っているということだけは何となく分かった。現(げん)に詰め寄られた側は申し訳なさそうに何度も頭を下げていた。
それを眺めつつ男も泉から上がり、詰め寄られていた人物の肩を叩く。
「話しを中断させるけど、彼女に言語魔法をかけても良いか聞いてくれる?このままだと僕達と彼女の間で会話が成立しない」
「あ、はい」
此方の申し出に助かったと言わんばかりの顔で頷き、二人はまた理解出来ない言葉を交わした。
不審そうな表情を向けてくる少女に構わず男は記憶の中から言語魔法の一つを引き出し、詠唱を口にする。魔法をかけるために首へ手を伸ばすと少女の体が強張る。だが暴れることはなかった。
「…どう?僕の言っている言葉が分かる?」
手を離して語りかければ、まじまじと此方を見つめた少女が頷く。
そんなに見開いては目が零れ落ちやしないかと男は思う。
「…ほんとに通じた」
「だから言ったでしょ?魔法があるんだって」
「いや、普通は冗談だと思うから」
この分なら問題はないだろう。
また言い合いを始めてしまった二人をその場へ残して男は部屋の出入り口へ向かう。
膝から下がびしょ濡れの服はとても重たく、水気を含んだ上着の長い裾が足に絡まり動き難い。半ば呆然としていた同じ魔法士達の一人に着替えてくる旨と、この状況を国王陛下に報告する旨を告げて、男は一足先に地下室を後にした。
* * * * *
気付いたら全身ずぶ濡れで薄暗い場所にいて、何故か行方不明の従姉妹がいた。
それだけでも訳が分からないのに久しぶりに再会した従姉妹に‘ここはあたし達が生きてた世界とは別の世界で、魔法があるの’なんて言われても信じられるはずがない。
そう言いたかったが‘言葉が通じる魔法’なるものをかけられ、その効力を身をもって理解させられてしまった弥生は落ち着かない気分で室内を見回した。
石造りの白い暖炉は現代であれば恐らく目が飛び出るほどの美術的価値が付きそうな美しい彫刻に彩られ、赤いビロード張りの木製の椅子には背もたれの部分に鳥やリスなどの飾り彫り、恐らく一枚ものだろう随分と毛足の長い絨毯が惜しげもなく床に敷かれている。華美な装飾に彩られた部屋はとても広い。
視線を下げれば鮮やかな青と清潔な白が飛び込んできた。
濡れたままでは風邪を引くと無理矢理着せられた服はその二色を基調とし、折り返された袖や襟には植物がモチーフらしい繊細な刺繍が入っている。
絵画などで描かれている中世の騎士が着ていてもおかしくない服だ。
平凡顔の自分が騎士の服。全然笑えない。似合わないにもほどがある組み合わせだろう。
「待たせてごめんね」
辟易していると童話のお姫様が着ていそうなフリルやレースの多いドレスに身を包んだ従姉妹が部屋に入って来る。元が可愛いだけに妙に馴染んでいて何とも言えない気分になったが、敢えてそれを口にせず弥生は首を振った。
「別にいいよ。それよりどういうこと?ここが異世界とか魔法があるとか――…そもそも睦月(むつき)は何でこっちに来ちゃったの?」
「待って待って。ちゃんと話すから質問攻めは勘弁してよ」
両手を上げて降参のポーズを見せる従姉妹に一旦口を噤む。
いつの間にか立ち上がっていたらしく、椅子に座り直し、一度深呼吸をして従姉妹を見た。
「ここはさっきも言った通り、あたし達がいた世界とは別の世界なの。この世界では魔法が当たり前のようにあって、何て言うか、ファンタジーな絵本の世界によく似てると思う」
信じたくない言葉だ。
けれどもそれが事実であることを、弥生はつい数十分程前に身を以(もっ)て理解してしまっていた。
「魔法とか、異世界とか、悪い冗談みたい。……睦月はいつ頃こっちに来たの?」
「二年前。部屋のベッドで雑誌読んででさ、勢いあまって落ちたらこっちに来ちゃってた」
「それは、何て言うか…」
正直かける言葉が見当たらなかった。
でも目の前にいる従姉妹は元気そうで安堵する。
突然消えたのが本人の意思でなかったこともそうだが、もう会えないと思っていただけに無事生きていてくれたことが何よりも喜ばしい。
「あたしはいいの!この世界が好きになっちゃったし、その、ずっと一緒に居たいって思える人とも出会えたから。親不孝だけど、もう元の世界には帰らないつもり」
「…そっか…」
寂しげに、でもとても幸せそうに笑う従姉妹を見て、弥生も泣き笑いを浮かべた。
同時に嫌な予感が頭を過ぎる。
「…それに、実を言うと元の世界に帰る方法もまだ見つかってないの」
どこか遠いところにいるもう一人の自分が‘ああ、やっぱり’と思う。
元の世界に帰る方法があったのなら従姉妹はとっくの昔に戻って来ていたであろうし、弥生自身もすぐに送り返されたはずだ。
「よく分からないけど、お城の魔法士の人が転移魔法を色々変えてそれっぽい術式を見付けてね。せめて無事だってことだけでも伝えたくて何とか元の世界にあたしの物を送ろうとしたの。でも結局、弥生まで巻き込んじゃった」
そうして、こちらに来た以上は私も帰れないという訳だ。
「……ごめんね。謝っても許されることじゃないって分かってる。ごめん、ごめんなさい…」
ドレスを握り締めて俯く従姉妹は、二年前と変らず人一倍責任感が強いままだった。
弥生は立ち上がってテーブルを避けて回ると、震える体を躊躇(ためら)いなく抱き締める。
怒りや悲しみはなかった。話に頭がついて行けず、実感が湧かないのかもしれない。
それでも誰も悪くないとは言えないが、少なくとも従姉妹ばかりを責める謂(いわ)れはない。様々な偶然が重なりに重なって、結果的に最悪の状態に陥ったのではないだろうか。
それに従姉妹を責め立てたところで状況が変わる訳でもない。
「本当は今すぐにでも帰りたいよ」
ビクリと従姉妹が肩を揺らす。
あまりに素直な反応に弥生は苦く笑った。
「でもそれが無理なら、とりあえず衣食住くらいは何とかしないとね」
「え…?」
顔を上げた従姉妹を見下ろして言い直す。
「無一文じゃあ流石に生きていけないでしょ?かと言っても簡単に諦めるなんてできないから、私なりに帰る方法でも探そうかなって。…まずはこっちの世界の常識とか色々覚えなきゃいけないだろうけど」
弥生の言葉を数拍おいて理解した従姉妹が、今度は声を上げて泣き出した。
何度もごめんねと謝ってくる声に、うんと返す。
従姉妹だって二年前は自分よりもずっと不安だったに違いない。訳も分からないまま別の世界に放り出され、知り合いがいない中で生きて行くのは精神的にも肉体的にも大変だったと思う。
それに比べれば自分はまだマシだ。
小さな子供みたいに泣く背中を撫でてやりながら、弥生は的中した予感に音もなく溜め息を零す。
嫌な予感ほどよく当たる自分の勘が少し恨めしい。
「あの、それとね…」
と、何やら恥かしそうな顔で両手を合わせて見上げて来る従姉妹に、首を傾げて先を促した。
「まだ何かあるの?」
「うん。……あたしの好きな人って実はこの国の王子様で、今はまだ婚約中なんだけど…。彼が王位を継いだら結婚するの」
「……は?王子って。え、結婚っ?」
問い返してみても是と頷かれる。
従姉妹は弥生と同い年なのだから結婚に何の問題もない。
むしろ問題なのは相手だ。
ファンタジーな世界で本当にお伽話みたいに王子様と恋に落ちるなんて王道過ぎて返す言葉もない。
あんぐり口を開けていれば部屋の扉がノックもなしに開く。
振り向くと美形の青年がいた。弥生が着ているものと少し似たデザインの服に身を包み、端正な顔がこちらを真っ直ぐ見る。
「アレイスト!」
従姉妹が喜色を含んだ声と共に立ち上がる。
青年はその甘いマスクに蕩けそうな笑みを浮べて従姉妹の名前を呼んだ。
……ああ、この人が王子様ね。
弥生は胡散臭げに青年を見たが、従姉妹も当の本人も気付いてはいなかった。
「丁度時間が空いたんだ。これから少し出掛けないかい?」
空気の如く存在を無視され、弥生の中で青年の好感度は急降下の一途を辿る。
戸惑った様子で振り返った従姉妹の様子に青年はやっとこちらを見た。その目は明らかに煩わしいと物語っていた。全く腹立たしいことこの上ない。
「色々あり過ぎてまだ混乱してるみたい。ちょっと一人になりたいから、私のことは気にしないで行って来なよ」
そう告げれば従姉妹はごめんねと謝罪の言葉を口にして、微かに心配の色に顔を歪めながらも青年と部屋を出て行った。
その背を見送り、扉が閉まった途端、弥生の顔から表情が抜け落ちた。
ふらふらと歩み寄った窓から外の景色を眺め見る。
眼下に広がるのは美しく整えられた庭園と灰白の城壁、その向こうにはカフェオレによく似た色の屋根が数え切れないほどひしめいていた。建物の壁はベージュとも象牙色ともつかない柔らかな色味で統一しているらしく、どこかヨーロッパの町並みを思い起こさせた。
更に遠くに青々とした森が続いており、今いる場所よりも高い建物は一つもなかった。
「…本当に、別の世界なんだ」
力が抜けて弥生は窓辺に座り込んだ。あはは…、なんて乾いた自嘲が漏れる。
絵本みたいな町並みにファンタジーらしい魔法、文明機器が一つもない部屋、コスプレみたいな服。強がってみても内心ではこれっぽっちも平気ではなかった。
目頭が熱くなる感覚に唇を噛み締める。
――……帰りたい。
なんだかんだ言って弥生は自分の生まれた土地が好きだったし、両親もそれなりに好きだ。
帰れなければ従姉妹同様に弥生も元の世界で行方不明という扱いになるだろう。自分までいなくなったら両親や親戚、叔父夫婦はどう思うだろうか。
友人達にも心配をかけてしまうと思うと、抑え切れない不安が溢れてくる。
従姉妹を責めるのはお門違いだ。それは分かっている。
でも、ならば一体誰を、そして何を責めればいいのだろうか。
「訳分かんないっ。なんで、なんで私なの…っ?!」
溢れてくる涙と沸き上がる激情のままに言葉を吐く。
王子と結婚する従姉妹には居場所がある。もしかしたら、それは運命だったのかもしれない。少なくとも今の従姉妹はこの世界で必要とされ、望まれており、在るべき場所がある。
自分のことなど欠片も気にしなかった王子を思い出し、弥生は気分が悪くなった。
「嘘だっ、こんな…!帰してよ!!元の世界に、……私の場所に帰してよ!!」
ぐるぐると世界が歪み、回る。心臓が早鐘を打ち息が苦しい。視界に映る騎士みたいな服さえ気味悪く思え、弥生は口元を押さえた。すきっ腹の胃がキリキリする。
従姉妹に会いたいと願ったけれど、こんな仕打ちはあんまりだ。
酷くなっていく頭痛と吐き気に耐え切れず床へ蹲(うずくま)る。
苦しみのあまり絨毯の毛を掻きむしると指先に鋭い痛みが走ったが、それどころではなかった。
不意に扉を叩く音が部屋に響いた。けれども今の弥生に返事をする余裕はない。
数秒の間を置いて扉の開く音がして、続いて誰かが近付いて来る足音を悲鳴にも近い声で拒絶した。
「来ないで…!!」
足音は一静止したけれど一呼吸ほど置いて動き出し、弥生の傍まで大股で歩いて来ると背中に人の手が添えられる感触がした。途端にぞわりと背筋を悪寒が駆け抜ける。一気に吐き気が込み上げた。嘔吐(えず)いたものの口の中に酸味が広がるだけで、何とかそれを飲み込み我慢する。
もう嫌だ。弥生が肩を震わせた時、低い声が降った。
「落ち着いた方が良い」
とても静かで平坦な男の声だ。
「魔法をかけるから、ゆっくり呼吸して」
訳の分からないものをかけられるのはもう嫌だ。
弥生は力無く首を振る。
「…そう」
声は短く呟き、少し間を開けて言った。
「とりあえず君は横になるべきだと思う。動かすのは問題ない?」
淡々とした問い掛けに頷けば背に添えられていたものとは別の手が膝の裏にも触れる。何かを考える間もなくふわりとした浮遊感が一瞬体を襲い、次に目を開けた時には頭上に男の顔があった。
静かな声に合う無表情が自分を見下ろしていることに、何故だか弥生は泣きたくなった。
ブルリと震えた体に唇を噛み締める。
男は弥生を軽く抱え直して歩き出したが、歩に合わせて伝わって来た揺れは予想よりもずっと小さく、出来うる限り振動を抑えているらしいことが窺(うかが)えた。
詰めていた息を細く吐き出し、瞼を閉じる直前、優しい風が吹いた気がした。