* * * * *
ふと唐突に意識が浮上した。
見慣れない石造りの天井が視界いっぱいに広がっている。
やはり夢ではなかったのか。眉を顰めてそれを睨み付けた弥生に声がかかった。
「起きた?」
「!」
パッと声のした方向へ顔を向けると男がいた。
先ほど自分を運んでくれたらしいその人物は手元に本を持ち、弥生を見て「もうしばらく横になっていると良いよ」と気遣う言葉とは裏腹な平坦さで言う。
窓の外はまだ明るい。あれから大して時間は経っていないのだろう。
静まり返った室内は、それこそ本のページを捲くる音が聞こえて来るぐらい他に音がない。
しかし不思議と居心地の悪くない沈黙と椅子に腰掛けて読書をする男のアクションの少なさに、自分は今どうすべきなのか選択肢が一つも思い浮かばず弥生は戸惑った。
視線に気付いたのか男は本を閉じ、机の上に置いてこちらへ向き直る。
櫨色(はじいろ)と呼ばれるくすんだ黄茶(きちゃ)の長い前髪に眼鏡をかけ、それらの陰で色味が分からくなってしまっている目と視線が合う。
「こういう場合は何から話せば良いんだろうね」
無表情にかけられた言葉が予想外過ぎて、数拍反応が遅れた。
「……え?あ、えっと、とりあえず自己紹介…とか?」
「自己紹介ね。僕の名前はラシェル、職業を述べるなら一応魔法学者ということになる。君は?」
あっさりした自己紹介に調子が狂う。
真っ直ぐに見返されては弥生も答えるしかなかった。
「……早稲弥生。弥生が名前で、大学生です」
「ダイガクセイ?」
呪文のように繰り返されて少し考える。
大学についての説明なんて初めてで、大雑把な言葉しか出て来ない。
「私の生まれた国で四年または二年くらいの期間、一定の教育過程を終えた人達が性別に関わらず通うことができる大学って名前の高等教育機関――…学び舎(や)の生徒で、その総称が大学生…だと思う」
「何歳でも構わないの?」
「基本的には。でもほとんどの大学はその前に通う別の高等学校が三年あって、そこを卒業していることが前提だし、更にそれ以前にも合計九年間は国に定められた義務教育を受けないといけないから一般的には十八歳くらいから通うことになるかな」
「へぇ、大人になってから行くんだ。変わってるね」
いや、むしろ変わってるのはあなたの方だよ。
椅子に座る男を弥生はまじまじと見つめてしまう。
線が細く、従姉妹と婚約中の美形王子とはまた違った種類の見目麗しさだ。あちらは優しげな甘い優男風の風貌だが、目の前の人物は中性的であまり男臭さのない涼しげな顔立ちである。
整い過ぎた顔は無表情なだけに作り物めいて、まるで人形のようだ。
年上のような気もするが、彫りの深い顔立ちなので正直年齢は分からない。
「あの、貴方は私に何か用事があったんじゃないの?」
だからあの部屋に来たのだろう。
初っ端から変な流れになってしまった会話を軌道修正する。
「うん、その話をするために起きるのを待っていたんだ。……ああ、横になったままで構わないよ」
起き上がろうとしたが片手で制され、弥生は再度枕に頭を沈めた。
裾や袖口が長い不思議なデザインの服のポケットから羊皮紙らしき物を取り出し、それを広げる。
「これは君をこの国の賓客(ひんきゃく)とする証明書だ。君が此処にいる原因に王族が関係しているのは明らかで、その責任を負って国王陛下が君の生活と身柄を保障することになった」
説明されても、そこに綴られている文章を読み取ることは出来ない。
文字自体は筆記体の英文に似ていた。但(ただ)しその殆(ほとん)どに単語を区切る間がなく、やや装飾性の強いそれは絡まった蔦(つた)にしか見えなかった。
「君の身元を保証するのは陛下だけど、引受人は僕だ」
告げられた内容を訝(いぶか)しく思う。
「どうしてあなたが…?」
「今回使用した魔法は僕が構成を手掛けて提案した。その術式が失敗した結果が今で、僕は不完全な術式によって君を引き込んだ責任を引受人という形で負うことにしたんだ。勿論、こんなことで全てを水に流せとは言わない。これは僕達が君に対して果たすべき義務であって償いにはならないからね」
丁寧に巻き戻し、差し出された洋皮紙を半ば反射的に受け取る。
国が保障してくれると聞いて内心胸を撫で下ろしつつ、自身の後見人になったらしい男の空いた手元を意味もなく見つめる。気を失う前の狂おしいまでの怒りや嫌悪感は鳴りを潜め、まるで迷子の子どもの如く、ただただ途方に暮れていた。
だが困惑する心に「君のしたいことをすればいい」と言われ、せっかく落ち着いていた怒りがまた一気に沸騰する。
無理矢理引き込まれたのに、やりたいことなんかある訳がない。
感情のまま手の中にある証明書を目の前にいる人物へ投げ付けた。所詮は紙。非力な弥生が力いっぱい放ったところで大した威力もスピードもない。
しかし顔面目掛けて飛んで来たそれを男は甘んじて受けた。
「…あ、」
紙がぶつかる乾いた音でハッと我に返る。
けれども男はさして気にした風もなく床に転がった証明書を拾い、サイドテーブルへ置いた。
「どうにも僕は他人(ひと)より感情に疎いらしい。君の神経を逆撫でする言葉を言ってしまったのなら謝るよ」
相手が落ち着いているからだろうか、弥生の中で頭をもたげた怒りが一瞬で萎んで消えた。
「……ごめんなさい。今のは、私の八つ当たりだった」
「いや、僕は何とも思っていないから君も気に病む必要はないよ」
変わらぬ無表情さで男は首を振る。
本人が言う通り気分を害した様子は微塵も感じられず、弥生の肩から自然に力が抜けた。
――……やりたいこと、か。
「何でもいいの?」
「うん?」
「やりたいこと」
「うん、この国の法に触れない限りは基本的には許されると思う」
そんなことは流石にしない。
零れかけた呆れの溜め息を飲み込み、別のものを口にする。
「じゃあ、勉強したい。本当はすぐにでも帰る方法を探したいけど、ここで暮らして行くならこの世界の知識とか常識を知らないとダメだと思う」
「そうだね、君さえ良ければその辺りは僕が教えよう」
同意し、教師役を買って出た男に目を丸くする。
何故そこまで世話を焼いてくれるのか問うた弥生に、男は初めて無とは別の表情を見せた。
その変化は精々片眉を上げる程度の表情と言えるかどうかも怪しいものだったが、ようやくこの男の人間らしい姿に触れた気がした。
「実を言えば君に興味があるんだ。もっと具体的に言うと近くで観察してみたいと思っている。責任云々は建前で、僕はただ単に自分の好奇心を満たしたいだけなのかもしれない」
奇妙な答えに弥生はキョトンとした。
国王の命令だとか罪悪感だとかではなく、‘興味があるから’なんて理由は全く予想外である。けれど渋々世話を焼かれるよりも、そちらの方が何倍も気持ちが良く、男の理由はストンと弥生の胸の中に落ち着いた。
「……なんて言うか、ぶっちゃけ過ぎ」
思わず笑った弥生に男が緩く首を傾げる。
「ぶっちゃけすぎ?」
「ええと、‘ぶっちゃける’は本音を晒(さら)すって意味に近いから、‘ぶっちゃけ過ぎ’は‘本音を言い過ぎじゃない?’ってことになる……のかな?」
「なるほど。それだと確かに今の僕の発言は‘ぶっちゃけた’ということになる。なかなか面白い表現だ」
納得した様子で何度もうんうんと頷く男に、ぷっと噴出してしまった。
なんだこの人。なんか面白い。
ちょっとズレてる気がしないでもないけれど、でも頭は良いようだ。
そのまま声を上げて笑ったが、男は怒るでも嫌がるでもなくただただ無表情に弥生が落ち着くのを待つ。本当に感情が薄い人らしい。
やっと笑いを収めた弥生は改めて男へ向いて手を差し出した。
「これからよろしくお願いします、ラシェル先生」
「‘先生’は僕には似合わないから呼び捨て構わないよ。よろしく、ヤヨイ」
頷き、ラシェルがそれを緩く握り返す。
ちょっと変な発音の名前に自然と眉が下がった。日本人の名前は発音し難いだろうから仕方ないのだが、なんだか自分の名前じゃないみたいだと苦笑を零す。
そうして握手を交わすこの男が、こちらの世界に来た時に言語魔法だがをかけてくれた人物だと今更気が付いた。その礼を言うべきか少し迷ったものの、切り出すには時間が経ち過ぎていたので流すことにした。いきなり首に触られた件を、ちょっとだけ根に持っていたからだ。
ちなみに、この二人が勉強はまず読み書きからしなければならないと思い当たるのは、それから数分後のことである。
更に付け加えるならば勉強自体も弥生の体調を考慮して後日へ回されることとなった。
それは先ほどの取り乱し様を見ていたラシェルからの提案だった。
「別に疲れてなんかいませんよ?」
むしろ、一分一秒も無駄にしたくない。早く元の世界に帰りたいし、そのために出来ることをとにかくやりたい。大丈夫だと訴えてみてもラシェルは首を振るばかり。
「それは君自身が気付いていないだけだ。今日は休んで。明日は城内を案内をするから、勉強を始めるのは明後日にしよう」
「でも、自分の体くらい自分で分かります」
「それなら医者は不要でしょ。慢心は良くない」
もっともな事を言われて言葉に詰まる。
大雑把でも今後の方針が決まったというのに、ベッドの上で丸一日何もせずに過ごすのは弥生にとってかなりの苦痛であった。何かしたい、何かしなければという強迫観念にも似たものを感じるのだ。
本を膝の上に乗せたラシェルの指が、その背表紙を繰り返し撫でている。
こうと決めたらすぐさま実行しなければ気が済まないタイプの弥生にとって、行動出来ないのは辛い。無意味に流れて行く時間に悶々としていたが、不意に視線を感じて顔を上げる。
がっちり目が合ったラシェルに‘観察したい’と隠しもせずに告げられた言葉を思い出して思考ごと体が停止した。長い髪と眼鏡のせいで色の判らない瞳が固まった弥生を見て微かに細められる。
「ところで、今更な質問をしても良い?」
「何ですか?」
「どうして騎士服を着てるの?それから言葉も、急に敬語になったね」
本当に今更な質問だ。ラシェルの問いに気を抜かれつつ着ている服の袖を持ち上げる。
体に合ったそれは動きやすいけれど、弥生からしてみればコスプレも良いところだった。
「服は渡された物を着ただけですが、やっぱり騎士の服でしたか…。言葉遣いに関してはラシェルは私の身元引受人で先生にもなるので、敬語で話すことにしました。…変ですか?」
「変ではないよ。僕はどちらでも構わないしね」
「じゃあこのままでお願いします」
「分かった」
疑問が解決したからかラシェルは手元の本に一度視線を落とし、だがすぐに弥生を見た。
余計なことだろうけど、と前置きをしてから言う。
「起きていると君は落ち着かないみたいだし、休んでいなよ」
「…そうします」
暗に勉強はやらないと切られて素直に頷く。
今度こそ読書を始めてしまったラシェルを一瞥し、背を向けてベッドへ横になると背後から微かに紙の擦れる音がした。
眠くないと思っていたが、体はそれなりに疲れていたらしい。穏やかな眠気が弥生の瞼(まぶた)を落とそうとする。どうせやる事もないんだから寝てしまえと瞼を閉じようとして、自分も言い忘れていたことがあったのを思い出した。振り返らず声だけをかける。
「あの、」
読書中で聞いていないかもしれないと思ったが、すぐさま「何?」と返事が背にかかる。
「睦月には倒れたことを秘密にしておいて欲しいんです」
「理由は?」
「心配をかけたくないのと、ああ見えて睦月って気にするタイプ――…性格なので、言わない方がいいんです」
「分かった。君がそう言うなら、彼女には黙っておこう」
抑揚のない声が了承したのを聞いて今度こそ瞼を閉じる。
ページを捲る規則正しい音を子守唄に、弥生は暫し眠りについた。
* * * * *
次に目を覚ました時、ラシェルはいなかった。
代わりにメイドらしき女性がテキパキと動いており、起きた弥生に気付くと「お食事はいかがですか」と声をかけてくる。漂って来た良い匂いにつられて腹の虫が小さく鳴く。
部屋の中央に置かれたテーブルには美味しそうな料理が所狭しと並べられていた。
「…食べます」
椅子に座ればナイフとフォークが列べられた。そういえばテーブルマナーも習わなければと気付き、山積する勉強の量が途方もないことを改めて思い知った。
なまじ元の世界の礼儀作法が頭にある分、習っても身につくかどうかは怪しいものだと頭の片隅で考えながら、せめて見苦しくないよう心掛けつつ料理に舌鼓を打つ。パンを主食に肉と野菜のスープやロールキャベツ、魚を香草や野菜と共に焼いたものなど、どこかロシアの伝統料理に似た品々だった。
それらを食べられる分だけ胃に収めるとメイドの女性が食器を片付ける。
礼を述べれば何故か驚いた様子で目を丸くされ、しかしすぐに頭を下げて出て行ってしまった。
満腹になった腹部を擦りながら、まさか毎日毎食この量なのだろうかと悩む。
動かないのに毎回あんなに食べていたら肥満街道まっしぐらである。
「……勉強の合間でいいから運動しないと太りそう」
椅子から立ち上がって窓へ寄りかかれば、元の世界では決してお目にかかれないだろう美しい星空がその向こうに広がっていた。今にも落ちて来そうなそれに思わず見入ってしまう。
神秘的な赤と青の双月がここは異なる世界なのだと物語っていた。
日が落ちたせいか昼間よりも寒く、触れた窓硝子は身震いするほど冷えていたが、その縁に体を預けて地平線の向こうまで広がる夜空をぼんやり眺め見る。
様々な葛藤を他所に、異世界での一日はあっさりと過ぎていった。