さて、それでは失礼して調べさせてもらおう。
トレイに両手を合わせてから検体の首を覆い隠していた布を取り払った。
写真通り気持ち色合いの悪い皴だらけの顔が現れる。
「ん…?」
検体の顔にいくつか小さな傷があった。皴に紛れているが、中には血が固まっているものもある。
この世界のカメラは精密さに少し欠けているので先ほど見た写真は傷がハッキリ写らなかったのかもしれない。
引っ掻き傷らしい無数のそれは頬や鼻の上、顎などに集中していた。
顔全体を満遍なく眺めた後、今度は眼球を確認するために瞼を押し開けた。少し顔を離して眼球に光を反射させると、だいぶ瞳孔が濁っているように見える。
まぁ、歳を取れば目の病気を患って瞳孔が濁るのは仕方がない。
眼球を巡る血管に特に異常はなさそうだった。
瞼を戻して今度は口を開ける。嫌な臭いがグッと強まり息を止めて覗き込む。
内側の皮膚は所々だが小指の先程度から点くらいの溢血(いっけつ)が見られた。
そうして首の付け根へ視線を移す。
皴で分かり難いが絞殺の後などは見られない。
無数の引っ掻き傷、顔の鬱血、咥内の溢血、血液の非凝固性。
これらなどから凍死、自然死のどちらでもないのは明らかだ。
総合して記憶から掘り起こしてみると窒息死の特徴と最も似通っている。
窒息死と聞くと大抵の人は眼球や舌が飛び出しているとか、顔が変色しているとか思うだろう。
しかし実のところ窒息と一言に言っても死体に現れる特徴は様々だ。
絞殺や扼殺などは分かりやすい。今回は絞め殺された様子がないので非常に判断が難しかった。
窒息死。それも他者による殺害の可能性が高まった理由の一つは顔についていた小さな傷達である。
普通の人は自分の顔に爪を立てたり血が出る程掻いたりしない。
だが、もし鼻や口を第三者に塞がれたら?
誰だって呼吸を妨げているものを外すためにもがくはず。
首を絞められた人間が紐を外すために爪を立ててしまい、その傷が残るのと同じことだ。
持ち上げていた首をトレイに戻し、布をかけ直して再度手を合わせる。
使っていた手袋を指先が内側になるよう丸めて外すと、それを何も入っていないポケットに仕舞う。
捨てて行きたいけれど一応持って帰って焼却しよう。
トレイを持って立ち上がるとカルクさんが振り返った。
「片付け、お手伝いしますよ。」
トレイを脇へ置いて声をかける。
カルクさんは何か言いたげであったけれど気付かないフリをして解剖室の片付けを手伝った。
バラバラになった検体を袋に詰め、首も布ごと包んで袋へ入れる。そして検体全てをいくつかの袋に分けて詰め終えると台車に載せた。
今から燃やすのだろうかとも思ったがカルクさんは台車を運ばず、手袋を外して捨てる。
「燃やさないんですね。」
「焼却はまた別の人達が行うので、僕達の片付けは何時も此処までです。」
「なるほど、分担されているのですね。」
「はい。…検体の焼却をしに、そろそろ人が来るので出ましょう。」
促さて部屋から廊下に出ると新鮮な空気に包まれる。
ワイシャツの襟に鼻を寄せれば思った通り香水に混じって血の臭いがした。
あれだけ濃い血の臭いがこもっている中に長時間居たのだ。臭いが付くのも当然だろう。
「それでは、わたしは失礼します。」
「…あぁ、手伝ってくれてありがとう。」
言い難そうにカルクさんが喋る。
一応今のわたしの方が後輩だし年齢も下だ。彼が敬語でわたしに話しかけている姿を、もし誰かに聞かれたら不審がられてしまう。
それをカルクさんも理解しているから努めて砕いた口調を使っているのだろうが、理解するのと行動に移すのはやはり別物らしい。
最初は気付かなかったから普通に話せたんだろうな。
わたしは別に敬語じゃなくても構わないんだけど。
やや仏頂面にも見える表情に、気にしていないと伝えるため笑顔を向けた。
「どう致しまして。」
握手を交わし、カルクさんと別れて学院の外へ足を進ませる。
行き先は勿論伯爵の屋敷。
忘れないうちに今日の事を報告しなければならない。
相変わらず杜撰(ずさん)な門を抜け、ツェーダの街特有の冷たい空気に体を震わせつつ、屋敷へ続く長い石畳に踏み出した。
大通りから脇道に入り、そこから更に路地を抜けて屋敷へ帰る。
裏手から素早く入って廊下を通って自室に行く。
ポケットから使用済みの手袋を暖炉へ捨て、ついでにチェストから着慣れた服を引っ張り出して着替える。
部屋の隅にある備え付けの洗面台で顔を洗って化粧を落とすとサッパリした。
編み込んだ髪を解きつつ櫛で梳かして、癖が出来てしまった髪を後ろで纏めて縛る。
暖炉に火を入れるのは戻って来てからにしよう。
無礼にはならない程度の格好で自室を出て伯爵の元へ行く。
コンコン、と固い扉の表面をノックすれば中から入室を許可する声が聞こえてきた。
「只今戻りました。」
部屋に足を踏み入れ、読書中の伯爵に礼を取る。
本から顔を上げた伯爵は頷いた。
「あぁ、ご苦労。立ち話も難だ、そちらに座って話せ。」
「いえ、お心遣いは嬉しいのですが…腰を下ろしてはソファーに血の臭いが付いてしまうので、わたしはこのままで十分です。」
「そうか。」
本を閉じて机の端にそれを除け、伯爵が立ち上がるとソファーに移動した。
腰掛けて見上げてきて、わたしの頭の天辺から爪先までを眺め見る。
そして一言「血生臭いな。」とぼやいた。やっぱりソファーに座らなくて良かった。
「それで、どうだった。」
「大変勉強になる良い経験を致しました。特に‘ある検体’につきましては非常に興味をそそられまして、思わず院生の方々の真似事などを少々してしまいました。」
「ふむ、お前が興味を持つとは珍しいな。何が気になったんだ?」
遠回しな言い方だったが意味を正確に理解してくれたらしい。
今日のことを思い出しつつ必要な情報だけを纏め、言葉を選ぶ。
「人は死ぬと普通血液が凝固します。しかし、中にはそうならないものもあるようです。それに死因によっては内臓などにも変化が現れるなど、改めて検分の大切さを感じました。」
伯爵はわたしの話を黙って聞いている。
多分、きちんと内容の意味は伝わっていると思うが。
ブルーグレーの瞳に先を促されたので続けて話すことにした。
「それから片付けを手伝わせていただいた際に誤ってかけられていた布が外れてしまい、検体の方に大変失礼をしてしまいました。」
「まさか傷を負わせたりはしていないだろうな?」
「はい、わたしは何もしておりません。」