バタバタと慌ただしい足音が部屋の外から聞こえてきます。
出来ることならば私も何かお手伝いができれば良いのですが、部屋から出たら蹴飛ばされてしまいそうな怒涛の仕事ぶりに今は船長室のベッドの上でお留守することになりました。
窓の外に望む海はとても荒れています。まさにシケなのです。
カモメさんの言葉は正しかったらしくヴェルノさんが船員さんに嵐に備えておけと言って十分も経たずに空が真っ暗になってしまいました。
こんなときは人間の体でないことに感謝してしまいます。
右に左に揺れる船の中、ヌイグルミだからなのか船酔いすることもなく私は船長さんを待つことができるのですから。
当の船長であるヴェルノさんは船員の方々に指示を出すために甲板に残っています。アイヴィーさんも私を船長室に押し込むと足早に甲板へ向かわれてしまいました。
もう一時間以上こんな状態です。
山の天気は変わりやすいと言いますが、海の天気も変わりやすいのでしょうか?
早く嵐が去ってくださるのを祈ることしか私にはできません。
柔らかな毛布に包まれながら、激しく窓を叩く雨と波を眺め続けることにしましょう。
嵐が来るかもしれないとカモメの助言を受けてから三時間後。
酷い暴風雨を連れて来た嵐が何とか過ぎ去った船の上は大の男たちがあちこちに倒れ込み、死屍累々と化していた。
海賊として暮らしている以上、何度も嵐には出くわしてはいたけれど、これ程に大きな嵐は久しぶりの出来事である。船が沈まぬよう全力で船上を駆けずり回っていた男たちが疲労に喘ぐのも無理は無い。
雨で額に張り付いてしまった前髪をウザったそうに掻き上げてヴェルノは己の船を見渡す。
あの激しい嵐だったにも関わらず船体に損傷はなく、船員も誰一人として欠けている様子はない。
カモメが教えてくれたと真白から嵐の話を聞いておかねばこうはならなかっただろう。
「アイヴィー。」
「はぁーい?なぁにぃ〜…?」
副船長であり、右腕であり、頼れる仲間でもある友人の名を呼べば酷く疲れた声音が返って来る。
見た目通り体力のある彼ですらこの様子なのだ。船員たちが動けなくなるのも頷けた。
「アイツは?」
「真白ちゃんなら船長室よぉ。…あーんなちっちゃい子がウロウロしてたら、船員の方が逆に動けなくなっちゃうでしょー…?」
「…確かにな。」
膝よりやや大きいが、それくらいしかないヌイグルミが足元をウロついていたら下手に動けないだろう。
船長である自分のペットを蹴った踏んだとなれば罰は免れない。
…いや、アイツは気にしねェだろうな。
蹴っても踏まれてもケロリとした表情であの赤い瞳を向けてきそうだ。
妙に肝の据わったうさぎのヌイグルミを思い浮かべつつ、それが待つ自室へとヴェルノは足を向ける。
船内では食事の支度や波で落ちたり転がったりした荷物を片付ける船員たちが慣れた様子で立ち回っていた。
濡れた服が少々冷え始めて来た頃、漸く自室である船長室に着き、扉を開ける。…が、部屋にいるはずのヌイグルミの姿はどこにもない。
机にも、椅子にも、ソファーにもいない。
着替えるために服を脱ぎながら、一体どこに行ったんだと新しい服を出すべくタンスに歩み寄り、そこでふとベッドの上にある不恰好な膨らみ気が付いた。
窓の下辺りにだけ小山が出来ている。
上から覗き込んで見れば毛布の端から見覚えのある白がひょっこりはみ出ているではないか。
毛布を少し引っ張って覗き込んだヴェルノの視線の先には、ぐっすり眠りこけているヌイグルミの姿があった。
…何してんだ、コイツ。
あの大シケの中よくもまぁ寝れたもんだ。
脱いだ服を適当なカゴへ突っ込み、備え付けのシャワー室に入る。簡易的なものなのでやや狭い造りではあるけれど、コックを捻れば温かな湯が降った。
雨に似たその音を聞きながら冷え切った体を温め、雨と塩水で固まりかけていた髪を大雑把に洗う。ある程度体が温まると石鹸で塩を落としてシャワールームから出る。
下着姿のまま、タオルで髪の水気を拭い取った。
まだ湿ってはいるものの放っておいてもどうせ乾く。ベッドを覗き込むとヌイグルミは未だ夢の中。
「…ちっせぇ。」
寝転がって毛布に埋もれているヌイグルミをヴェルノはしげしげと観察してみた。
子どもが喜びそうな可愛らしい外見、一目で高級品だと分かる真っ白な毛並みは驚く程に触り心地が良い。
ヌイグルミの癖に胸元がゆっくり上下に動いているのが不思議だ。呼吸をする必要もないだろうし、第一この小さな体に肺があるとも思えない。中身は柔らかな綿しかないはずだ。
力が抜けて投げ出された耳を触っていると小さな唸り声を上げて身を捩り、余程嫌だったのかポフポフと丸い手がヴェルノの手を叩く。
ちょっとした悪戯心で弄り続けていると赤い瞳が薄っすら目を開けた。石のようにツルリとした丸い瞳が半眼になっている様はなかなかに面白い。
表情を読み取ることは出来ないが雰囲気は酷く眠たげで、ぼんやりとヴェルノを見つめていた。
「…………せんちょー…?」
寝惚けているのか舌足らずな声が呼ぶ。
「起きたか。」
「ん…あらし、おさまった…ですか、?」
「お前が寝てる間にな。」
うにゃうにゃと言葉にならない呟きがヌイグルミの口があるであろう辺りから漏れ出ている。
まだ眠たいのか毛布に顔を押し付けて身を丸めてしまい、そうしてすぐに背中が規則正しく上下に呼吸をし出した。
船長である自分よりも先に寝るとは良い度胸だという思いとは裏腹に、口元には笑みが浮かび、苛立ちや怒りを感じることはない。
これ程気分が良いのも久しぶりの事だった。
する事も無いと無沙汰だった手で眠るヌイグルミを撫でていれば部屋の扉が静かにノックされ、少ししてアイヴィーが扉を開けた。
「あら、お休み中だったかしら?」
「いや。」
起き上がったヴェルノの横で毛布に埋もれているヌイグルミを見つけ、覗き込んだアイヴィーは小さく笑いを零す。
「寝ちゃったのね。んもう、寝てる姿もすごく可愛いわぁ。」
でも、もう食事なのに。困ったわねぇ。
体はヌイグルミだが中身は人間でもある真白が食事をするのかさえ分からない。
本人が起きていれば確認する事も出来たが、生憎夢の中だ。
「起きたら聞けば良い。」
「…起きるかしら?」
「あの騒がしさで起きねェんなら、飯はナシだ。」
そうね、と先に船長室を出て行くアイヴィー。
その後を追うように、ヴェルノは熟睡している己のペットを抱き上げて己も食堂へ歩き出した。