その手紙が届いたのは梅雨の明け切らぬ七月の上旬頃だった。
うんざりするほど長雨が続いていた最中(さなか)に珍しく朝から晴れて、久しぶりに青空が顔を覗かせた日の夕方のことだ。予想よりも早く仕事が片付いたため、共働きの妻に代わって今日の夕飯は僕が作ろうと買い物をして帰宅すれば、引っ越して一年近く経つマンションのポストに飾り気のない真っ白な封筒が一通入っていた。表に書かれた宛名は僕のものだ。
裏返すと、懐かしい差出人の名前が目に留まった。
大学を卒業して以来一度も会っていない人で、連絡らしい連絡も取り合っていなかったものの、会おうと思えば何時(いつ)でも行ける距離ということもあってお互いに‘そのうち時間が空いたら’となあなあにしているうちにそのままもう五年も過ぎてしまったのだ。
とりあえず年賀状のやり取りは毎年欠かさずしているけれど、こうしてきちんとした手紙が送られて来るのは初めてだ。メールだのLINEだの無料通話アプリだのと、誰もが携帯を持ち、どこでも誰とでも何かしら繋がることの出来るこの御時世に、時代遅れとも言える紙媒体での連絡を受けるのは何とも不思議な気分を感じさせる。それでも相手の家柄を思えば合っているような気もした。
ビジネスバッグと買い物袋、白い封筒を手にエレベーターに乗って自宅のある階へ向かう。
時刻は午後の四時半を少し過ぎたところなのに、随分日が高く、ああ夏だなとしみじみ思った。
階に着き、エレベーターを降りて、自宅までの短い距離を歩く。鍵を開けて入ると室内にこもっていた熱気が体を包む。窓を開けるのは買った物を冷蔵庫に収めてからにしよう。キッチンの入り口脇にビジネスバッグを残し、シンク横に一旦手紙を置き、冷蔵庫へ買った物を手早く仕舞う。
それから窓を開けようと振り返ったが、白い封筒は妙な存在感があり、気付けば僕は封を切っていた。
中には丁寧に三つ折りにされた白い便箋が一枚。広げるとお手本のように流麗な文字が並ぶ。それを目で追っていくうちに暑さとは別の理由で汗が滲み、最後まで読み切る前に僕は財布と携帯、家の鍵、手紙の便箋だけを持って家を飛び出した。最寄りの駅まで歩いて五分の距離がいやに長かった。財布に入れっぱなしの定期券で改札を抜け、今まさに閉まろうとしていた電車の扉をこじ開けて乗ったものだから、肩で息をする僕の頭上から「駆け込み乗車は大変危険ですのでおやめください」と運転士のアナウンスが降って来た。先にいた乗客の数名にチラリと視線を向けられたが僕はそれどころではなかった。
走り出した電車内で改めて手紙を読み直す。握っていたせいで少し皺がついた便箋の文面は何度読んでも変わらないし、それが紛れもない事実であることを容赦なく伝えてくる。悪い冗談だ。嘘であって欲しい。そう願う気持ちとは裏腹に、差出人の性格上それはないだろうと頭のどこかで冷静な声がする。
少なくとも三回以上手紙を読み返した後で、ふと妻へ連絡しなければと思い出した。
今回の件は妻とは無関係だ。でも相手方の家へ行ったら絶対に僕の帰りは遅くなる。
まだかなり混乱しているが、せめて妻には出掛ける理由を伝えておこう。妻へLINEで出掛ける旨とその理由、帰りが遅くなるだろうことを送り、マナーモードに切り替えてスーツのポケットへ携帯を押し込んだ。
顔を上げると車内アナウンスが響く。確か、ここで降りるんだったっけ。
暫(しば)らくして速度を落とした電車が駅に停まった。人々に交じって僕も下車し、流れに身を任せてホームから改札を抜け、通りに出る。同じ市内でもこの辺りは閑静な住宅地で車も人通りも疎(まば)らだ。
人気のない道を目的地まで歩いて行く。記憶が正しければ十分、十五分の距離だったはずだ。
冷房の効いた電車内で引いた汗が蒸し暑さに額を薄っすら湿らせる。
記憶の中と変わらない景色を進んで角を曲がった先に、やはり記憶通りの家があった。
僕の背より少し高い白い漆喰の塀に囲まれ、木造の薬医門(やくいもん)には観音開きの格子戸がついており、どちらも開いた本を裏返して置いた時によく似た瓦葺(かわらぶ)きの切妻屋根(きりづまやね)だ。その中に見える家も木造で外壁は漆喰、屋根は瓦、所々に丸窓が点在する二階建ての純和風建築で、とても落ち着いた雰囲気を漂わせている。表札には‘神代(かみしろ)’と達筆な字が彫られていた。
門のインターホンを押すとすぐに聞き覚えのある声がした。
【どちら様で……あっ、ちょっと待ってて。すぐに出るから】
柔らかな若い男性の声はやや驚いた様子で途切れる。
そして門の向こうで家の玄関扉を引くガラガラという音がした。数拍間を置いて、門の格子戸の向こうに人影が立ち、戸の片方が内側へ開けられる。
「お久しぶりです」
そこに立っていたのは礼服姿の男性だった。
最後に見た時より僅かに歳は取っているけれど、ダークブラウンに染めた癖のある猫っ毛と下がった目尻は本人の穏やかな性格が出ていて、どことなく幼さの残る顔立ちは同じ歳だと言われても納得してしまいそうだが、彼の年齢は僕の二つ上である。
「うん、久しぶり。驚いたよ。もう届いている頃だろうとは思っていたけど、もしかして手紙を見て駆け付けてくれたのかな?」
言葉と共に僕が握ったままの便箋へ視線を向けられる。
その声には純粋な驚きと、どういう訳か嬉色が混じっていた。
「あの、本当、なんですか……?」
何が、とは言えなかった。言いたくなかった。
たった三文字の音が口に出せない。
「本当だよ」
柔らかな声がハッキリ告げる。
くしゃり。手の中の便箋が乾いた悲鳴を上げた。
「君には色々話しておきたいことも、渡さないといけない物もあるから上がって。生憎とこんなところで気楽に話せる内容じゃあないんでね。中でゆっくり話そう」
「……はい」
促されて門を潜り、初めて訪れた時に気後れした玄関へ入る。
擦り硝子の嵌(は)め込まれた格子戸は門と同じだが、玄関は戸が二つあって、両側へそれぞれ引いて開けられる。丁度正面から見て左右対称に造られていた。何時見ても趣きのある綺麗な家だ。玄関を上がった目の前にある障子の向こう側が座敷になっていることも知っている。大学時代に何度か訪れ、その度に必ずそこへ通された。障子を開けて座敷へ入ると「長話になるからお茶とお菓子を持って来るよ。ああ、父も母も出払っていてすぐには帰って来ないし、足を崩して寛(くつろ)いでも大丈夫だから」そう言って一人座敷に残される。
長方形の座卓を挟んで座布団が一枚ずつ置かれていた。
僕はそのうちの片方に座って座敷の中を見回した。水墨画の掛け軸も変わっていない。だけどよく見てみれば畳はまだ青々と新しく、取り換えたばかりのイグサの香りがする。それと一緒に甘く爽やかな花の香りが鼻腔を掠める。どこからともなく漂ってきた心地好い匂いに、凝り固まっていた体の力が徐々に抜けていくのが分かった。大学時代、僕はこの優しい香りを追いかけていた。
「お待たせ」
静かに障子を開けて柔らかな声が聞こえる。
戻ってきた彼の手には御盆、そこに湯呑みと小振りの急須、茶請けの菓子が入っているだろう大きめの漆器が乗っていた。
彼は空いている向かいの座布団に来て、僕と自分の分の湯呑みを置いて急須からお茶を注ぐ。緑茶だ。湯呑みと漆器の蓋を開けて菓子を僕に勧めた後、自分も一口二口お茶を飲んだ。僕も勧められるままにお茶を飲み、個包装の菓子を一つ摘まんでみた。菓子は一口大の餡入り最中(もなか)だった。
僕が一息吐くと座卓に白い封筒が差し出された。
「君宛てのものだよ」
手に取ってみれば、今日届いた手紙と同じく裏も表も真っ白で、しかしこれは差出人どころか宛名すら書かれていない。しかも糊で固く封がされてある。でも誰が書いたものかは分かったし、あえて何も書いていないのがあの人らしいと思った。全体的に少し厚みを感じるので中身が便箋一枚ということはなさそうだ。
彼を見遣ると一つ頷かれた。
ピッチリ閉じた封を慎重に剥がして開ける。
震えてしまいそうになる手で何とか取り出した中身は、折り畳まれた便箋数枚と、大きさは同じだが、それとは別の紙がこちらも数枚纏めて折り畳んであった。
広げた便箋にはとても見覚えのある字体。
それを目にした途端、あの頃の記憶が僕の脳裏に溢れ出した。