僕が初めてあの人を見掛けたのは大学へ入学したてのよく晴れた日だった。
地元の方が自宅から通えて楽だろう。一人暮しなんて大丈夫なのか。近くに居てくれた方が安心出来る。
そう言って地元の大学を薦めてくる両親を散々説得して他県の大学で入学試験を受けた僕は無事合格し、大学より徒歩十五分ほどの場所に建つ築十何年の高くも安くもないアパートの一室で初の一人暮しに浮かれていた。
学費とは別に家賃や光熱費などの生活費も、両親が毎月僕の口座に振り込んでくれるのだ。一応アルバイトは探すつもりだが、精々小遣い程度に稼げれば充分で、新しい街では悠々自適な学生生活を満喫しようくらいの気持ちだったと思う。
大学の正面入口は入学式翌日からずっと、色々なサークルが新入生に声をかけて引き込みをしている。特にソフトテニスやバドミントン、水泳といった運動系は人気が高い。男女関係なく在学中の生徒も新入生も集まっているのが遠目にも分かった。僕はいくつかのサークルの説明や勧誘を聞きながらも、曖昧に返事を濁すことでどこにも入らないまま宙ぶらりんだった。
そんな時、大勢の人で入り乱れる道の中で吸い寄せられるように一つの看板が目についた。黒い板に薄く青い手形がつけられており、血文字のつもりなのか滴る字で‘オカルト同好会’と書いてある。そのくせ隙間のあちらこちらにはウィンクをするポップな可愛らしいオバケやデフォルメの蝋燭が描かれているものだから、おどろおどろしい板や字面との温度差が可笑しくて僕は小さく噴き出してしまう。ちょっと親しみの持てる看板だ。
だがそんな看板がヒョイと向きを変えたことで、陰に隠れていた二人の人物が視界に映る。そこには美男美女がいた。冗談でも大げさな表現でもなく本当に整った顔立ちの人達だった。
男性の方は背が高い。百七十五センチの僕よりも長身だ。ダークブラウンに染められた柔らかそうな猫っ毛は癖があって、垂れた目尻と僅かに幼さの残る顔は男にしては可愛い感じで穏やかそうな印象を与える。袖が七分丈の白いTシャツに黒いベスト、細身の黒いカーゴパンツのシンプルな服装でもお洒落に見えた。
女性の方も恐らく百六十五センチはあるだろう。癖のない真っ直ぐで艶やかな黒髪を腰近くまで伸ばし、小さめの顔にやや吊り上がった目許が涼しげで、しゃんと伸びた背筋も相まって凜とした雰囲気を纏っている。Vネックの白いロングTシャツに淡い桜色のカーディガンを羽織り、少し色褪せた水色のデニムは細身の七分丈。ハイカットとローカットの差はあれど、どちらも足元はスニーカーだ。
方向性が違っても見目の良い二人が並んでいると、それだけで周囲の視線を集め、通りかかる女子の中にはわざわざ引き返して男性に話しかける猛者も何人か見受けられるくらいだ。男性は見知らぬ人々に声をかけられても嫌な顔一つせずに談笑している。
対照的に、女性には誰一人として近寄ろうとしない。
それもそうだ。同好会の勧誘をするでも、仲間と話をするでもなく、立ったまま読書をしているのだ。恐らく文庫本だろう。書店の名前入りのペーパーブックカバーで題名も不明な上に、読んでいる本人の表情も変わらないものだから、内容を楽しんでいるのか単に暇潰しで目を通しているだけでなのかも判然としない。ただ同好会の勧誘も自分の後輩となる新入生にも、全く興味がないのだろうということだけは分かった。
どこまでも我関せずを貫く様はある種の清々しささえあった。
拒絶とも取れる空気は離れていても伝わってくる。だと言うのに、無謀にもそこに近付いてみたい、会話を交わしてみたいと一目惚れにも似た気持ちが僕の心の中にひょっこり芽生えてしまったのだ。
その日のうちにオカルト同好会に入ったのは言うまでもない。
* * * * *
桜が完全に散り、その名残すら完全に消えてしまった五月。
杜若(かきつばた)が咲き始めても僕はまだあの人に近付けずにいた。
同じオカルト同好会に所属すれば関わる機会も増えるだろう、なんて甘い考えで入った一ヶ月前の自分の頭を思い切り叩(はた)いてやりたい気分だった。世の中、そこまで都合良く物事が進むはずもない。
同好会に所属して知ったのは‘神代(かみしろ)いつき’という名前と、一つ上の先輩だってこと。同好会の他の先輩達は皆、口を揃えて‘彼女は視(み)える人’だと言う。何が視えるって、それは当然オカルトや怖い話には必ずと言っていいほど出て来るオバケ。つまり幽霊のことだ。
――……幽霊が視えてるって本当ですか?
直接そう聞いてみたかった。でも不躾な質問を出来るほど話す機会は訪れなかった。一言挨拶をするのが関の山。どういう訳かあの人の下には時々同好会以外の人がやって来る。そうすると何を言うでもなく、ふらっと来た人と一緒に部室を出て行って、その日はもう戻らない。気になったが誰もそれについて言及しないのでこれも聞けずにいた。
結局、声をかけてくれる他の先輩や同じ一年同士と親しくなって、講義後に同好会の部室で怖い話に花を咲かせてみたり、街の案内がてら遊びに行ったり、見知ぬ土地で知人や友人が増えるのは嬉しかったが当初の目的を果たすこともせずに過ごしていたのである。
そんな折、図(はか)らずも僕はその足掛かりとなる出来事に見舞われた。
「なあ、あれから何かあったか?」
同好会の同じ一年の男子はその日最後の講義を終えると僕にそう聞いてきた。
丁度ノートや筆記用具を片付けている時だったし、傍まで来ているのも気付いていなかったしで、驚き半分何の話か分からずに首を傾げかけたものの、すぐに昨日のことだと思い至る。
最近同好会で親しくなった彼に誘われて、学科は違うが同じ一年の女子二人の計四人でカラオケに行き、更にそこから地元でそこそこ有名らしい近くの心霊スポットへ冷やかしに行ったのだ。
「いや、別に何もなかったよ」
昨夜から今日までのことを頭の中で一度思い返して首を振る。
解散してアパートへ帰った後も、夜眠った時も、朝起きてからも、特にこれといって変なことは起きていなかった。同好会の先輩達の体験談に聞く家鳴りとか人の声とかも全くない。
そういう話を期待しているにしては、お調子者っぽい彼らしくなく沈んだ声だ。昨日とは打って変わって元気がない。よくよく顔を見ると目の下に薄っすら隈(くま)があった。疲れた様子で左肩を撫でたり、揉んだりしている。寝てないのだろうか。
「……昨日、あそこでお前らのこと脅(おど)かしただろ」
他の人には聞かれたくない。周りに人なんていないのに囁くように言う。
確かに昨日は彼にしてやられた。心霊スポットで彼が急に大声を上げたものだから、暗闇と聞いていた噂で内心少しだけ怯えていた僕や二人の女子は心臓が飛び出すんじゃあないかってほど驚いたのだ。
「でも本当はさ、あの時マジでオレの背中に女がくっついてたんだよ。お前らには見えてないみたいだったし、すぐに消えたから噂の奴だと思ってオレもあんま気にしてなかったんだけど……」
オレに憑いてるっぽいんだ、そいつ。女の霊。
躊躇(ためら)い気味に吐き出された言葉を僕は頭の中で何度か反芻(はんすう)した。
ついてる。おんなのれいが。ついてる。憑いてる?
「え、本当に?」
つい彼の体を爪先から頭の天辺まで眺め回してしまった。
「こんなことで嘘なんか吐くかよ」
僕の態度が気に障ったのか、ムッとした表情をする。
すぐに「ごめん」と謝ると彼は顔を隠すように俯けた。
「帰ってからずっと変なことが起きてるんだ。ほら、先輩達が言ってたラップ音ってやつ。あれが部屋のあっちこっちで一晩中鳴り続けるし、なんか赤ん坊の泣き声みたいなのも聞こえるし、触ってないのに物が微妙に動いたり落ちてきたりして全然眠れないんだ」
余程堪えたらしく、重たい溜め息が彼の口から漏れる。
悄然とした姿に本来の明るさは欠片もない。
どうしよう、と途方に暮れた呟きに僕も困った。
「謝ったら許してもらえないかな?」
何で僕や女子ではなく彼だけに憑いているかは分からないけれど、もし昨日の肝試しが霊の癇(かん)に障ったのなら、真摯に謝罪すれば離れてくれるかもしれない。ない頭を捻ってもそれしか思い浮かばなかった。
だが彼は明らかに嫌そうに眉を顰(ひそ)めて僕を見る。
言われなくても‘何でオレが謝らなくちゃいけないんだ’という気持ちが読み取れた。
「やっぱり騒いだのが不味かったんだよ。お線香をあげるなり、花を供えるなり、何か目に見える形で反省してるってことを表せば怒りを収めてくれるかも」
「もうあそこには行きたくない。余計酷くなったらどうするんだよ」
「うーん、じゃあお祓いをしてくれる神社かお寺に行くとか? 近くでそういう場所はないの?」
そう聞き返せば彼は「そんなの知ってる訳ないだろ」と頭(かぶり)を振りかけて、不意に何かに気付いた様子で勢いよく顔を上げた。あんまり勢いがあったので少し驚いた。
「それだ!」
力強く右手の人差し指で顔を指し示される。
それって何のことだかさっぱり理解出来なくて目を瞬かせてしまう。
すると焦れたように彼が身を乗り出した。
「だから、神代いつき先輩だって!」
あの人の名前が出て来て僕は内心ドキリとした。
「大っぴらにはしてないけど、この手の問題を解決してくれるって前に同好会の先輩達が言ってたんだよ! 偶に他のサークルとか学科の奴が神代先輩のところに来てるのも、実はそういう系の相談のためらしいって話だ」
なるほど、とここ一ヶ月ばかりのことを思い出して納得した。
どのような事情があるにせよ、同好会の部屋では落ち着いて相談も出来ないから外へ出ていたのか。オカルト同好会と銘打つだけにその手の話題が好きな者が集まっていて、そこで幽霊に憑かれただの心霊現象で困っているだのと言えば根掘り葉掘り聞かれるに決まっている。
「あれ、でもそんな話先輩達してたっけ?」
「オフレコだよ、オ・フ・レ・コ! 歓迎会の時にこっそりな。どんな内容の相談なのか神代先輩は絶対言わないし、相談した方もだんまりらしいし、それでもああやって人が来るってことはマジで幽霊が祓えて、それが口伝いに広がってるんだろ」
「そうなんだ、全然知らなかった」
「他の奴にはあんま言うなよ。先輩にもそう言われてるし」
僕は黙って頷いた。そもそも普通の人には言っても信じてもらえないだろう。
抱えている問題の突破口を見つけて安心したのか、若干だがいつもの明るさを取り戻し始めた彼に連れられ、好奇心と憧れの人に近付ける期待を半々に感じながら僕は同好会の部室へ向かうことになった。
各サークルの部室が集う建物は大学の敷地の一角にある。オカルト同好会は二階の角部屋だ。一応どの部屋にも鍵がつけられているけれども、オカルト同好会の部室は何時(いつ)行っても施錠されていない。無用心と言えばそうなのだが、如何(いかん)せん置かれている物はやれ捨てても帰って来る呪いの人形だの、やれどこぞの祈祷師が死に際までつけていた霊力が宿っているお面だのと、明らかに曰く付きですと言いたげな代物ばかり。おまけにどれも古くて盗もうと思う人間なんてまずいない。
この一ヶ月で見慣れた部室の扉を彼が数回叩いてから「ちわー」と声をかけつつ開けた。
中では目的の人が本棚の前にパイプ椅子を置いて読書をしていた。
「こんにちは」
顔を上げた神代先輩へ僕もお辞儀を交えて挨拶をすると目礼が返される。
上半身が僅かに傾けられたことで長い黒髪が一束、さらりと顔の横へ滑り落ちた。こめかみ部分から伸びたその髪を色白のほっそりした手が耳にかけるように除ける。何気ない動作に自然と目が行ってしまう。
しかしすぐに視線は外されて手元の本へ戻り、話を続ける隙もない。二人で顔を見合わせた。
「あの、神代先輩、相談したいことがあるんですけど……」
彼の尻すぼみな言葉に神代先輩はもう一度顔を上げた。
ほんの一瞬訝しげな表情をした後に、手元の本が閉じられる。珍しくブックカバーのないそれは、題名を見る限り、超常現象に対する科学的見解を説明するもののようだ。そのまま傍の本棚へ仕舞われたことで、卒業した部員がこの部屋に置き忘れていった私物のうちの一冊を読んでいたのだと気付く。
「五分十分で終わる話ではなさそうだな。とりあえず座ってはどうだ?」
机を挟んだ向かい側にあるパイプ椅子を示され、僕達は並んで座ることにした。
この人がきちんと喋っているところを聞いたのは初めてである。いつも読書をしていて話を振られても「ああ」とか「いや」とか、短い相槌しか打たないのでてっきり寡黙な人なのだと思っていた。ぶっきらぼうとも横柄とも取れる男性的な口調なのに妙に似合っていて不思議と違和感がない。
パイプ椅子に座った僕達へ、体ごと顔を向けた神代先輩が言った。
「最初に言っておくが、私は金を取るぞ」