少しして車が道路脇の待避所へ入り、停まる。
どうやらもう昨日の場所まで来たらしい。
エンジンが切れるといつき先輩はシートベルトを外して車外へ出た。
僕も買ったばかりの虫除けスプレーを手に出て、それを軽く体へ吹き付けつつ、木々の隙間に見える山を見上げた。青々とした森独特の匂いと清涼な空気は心霊スポットと言うよりもレジャー向けな感じである。
昨夜はおどろおどろしげだった廃屋へ続く獣道も、明るい昼間では全く怖くない。
木々の梢から差し込む日差しもあって、昨夜と同じ場所とは到底思えなかった。
いつき先輩が袈裟(けさ)懸(が)けのショルダーバッグを肩へ掛け、飲みかけのお茶を入れる。
僕も愛用しているバッグへ虫除けスプレーを入れて背負う。
「さて、行くとしようか」
かけられた声に顔を上げれば白いものが放られる。
咄嗟に両手で受け止めたそれは、新品の軍手だった。
「軍手?」
「枝を払うのと埃対策だ。あの家は放置されて長いからな」
「そういえば足跡が残るくらい埃が積もってましたよね」
昨日来た時に家の中を見て回らなかったのは埃のせいだったのかもしれない。
ちょっと電話機に触っただけでかなり埃が手に付いたくらいだ。他にも物を触るとなれば軍手か手袋は確かに欲しくなる。清め塩やら軍手やら、いつき先輩は実に用意周到な人である。
軍手を嵌めてみると結構厚手のもので、これならそう簡単に怪我はしなさそうだ。
そうして、まだ車内にいる尊先輩に僕は首を傾げた。目が合い、運転席の窓が開く。
「尊先輩は行かないんですか?」
「うん。俺は何の役にも立たないし、ちょっと寝不足だから留守番がてら休んでるよ」
てっきり来るとばかり思っていたので少し拍子抜けしてしまった。
いつき先輩はそれで構わないらしく、一言「そうか」とだけ言い、獣道へ向かう。
僕がその背中を追いかけて歩き始めてすぐ、後ろから「気を付けてね」と声がしたので一度だけ振り返って頷き返すと、相変わらず穏やかそうな微笑を浮かべた尊先輩が緩く手を振っていた。
顔を戻して僕も獣道へ足を踏み入れる。
行き先が心霊スポットという点に目を瞑れば、心地好いハイキングコースだろう。
鮮やかな緑のトンネルの中をいつき先輩が先に立って進む。時折、風が葉を揺らす音や遠くで鳥の鳴く声が微かにする以外はとても静かで、二人分の足音が随分大きく感じられた。明るいからか、昨夜よりも早く獣道を通り抜けた僕達は廃屋へ辿り着く。
暗闇では怖ろしげな廃屋も、日の光の下ではただの古ぼけた家だった。
森の中にぽつりと佇む姿はどこか寂しげにも見える。
いつき先輩が玄関へ回ると引き戸の扉を開けた。
「邪魔するぞ」
大きくないが、よく通る声で断りを入れたいつき先輩が家の中へ入る。
「お邪魔します」
僕もそれへ倣って一言掛けてから玄関の戸を潜る。
中は薄暗いものの、懐中電灯は必要なさそうだ。
靴の裏を軽く払うと昨夜と同様に土足で上がり、玄関から繋がっている居間へ行く。
居間ではいつき先輩が電話機の受話器を戻すところだった。
「やはり電気は来ていないらしい」
試しに壁にあった照明のスイッチを押してみたが反応はない。
もう一度スイッチを押して元の状態に戻しながら頷いた。
「そうみたいですね」
「君は電話に出たと言っていたが、その時はどんな状況だった?」
問われて、昨夜の記憶を引っ張り出す。
「ええっと、尊先輩とそこの洋室を出た時に電話が鳴りました。丁度居間にいたのは僕達だけで、呼び出し音はワンコールで切れたんですけど、すぐにまた鳴ったので僕が取りました。雑音が酷くて、もしかしたら違うかもしれませんが‘とおく’って単語を繰り返してるように僕には聞こえました」
ふむ、といつき先輩が腕を組んで居間を見回した。
「電話の声の性別は?」
更に質問を重ねられ、僕は目を閉じて聞いたはずの声を思い起こす。
受話器を取り、雑音が酷くて、でも人の声みたいなものが混じっていて――……。
「……多分、男性だったと思います……」
雑音と声の小ささであまりハッキリとは言い切れないが。
いつき先輩は一つ頷くと「では家捜しでもするとしよう」なんて言う。
僕は訳が分からず聞き返した。
「家捜しなんてして大丈夫ですか? また昨日みたいになりません?」
思わず座卓の上にある硝子コップを見遣る。
夜ほどではなくとも、やはり心霊現象は怖い。
「余程力の強い者でない限り、日が出ているうちは滅多に活動しない。出来ても精々家鳴りが関の山だ。大抵の怖い話やオカルト系でも昼間に霊を見たというのは殆ど聞かないだろう?」
「でも物を動かしたり、姿を見せたり出来るんですよ?」
物怖(ものお)じする僕にいつき先輩が小さく息を吐く。
「太極図(たいきょくず)を知っているか? 白と黒の勾玉がくっついて円になっているものだ」
「ええ、知ってます」
「あれはこの世のあらゆる物事は陰(いん)と陽(よう)の二つに分類出来るという中国の思想なんだが、この二つは相反する属性で、大雑把に言うと両属性が存在するからこそお互いが一つの要素として成り立つということだ。その陰と陽で分けるならば、夜は陰、昼は陽となる。そして人の生き死にも区分出来る」
それはどこかで聞いたことのあるような話だった。
「死が陰で、生が陽ってことですね」
「そう、そして人の肉体と魂も分けられる。中国の道教では二つを合わせて魂魄(こんぱく)と呼ぶ」
「魂(こん)は魂(たましい)で、魄(はく)が肉体でしたっけ?」
「ああ。魂魄もまた陰陽では魂が陽、魄が陰、二つで一つ、人間となる。ここからは自論になるが、魂のみの霊の場合は対を成すための魄がないために、同じ陽の気だけの昼間に活動するのは非常に力が要るのではと私は考えている。それから人間の霊は生前の記憶に縛られることが多くてな、死後も常識から外れることはあまりしない。要は明るい場所や昼間にお化けは出ないという思い込みだな」
そう説明を締め括ると、宣言通りいつき先輩は家捜しのために和室へ入って行った。
他の人は平気だと根拠もなく言うけれど、いつき先輩は説明や経験を交えた論理的な話で諭されるので不思議と納得してしまう。実際、先ほどまであった恐怖心はすっかり鳴りを潜めていた。
僕はテストの問題が解けた時のようなさっぱりとした気持ちで声を掛け直す。
「ところで何を探せば良いんですか?」
箪笥の引き出しを開けて中身を検分したまま、いつき先輩が答える。
「気になる‘何か’さ」
あるかどうかも分からんがな、と付け足して引き出しを閉める。
いつき先輩でも今回はまだ突破口が見出せていないのだろう。
曖昧な表現の‘何か’を探すために僕も隣の洋室を調べることにした。
調べると言っても洋室には机とベッド、箪笥が二つあるくらいで質素なものだった。とりあえず机から順に見て回る。二つ並んだ引き出しの中は文房具やノート、読みかけらしい栞(しおり)の挟まれた黄ばんだ文庫本、メモ帳、ケースに入った老眼鏡などがきちんと整頓して仕舞われている。ノートも流し読みしてみたけれど、中身は庭の畑で育てた野菜や植物の成長記録だった。内容から察するに、ここは老婆の父親の部屋のようだ。
ベッドは何の変哲もない木とマットレスのもので、下にも何もない。
箪笥も中は畳まれた衣類ばかりだった。この部屋の主は衣替えが面倒臭かったのか片方は春物や夏物、もう片方は秋物と冬物に分かれており、一番下の段にはどちらも作業着らしき服が収めてある。
それらを見ながら僕は不意に実家の祖母を思い出した。
もう高齢の祖母は自室の衣装箪笥に色々な物を入れているのだ。祖父との思い出の写真や使っていない巾着(きんちゃく)、小物の類など、引き出しの中は服以外の物も結構多い。
僕はもう一度箪笥の引き出しを開けて、服を退かしたり奥を覗き込んだりしながら見直した。
「……あ」
秋物と冬物の衣類が仕舞われている箪笥の丁度真ん中の段にそれはあった。
服の下に隠すように一冊の本が置かれていた。淡い水色でA4サイズの本は手に取ってみると厚く、予想以上に重い。ハードカバーの表紙を開くと何枚もの写真が目に飛び込んでくる。アルバムだ。透明なフィルムで保護された写真には仲の良さそうな中年夫婦とその子供らしき一人の若い女性の三人が笑顔で写っていて、この廃屋が背景にあることから、ここに住んでいた老婆とその両親が若い頃に撮ったものだと分かる。若い女性は二十歳前後ほどで、気の強そうな顔立ちだがコンビニの男性が言う通り美人だった。雰囲気だけ見ればいつき先輩に似ていなくもない。こんな山の中の小さな町ではさぞや目立っただろう。
試しに一枚だけ引き抜いて裏返してみたけれど、日付は記載されていなかった。
写真を戻し、アルバムのページを捲くる。
町の人々も三人と共に多く写っていて、嫌われ者というイメージからは程遠い。
「ん?」
アルバムは最後のページを空白のまま残して終わっている。
つい最近のものならば分かるが、年代的に使いかけということはないはずだ。
その証拠に薄っすら日焼けしたページには四角い跡が幾つかあり、暫らくの間はそこに写真が貼り付けられていたことが見て取れる。理由は分からないが誰かがそのページだけ写真を抜いたのだ。
アルバムを手に和室へ向かうといつき先輩の姿はない。
代わりに奥の老婆の部屋の方からガサゴソと物色する音が聞こえる。
そちらへ行き、覗いてみると、案の定そこにいた。
「いつき先輩、ちょっと良いですか?」
ベッドの傍にいたいつき先輩が振り向く。
「何だ?」
「隣の部屋の物なんですけど、箪笥の中に隠すみたいに仕舞ってありました」
「……アルバムか」
手渡したアルバムのページを捲くる手が止まる。
いつき先輩も気付いたようで写真の跡を指先で軽く撫ぜた。
開いたままのアルバムを僕へ寄越すと、ジーンズのポケットに手を突っ込んで何かを取り出す。
二つ折りにされて束になったそれをいつき先輩が開いて僕に見せた。
写真だ。全部で五枚。色褪せ、折り曲げた部分や角なんかは擦り切れている。
老婆だろう若い女性と二十代後半か三十代くらいの細身の男性が親しげに寄り添い、顔を見合わせて楽しげに笑っていた。二人の幸せそうな様子が見ているだけで伝わってくるような、そんな写真だった。
「この部屋で見付けた写真だ。全部、枕の下に入れてあった」
いつき先輩が視線で示した先のベッドを僕も見る。
あの染みのあるベッドを調べたことへの驚きと、胸に湧き上がる言葉にならない感情とが混ざり合い、写真とベッドといつき先輩の顔を順繰りに見た後、やっと口から言葉が出た。
「この男性って、コンビニの人が言っていた都会の方の人でしょうか?」
それくらいしか思い当たらなかった。
「恐らくな」
短い返答に僕はまた写真を見下ろした。
何十年も昔に出会った男性を想い続けて結婚もせずに年を経て、両親を失い、たった独りになって、それでも枕の下に残った写真を入れるくらい忘れられなかったのだろう。
異常と言えばそうかもしれないが、それほど好きだった相手と一緒になれなかった苦しみや悲しみを思うと偏屈になってしまうのも仕方がないと言うか、何となくその気持ちも分かる気がする。
僕達は写真とアルバムを手に居間へ戻った。
いつき先輩は二つを座卓の上に置いて室内を見回す。
「ポルターガイスト現象が起こったのは羽柴さん達が台所にいた時だったな?」
「え? ええ、そうです。写真を撮ろうとしてましたね」
唐突な質問に僕はちょっとだけ詰まりながら答えた。
ジッと台所を見つめ、いつき先輩は考えるように手を顎へ寄せたものの、薄っすら汚れた軍手に気付いて組みかけた腕を解く。ついでとばかりに軽く軍手の埃を払った。
そうして台所へ近付いて置かれている物や台所の下の戸棚を調べ始めた。
ピシリと廃屋のどこかが小さく軋む音がする。
その音を聞いたいつき先輩が一度頭上を見上げたが、気にした風もなく物色を続ける。
小さいけれど明らかに聞こえる家鳴りに僕は昨夜のことを思い出してしまった。
「いつき先輩、そこに何かあるんですか……?」
執拗に台所のあちらこちらをひっくり返す様子に問い掛ける。
「さあ、どうだかな。だが家鳴りがするということは、他人に見られたくない物か大事な物、もしくは霊が執着するような何かがある可能性は高い」
冷蔵庫を開けたいつき先輩が眉を顰めて中を見た後、閉める。
あの冷蔵庫は凄い臭いがすると昨日羽柴先輩達が言っていたやつだ。
台所を粗方物色し終えたいつき先輩が、ふと足元を見下ろした。
足元には縦長のやや毛足の長いキッチンマットが敷いてあり、長年使われていたのか、埃を抜きにしてもかなり汚れていて、いくら床と言っても料理を作る場所にしては不衛生な気がする。
いつき先輩がその上から退くとキッチンマットを脇へ取り払った。
板張りの床はキッチンマットの部分だけ綺麗に埃がなく、そこには床と同じ素材で出来た正方形の戸があった。昔ながらの家ならば大抵一つはくらいは付いている床下収納だ。調味料の予備を仕舞っておいたり、漬物を作って保存しておいたりするのに重宝される。
その床下収納の戸の取っ手をいつき先輩が掴むと一際大きな家鳴りが響く。
しかし、いつき先輩は音に怯むこともなく戸を持ち上げた。
ギイと錆びた蝶番(ちょうつがい)が軋む音と共に、それはあっさりと開いた。