目的地までは自動車でも約二時間は掛かるため、途中のコンビニに立ち寄って飲み物などを買うことにした。
僕はシリアルに牛乳をかけただけの簡単だけどそこそこ栄養は摂(と)れる朝食を済ませて来たが、いつき先輩と尊先輩は何も食べていないそうで、おにぎりを選んでいる。あまり食べないのか、どちらもパンコーナーには見向きもしない。美男美女が真面目におにぎりの具で悩んでいる姿に僕は笑いを堪(こら)え、ペットボトルのお茶を二本持って二人へ声を掛けた。
「どれにするか決まりました?」
振り向いた尊先輩が「うん」と頷く。
カゴの中には鮭、おかか、五目御飯の三つと炭酸水二本、濃い目のお茶が二本。
「陽介君も昼食は買って行った方が良いよ。多分、帰って来るのはお昼過ぎになるだろうから」
尊先輩の言う通り、八時半過ぎに目的地に到着して、そこからあの獣道みたいな場所を歩いて廃屋へ行き、その周りや中を調べるとしたら最低一時間は滞在するだろう。帰りの時間をそこに足すと、どう見積もっても絶対に正午は過ぎる。
それならと僕もおにぎりのコーナーを眺め、目に付いたエビマヨと明太子を手に取った。
いつき先輩は悩みに悩んで塩むすびと高菜を選んだ。
渋いな、なんて横目に見ていれば手がふっと軽くなる。
驚いて振り向くと尊先輩がカゴの中に僕のお茶を入れていた。
「今朝のお詫びに奢るよ」
そう言って、サッとおにぎりもカゴへ入れた。
「でも、自分の分くらい……」
「本人が良いと言うんだ、甘えておけ」
言いかけた僕をいつき先輩が止める。
僕の分は既にカゴにあるので、それを断ってわざわざ取り返すのは確かに嫌な感じだ。素直に尊先輩の厚意に甘えさせてもらった方が良いかもしれない。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ニコリと笑った尊先輩はどこか嬉しそうだった。
会計を済ませて車に戻ると、いつき先輩が後部座席の後ろにあるラゲッジスペースに手を伸ばし、白いトートバッグを出す。開いた時に見えた中は保冷用の銀色の素材で覆われている。
「君はおにぎりはすぐに食べるか?」
そこへ買った物を仕舞いながら、いつき先輩が僕に聞く。
「いえ、お茶だけもらいます」
「分かった。……そっちは?」
「俺は炭酸水とおにぎり一個、適当に出して欲しいかな」
僕にお茶を渡しつつ、いつき先輩は運転席へも問い掛け、車をコンビニの駐車場から道路へ出そうと左右を確認していた尊先輩が答える。
いつき先輩は炭酸水とおかかのおにぎりを出して、炭酸水は一度蓋を捻って口を開けてから手を伸ばして運転席の左側にあるドリンクホルダーへ置き、おにぎりは包装を解いて海苔も巻いて食べられる状態のものを再度包装で軽く包み、車を道路へ出した後に尊先輩が上げた左手に乗せた。
「ありがとう。いただきます」
「ん」
慣れた風に行われる一連の様子を見て僕は感心した。
最後にいつき先輩が自分の分のお茶とおにぎりを一つずつ出してバッグの口に付いたジッパーを閉め、ラゲッジスペースへ戻す。保冷バッグに飲み物と一緒に入れておけば、おにぎりも傷み難いだろう。
一息吐いた後、いつき先輩も手を合わせて「いただきます」と呟いて塩むすびを食べ始めた。
黙々と食べる二人を邪魔しないよう、僕はお茶を飲んで待つ。
「ご馳走様でした」
いつき先輩が残った包装を尊先輩から回収して、同様に食事を終える挨拶を済ませた。
二人が朝食を食べ終え、僕はやっと質問する機会を得た。
「いつき先輩があの廃屋の件で何か気にしていると聞いたんですが、ひょっとして僕が出た電話とも関係ありますか? あの電話のことは僕も気になっていたんです」
「そうだな、今の段階では全くないとは言い切れん」
いつき先輩はお茶を一口飲んで頷き、ペットボトルの蓋を閉める。
右手に持ち換えて腕を組むと目を伏せた。ややあって口を開く。
「昨夜、私が‘霊は隠れていて姿は見えない’と言ったのは覚えているか?」
「はい、でも気配は感じるって言っていましたよね」
「ああ。あの時は羽柴さんに黙っていたが、廃屋には気配が二つあった。一つは孤独死した老婆のものだとしても、もう一つは一体誰なのかと思ってな」
僕は昨夜のいつき先輩の言葉を思い出した。
霊がいるとは言ったものの、それ以上は言及していない。
羽柴先輩が見た人影について問い返したくらいだ。
「死んだおばあさんの御両親のどちらかじゃないんですか?」
他にあの廃屋に出る霊なんて考え付かない。
老婆の親なら、そこにいても不思議ではないだろう。
「それは違うな。羽柴さんは人影について、大きさは自分の目線の高さほどだと言った。目測でも羽柴さんの身長は約百八十センチ。その目線となれば、君とほぼ同じくらいだぞ?」
「どこかおかしいですか? 父親は?」
首を傾げた僕にいつき先輩が小さく息を吐く。
「年を取ると背が縮むと聞いたことはないか? 背骨の間にある軟骨が薄くなったり、筋力が減って腰が曲がったり、複数の原因で四十代を過ぎた辺りから縮み始める。子が老婆と呼ばれるくらい老齢であることを考えると、親は最低でも子より十六は年上だ。八十、九十の高齢者が君と同じ背丈とは思えん」
「でも親は先に死んでるって言ってませんでしたっけ? 若くして亡くなったとかは?」
「両親が他界したのは老婆が死ぬ少し前だ。あの家はどこも生活感があった。奥の部屋で老婆の遺体が見付かったのなら、そこが老婆の部屋で、残りの手前二つは両親の部屋。程度の差こそあれ、故人を偲(しの)ぶとしても、亡くなった両親の部屋を何年もそのままにはしないだろう?」
僕は返す言葉もなく押し黙った。
廃屋の中はどこも生活の跡があり、僕自身、人が住んでいてもおかしくないと感じたし、羽柴先輩から老婆には両親がいたと聞いていたから特に疑問を持たなかったけれど、言われてみればちょっと妙だ。暫らくは部屋を残しておいたとしても、流石に何年も手付かずということはない。遺品整理くらいはするだろう。
もしも両親の死と老婆の死との間があまり開いていないとしたら、両親はかなり高齢だ。
例え父親だったとしても高齢で僕と同じ身長というのは確かに考え難い。
実際、僕の父も昔は身長百七十五センチだったらしいが、今は僅かに僕の方が高い。
つまり、あの廃屋には老婆やその両親とは別の霊がいるのか。
「分かったか?」
いつき先輩に問われて頷き返す。
「おばあさんでもその親でもない、話に出て来ていない霊のことですね」
「そうだ。老婆の夫という可能性もなきにしも非(あら)ずだが、夫婦にしては霊同士がやけに距離を置いているし、仏壇にもそれらしい位牌(いはい)はなかった」
「仏壇なんて何時の間に……」
「君より先に羽柴さん達が入った時にちょっとな」
あまりにもあっけらかんとした様子で言うから、僕は少しだけ呆れてしまった。
霊がいる廃屋の仏壇をよく平気で開けられるものだ。
でもいつき先輩ならば躊躇(ためら)いなくやりそうな気もする。
車窓を見遣れば、もう県を跨(また)ぐところだった。
* * * * *
山の中の町に到着したのは八時を少し過ぎた頃。
昨夜寄った個人経営らしきコンビニに僕達は車を停めた。
廃屋へ向かう前にいつき先輩がもっと情報が欲しいと言ったため、僕達が立ち寄っても不審ではなく、尚且(なおか)つ世間話を出来そうな場所はそこしかなかったのだ。
やや標高がある町は朝の時間帯ということもあって過ごしやすい気温だった。
コンビニへ入るとレジにいた男性が顔を上げ、目を丸くする。
咥え煙草に店の名前が書かれた淡い緑色のエプロンをした、五十代ほどの人だ。
「あれ? 君達、昨日来た子達だよね?」
いつき先輩が頷いた。
「ええ、そうです。昨夜は閉店間際にすみませんでした」
「いやいや、うちも小さな店だし沢山買ってもらえてありがたいよ」
レジに近付いて話し始めたので僕はコンビニの中をゆっくり回りながら聞き耳を立てた。
尊先輩もお菓子コーナーを眺めたり、商品を手に取ったりしているけれど、同じようにいつき先輩と男性の会話を聞いているらしく、目が合うと口元に人差し指を当てて微笑を浮かべる。
「そういえば、あの山の中の家に行って大丈夫だったかい?」
内心ドキリとした。
まさか向こうから話を切り出されるとは思わなかった。
いつき先輩のやや驚いた声が聞こえて来る。
「よく分かりましたね」
「一緒にいた男の子が一週間くらい前にも来て、あの家について色々聞いて回ってたから覚えてたんだ。こんな山の中だと全員知り合いというか、身内同然だし、じいさんばあさん達が嫌そうな顔で‘最近の若者は礼儀がなっとらん’ってぼやいてたしね」
小さく「全く、あの人は……」と呟く声がした。
覗いてみるといつき先輩は額に手を当てて溜め息を零していた。
尊先輩も小声で「羽柴さんだしね」と苦笑する。
きっと羽柴先輩は手当たり次第に聞いて回ったんだろう。
「あそこはこの町では近付くなって言われてる場所なんだ」
「どういうことですか?」
「……あの家は、本当に出るんだよ」
何が、とは言わずとも伝わった。老婆の霊のことだ。
声を潜める男性に、いつき先輩が促すように同意した。
「私達も昨日は心霊現象が起こったので慌てて帰って来たんです」
まあ、慌てたのも冷や冷やしたのも僕達で、いつき先輩は平然としていたのだが。
男性は「ああ、やっぱりまだいるのか」と怯え半分、失望半分の様子で肩を落とす。
「俺も三年くらい前に一度だけあの家に行ったよ。誰も住んでないし、一年経っても引き取り手は出ないし、仕方ないから壊そうって話が持ち上がってね、夜のうちに室内の家具とかを出すから男手として手伝うことになったんだ。家の周りを更地にする工事は始まっててさ、でも夕方擦れ違った工事の人等が妙にけが人ばっかりで、ちょっと変だとは思ったけどあんまり気にしてなかったなあ」
僕は話を聞きながら昨夜行った廃屋を思い出した。
三年前であれば、現在よりも多少綺麗だっただろう。
でも、家具や中の物は手付かずに見えた。
「店を閉めた後だから、午後七時半頃かな。暗い家に男六人で行って、家具をさっさと運び出そうって家に上がったら、いきなり電話が鳴るんだ。一年前に無人になった家に電気なんて当然来てる訳がないのにさ。とりあえず俺と連れ一人が台所担当で、邪魔な冷蔵庫を運ぼうと思ったら、急に呻き声が聞こえたんだ。じいさんばあさんみたいな嗄れた声が。しかも声の方を見たら、ミイラみたいになったあの家のばあさんがいて、家の外まで追いかけられたんだよ」
あの時は本当に死ぬかと思った。
安堵と少し懐かしむような色の混じる声だった。
姿を見ていない僕達でさえ身が縮むような思いをしたのだから、老婆の霊が出るという事前情報もなしに出くわした挙句に追いかけられた男性はさぞや怖ろしかっただろう。その時のことを思い出してしまったのか、男性が小さく身震いをした。
「昔はえらいべっぴんさんでこの辺じゃあ有名だったけど、ああなるともう同じ人間とは思えないね。鬼婆って言うの? その後、半年くらい夜は明かり消して眠れなかったよ」
はあ、と大きく息を吐く男性にいつき先輩が聞き返す。
「そんなに綺麗な方だったのに御結婚されなかったんですか?」
「うん。俺がガキの頃に、都会の方から来た人と仲良さそうにしてたのは見掛けたけども、結局その人はすぐ帰っちゃって、そのまま誰とも結婚しなかったよ。……そういえば、偏屈になったのもそれからかなあ」
「捨てられたのが辛かったのでしょうね」
「かもしれないねえ。親も死んで、独り寂しく死んで、そう思うとちょっと可哀想な人だったのかもね」
程好(ほどよ)く会話が途切れたところで、尊先輩が適当に見繕ったお菓子を手にレジへ行った。
僕も目の前にあった虫除けスプレーを持って尊先輩へ続く。必要な物ではないけど、夏場の山へ入るなら、これはあった方が良い。昨夜は気にならなかったが蚊や虻(あぶ)といった虫が多そうだ。
レジで会計を済ませた後、一言御礼を述べてから僕達はコンビニを後にした。
舗装の悪い道路を走り始めた車内でいつき先輩が顎を撫でる。
何やら思考を巡らせている様子だったので僕は聞いてみた。
「どうです? 良い情報はありましたか?」
いつき先輩は緩く首をかしげた。
「薄っすらと見えるものはあるが、まだ不透明だ」
「でもおばあさんが結婚してないってことは分かりましたね」
「ああ、その点は大きいな」
老婆とは別の霊が、老婆の夫という線は消えたのだ。無駄足にならずに済んだ。
だが僕には先ほどの会話から読み取れたのは老婆が独身だったことくらいで、いつき先輩が薄っすら見えているものなんて全然分からないし、一緒に同じものを見聞きしているはずなのに何のことを示しているのかも理解出来ていない。それは少し悔しいような、もどかしいような気持ちを抱かせる。
もっと近くにいれば何時かは同じものを見られるのだろうか。
微かな焦燥感と共に、そんな淡い期待を僕は持たずにはいられなかった。