ヨリトミ
電話対応やスケジュール管理、敵退治の申告書の作成などはもちろん、事務員の仕事のうちには会計や給与関連も含まれる。細かい税金の計算などはもちろん専任の会計士に依頼をするのだが、サイドキックらに給与振込みをするのは事務員の仕事だった。そして6月の末、通帳を手に初めてのボーナスの額を見ては何度も目を疑った。看護師の仕事も大きな病院だったためかボーナスはかなり良い方だった。しかし今回の額はそれをはるかに上回っている。

確かにここの事務所は忙しい。エンデヴァー事務所ほど大きければ事務員でさえ何人も雇っているのだろうが、うちは1人で回している。大変だと言うことは否定しないが、それでも本当にこんなにもらっても良いものなのだろうか。

「うちは毎回それくらいじゃないスか?事件処理件数も多いし、査定もわりかし良くつけてもらえてるし」

「それでも事務員にしては多いような」

「とんでもない。本当によく働いてくれてます。自分が稼いだお金なんですから、好きに使ってください」

好きに使うと言ってもなぁ。
啓悟の誕生日はまだまだ先だし……誕生日やイベント事に関係なくいつものお礼に贈り物をしたい気持ちもあるけれど。


久しぶりの休日、1人で駅前を歩いていると窓ガラスに貼られたチラシの列にふと目が留まった。

「引越しかぁ」

啓悟はあの家に好きなだけいてもらって良いとは言ってくれたけれど、でもそれってどのくらい?半年?1年?と考えてしまうとどこかでけじめを付けないといけないのは分かっていたことだった。これも良い機会だと不動産屋の扉を開ける。
博多中心部の賃貸物件はやはり家賃が高額ではあったが、一人暮らしなら1Rでも事足りるだろう。啓悟に夕食を作るという約束ももちろん忘れてはいない。彼の家の近くで、なおかつ今の給料で支払えそうな物件をとお願いしたところ、幸いにも1Rよりも広くて築浅の賃貸物件が2件も見つかった。
契約を急かされたもののすぐには決められず、検討したいと言ってそのチラシを鞄の中にしまった。




「名前さん、休日はどうでしたか?」

啓悟が仕事から帰宅しジャケットを脱ぎ捨てながらそう尋ねた。

「それがね、」

物件探しをすることは後ろめたいことではない。決してそんなことはない。そのはずなのに、なぜか言葉が出てこない。頭の中なのかもしくは心の奥なのか、何かつっかえたものがそれを彼に伝えることを拒んでいるかのように。

「名前さん?」

「その、百貨店を見て回ったんだけど、欲しいものが見つからなくて」

咄嗟に嘘が口をついて出ていた。

「ふーん……」

啓悟と目が合わせられない。特に背中の羽にはこの動揺した気持ちが感じ取られてしまいそうで、キッチンへ入り大袈裟に夕食の準備を始めた。

「今日は啓悟の好きな鶏肉だよ」

チキン南蛮を食卓に並べると感嘆の声が漏れた。

「名前さんが作るチキン南蛮は日本一ですね」

「そんなにおだてても何も出てこないよ。……あ、おかわりならあるけど」

「それじゃいただきます」

ぺろりと平らげて皿を持って寄越す彼は、仕事終わりは本当によく食べる。幼い頃の食が少し細い彼を知っているためか、嬉しくてついつい食事を作りすぎてしまうこともあるが彼はいつも嬉しそうに完食してくれていた。それでも太る気配がないのは、剛翼のカロリー消費が激しいためだろうか。




――水の流れる音が心のざわめきを増長していく。
どうして私は啓悟に新居を探していることを言えなかったのだろう。
啓悟が悲しむと思ったから?寂しがると思った?
もしくは、私自身がまだここを出ていきたくないと思っているから……?


「名前さん、次お風呂どーぞ」

彼の声で自分が食器洗いの途中であったことを思い出す。どれくらいの時間が経ったのだろう。ほんの数枚の皿を洗うだけなのに、すでに啓悟が風呂から上がってしまっているということはそれだけの時間がかかっているということだ。

「ぼーっとしてどうかしました?」

「な、なんでもない。ごめんね、それじゃお風呂いただきます」

そそくさとリビングから離れて脱衣所へ駆け込む。
風呂上がりの……濡れた前髪が垂れている啓悟なんて、別にもう見慣れた光景のはずなのに。少し暑くなってきたからとラフな格好をして上裸のまま冷蔵庫を開ける彼の姿が目に焼きついて離れない。首からかけたタオル越しに見え隠れする引き締まった上半身が子どもの時の彼とは違い脈が早まる。

11歳下の、小さくて弟のように可愛がっていた啓悟に邪な感情を抱きそうになってしまった事実に驚きと後悔を覚える。

(あれ、でも今は1歳差だから……問題なし?でも……)

「とりあえずお風呂!」

ここ数日、啓悟との距離が以前にも増してずっと近いせいだ。彼にふと視線をやれば毎回目が合うことに、いつも見られてるのかと勘違いをしてしまうほどだった。そしてにこっと笑みを浮かべられて。
初めはそれにただ微笑み返していただけだったのに、最近はただそれだけのことが上手くできない。顔が赤く熱くなるのを止めるために平常心を保つことがこれほどまでに難しいとは知らなかった。



――――


「ここ俺のお気に入りの店なんです。食事は美味いし酒の種類も豊富だしなにより大きい窓から博多全体が見えるのが接待とかにもぴったりで」

お互い翌日は珍しく休日、ということで仕事終わりの夕食にビルの最上階にある焼き鳥の店に来ていた。

「それじゃ、これとこれ、あー、あとここからここまで2本ずつ」

慣れた様子で注文をする啓悟を見て、私はそわそわとしていた。
ここはもしやヒーロービルボードチャートJPの後にエンデヴァーと昼食を取っていた(正確にはこれから行く)ところでは?チームアップミッションでは出久と勝己も連れてきていたはず。

広い座敷に、眺めの良い大きな窓。啓悟の言うとおり、そこから博多の夜景と月がよく見えた。

「私、お酒はそんなに強くないの知ってるでしょ?」

「この焼酎はバリ飲みやすいんで。良いヤツなんで味見だけでもどうですか?」

いつもはそんなことをしないのに今日の啓悟はなんだか強引だった。
お酒が進むようなアテをたくさん頼んで、メニューの中から一番口当たりが良いと言われた焼酎を頼んで煽ってくる。

「うーん、そこまで言うなら少しだけ」

本当に彼は口が上手い。これも公安の訓練の賜物かな、なんて思いながら次から次へと焼酎を含んでいたら自分でもふわふわしているのが分かるくらいに出来上がってしまっていた。
質の良い焼酎であれば悪酔いしづらいというは本当なのだろうか。

「この焼き鳥おいしいねえ」

へらへらと笑いながら砂肝を頬張っていると啓悟が後ろ手に個室の扉を閉めた。

「そろそろ、かな」

「どうしたの?」

少しだけ含み笑いを込めた顔にほんの少し身構えた。こう言う時はなにかしら企んでる時だ、といつもなら判断ができたはずだったが今の私にその力は残っていなかった。

「隠し事、してるでしょ」

「えっ!?な、なんで?」

「名前さんのことならなんでもお見通しですよ」

彼が落ちた羽を1枚拾い指先でくるくると回しながら、目を細める。

ぎくり、と一瞬鞄に目をやったその視線を彼は見逃さなかった。




――……




視線がほんの一瞬、扉側に置かれた鞄に向けられたことを俺は見逃さなかった。
先週から名前さんの様子が明らかにおかしい。そわそわしたかと思いきや落ち込んでいるような時もあって、何度もさりげなく理由を探ってみたのだが全く取り合ってくれない。なんでもないよ、大丈夫だよ、の一点張りだった。

名前さんが何かを隠すことはほとんどない。俺が心配をする素振りを見せれば、申し訳なさそうにいつもなら正直に口に出してくれるはずなのに。

おかしい、

自分は楽観的だと思っていたのだが、名前さんのことになるとてんでダメだ。
悪いようにしか考えられない。そこまでして隠すなんて、俺にとって都合の悪いことなのだろう、そうとしか考えられないと思い続けた結果、ついに今日最終手段に出た。

短絡的で本当しょうもない方法だとは自分でわかっていながら、名前さんに強いお酒を勧めた。

強くない、とは口で言うものの彼女が潰れたところを見たことはない。それでも美味い食事とお酒で口を滑らさんかな、と期待していたがやっとその時がきた。正確に言えば、目は口ほどに物を言う、だが。

「俺、知ってるんですよ。この羽のおかげで耳はすごく良いんで」

カマをかけてみた。わざと落として拾ってみせた羽を指先に持ってその先を鞄に向けながら。

目を丸くして途端に顔を曇らせて俯く彼女に、自分は気づかれないようにごくりと唾を飲み込んだ。
きっと悪い知らせだ、また元の世界に戻るとかそんなところの。

「えっと……引越しをしようかと思ってたんだけど……」

名前さんの口から出た言葉は予想とはまた違うものだった。この世界からいなくなってしまうわけではないことにほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、この家を出ていくという話に俺は少しだけ苛立った。

「いつまでもお世話になるわけにはいかないかな、と」

「名前さんは気にしなくて良いんですよ。前にも言ったでしょ、恩返しだって」

俺は努めて冷静に優しく穏やかな口調でそう言った。笑みをきちんと浮かべられているだろうか。どうしてそんな大事なことを1人で決めてしまうんだろうこの人は。

「俺はあなたに返しきれないほどの恩があります」

恩返し、という言葉に自分の本当の気持ちを隠して。悪いのはわかってるんだ、でもまだ彼女の気持ちが俺に追いついていないだろうから。

「それに食事を作ってくれるという約束はどうするんですか?」

自分でもほんにずるい言い方やな。

「それは……」

名前さんが約束を破るはずもないから、きっと近くに住んで毎日作りに来るつもりだったのだろう。
そこまでするなら、俺の家にずっといればいいのに。部屋は余ってるし、事務所までは近いしなんの不便もないでしょ。


「どうして急に、」

言葉が詰まってしまいそうだった。先程まで苛立っていたはずだったのに、今度はぎゅっと胸が痛くなった。
俺も酒が回ってきたのかもしれない。こんなところで、こんなことでは泣かん。泣かんけど、無性に悲しみが襲う。なんなん、これ。


「啓悟、あのね」

視線をあげ、名前さんに向けるといつの間にか鞄から出したのか賃貸物件の載ったビラを目の前に出していた。

「ここなんて、近くて良いと思ったんだけど」

首を傾げ、それをテーブルの上に置いた。

「やっぱり、啓悟の家にまだいたいなって。引越しは辞めようかと思ってたところだったの」

「なして?俺のためですか?」

俺が寂しがるから、悲しむと思ったからですか?そう聞く前に名前さんが答えた。

「私が啓悟と離れたくないと思ったから、って言ったら……どうする?」


そんな、どうする、なんて。

「名前さん、あの」

へらと笑う彼女の表情からはそれが真意なのかそうではないのか、わからなかった。公安に培われた交渉術だとか観察力だとか、どうしてこういう時に発揮できないんだろう。
世界で一番大切な女性を目の前にして、俺は本当にただの普通の人間に成り下がってしまっている。なににも動じないと思っていた心臓がどくんと跳ねる。

「……俺はっ……え、名前さん?」

どう言葉を返せばいいか考えていたのはたった数秒だったが、彼女にとっては長い数秒だったようだ。
座ったまま、頭が船を漕ぎ始めている。

「名前さん、大丈夫ですか?」

「えっ?ごめん、ちょっと眠たくて……」

「それならもう帰りましょうか、俺達の家に」

テーブルに突っ伏してしまった名前さんに自分のジャケットをかけて、早々に会計を済ませる。
店員には心配されたが俺は慣れた手つきで彼女を抱えた。これで何度目だろう、こうやって抱きかかえて飛ぶのは。


名前さんには……彼女には隠し事をされたくないと思っているのに、俺は一番強いこの想いをひた隠しにしている。
恩返しという都合の良い言葉で覆い隠して。
どうか、名前さんが俺のそばにずっと……一生居てくれますように。
いや、そんな生ぬるい考えじゃない。絶対に離さん。どんな手段を取ってでも、と思っていたのに。

「先に言われるなんて情けなか」

腕の中で静かに眠る彼女を見て苦笑を浮かべた。
彼女が俺に向ける想いはどんなものなのか、俺と同じなら一番良いけれど家族愛のようなものでも、今はそれでも良い。
離れたくない、その言葉をもらえただけでこんなにも気持ちが高揚とするなんて、本当に俺は名前さんに弱い。

家に着き、名前さんをベッドにそっと下ろす。そして少し身じろいだ彼女の額にゆっくりと唇を近づけた。



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