うつせみは恋を繁みと春まけて。



ありがとう。

ありがとう。

あなたに、この声は届いていますか?

真っ暗な闇から私を救い出してくれたあなたに。

母と逢わせてくれたあなたに。

ずっと一緒だったから、言ったことなかったけれど。

だって、“自分”にありがとうなんて、言わないでしょ。

離れてしまうまで、気づけなかったんだよ。

ああ、今日もまた、あなたに声が届かない。






「リン」

呼ばれて、私はゆっくりと振り向く。

「一狐様」

狐なのに、その表情が豊かで、私は思わず笑ってしまった。

「一狐様、私、もうすぐあの子に返せるんです。ようやく、この体を返せるんです。こんな嬉しいことはないのにどうしてそんなに思いつめた顔をしていらっしゃるのですか」

人間だったらしかめっつらをしているのが目に浮かびそうな一狐様のふさりとした頬に顔をよせて、私は笑う。

とても、穏やかな気持ちだった。

ただ、すこうし。
恐怖も畏れも越えた心に、何とも言えない切なさがひとさじ。

やはり、自分が世界から消えるというのは寂しいものなのだろう。
どんなに生きたって、幸せな人生を全うした人だって、この想いを失くすことは出来ないんだろうな、とぼんやり春を過ごしながら悟った。

それでも。
私がこの世界から消えて悲しむ親しい人がいないということは救いのような気がする。
そんな人がいたら、きっと私はこんな道は選べなかっただろう。

「私が言えたことではないのだが…本当に、良いのか?」

一狐様が小さく喉でうなるように尋ねた。

私は相変わらず一狐様の気持ちの良い毛並に顔をうずめて口元に笑みを浮かべる。

「一狐様は、私がこの世界から消えたら…悲しみますか?」

「…私は。生と死は、この世界の定めなのだから否定する気はない」

その答えに、一層私は笑みを深くした。

「ふふ。だから、一緒にいたのが一狐様達で良かったと思うんです。人間や妖怪という存在は生に執着するものなんですよ。親しい人のものには特に」

神や、それに近い存在というのは考え方が違うと私は一狐様に会ってから感じていた。

どこか、心が遠いのだ。

悪い意味ではなく、世の理という流れに身を任せているような感覚。

産まれて生きて、死んで…そしてまたどこかに生れ落ちる。

それを客観的に見ることが出来るのだ。

感情の昂りが激しい妖怪や人というものは、その流れに抗おうとする。
一つ一つの生を自分の中に抱え込もうとする。
でも、だからこそやはり私はそういう人達が愛おしくてたまらない。

そんな人達を悲しませたくはなかった。
それは、やはり私もそういった人達の生を抱え込むからなのだろう。

一狐様と出会って、初めてそんなことを考えたのだ。

だから、道を決めた私は人と関わるのをやめた。

それが正解だったのかどうかなんて、もう分からないけど…今、私がこんなに心穏やかでいられるのは一つの結果なのだろう。良くも悪くも。

「もう、言えないかもしれないので言っておきますね。一狐様、今まで本当にありがとうございました。二狐様にもお伝えください」

ぎゅっと抱きしめた一狐様の毛並からは暖かな日差しのような香りがした。




「…だから、嫌だったのだ。人や妖に関わるのは」

忘れたはずの心の痛みが鈍く響くから。

そう苦々しげに溜息をついた一狐の呟きは、懐刀を握って立ち上がった##name_1##に届くことはなかった。






羽衣狐が動いた。

その報せは一狐様が届けてくれた。

二狐様は羽衣狐を見張っているらしい。

そして、やはり羽衣狐は蘇らせられたお母さんに憑いたという。

羽衣狐が依代に憑くのは計画としてなければならない。

もう、躊躇いなどない。


そのはずだった。その姿を見るまでは。





「…っ、なん、で…」

山吹が咲き誇る神社で、私は空を仰ぐ。

覚悟と刀を手に向かったそこにいたのは、確かにお母さんだった。
しかし、その姿は幼子のもので。

無邪気に笑うその手は、父に握られていた。

予想よりも晴明側の計画の動きが早かった…というよりも隙がなかったのだ。

一狐様達が羽衣狐の妖気を察して動いたのが今朝のこと。
まさか、憑いたその日のうちに父と接触するとは考えていなかったのだ。

父がお母さんと会ってしまうことなど、計画にはなかったのだ。

どうする…、父の前でお母さんを殺すことなどできまい。

もちろん事情を話すつもりもない。
羽衣狐との因縁はここで断つのだ。


しかし…羽衣狐は、依代の心が闇に塗りつぶされたとき体を奪い、この世に『現れる』

それはいつ…?
お母さんの心が闇に堕ちるときは…。

心の優しい母の心が闇に呑みこまれるとき…それは、いつ、どうやって…?

そんなのここに父がいることで、起こる事態は予想できる。
私が、想像出来うる限り最悪の事態を思い浮かべれば良いのだ。

だけど、手段が分からない。

まだ闇に呑まれていないあの体は確かにお母さんのもののはずだ。

お母さんが、どうしてあんなにも恋い慕っていた父を殺せると言うのだ。

その上、私は父が殺されるような事態は阻止せねばならない。

そういえば母はすでに父に何かを話してしまったのだろうか?

そもそも、何故あのような姿に?


分からないことばかりだが、後手に回るわけにはいかない。

常に近くで状況を把握しておかねば…、そのためにはどうすればいい?


予想外のことに混乱する私の意識を戻したのは、足元への小さな衝撃だった。

「リンお姉ちゃん!」

満面の笑みを浮かべるリクオを見た私に残された選択は一つしかなくなったのだった。




うつせみは 恋を繁みと 春まけて 思ひ繁けば 引き攀ぢて 折りも折らずも見るごとに 心なぎむと 茂山の 谷辺に生ふる 山吹を

この世では何かに恋してばかりいて、春が来て思いが絶えないので、折っても折らなくても手にとって見れば心が和むだろうと草木の茂った山の谷に生えている山吹を引き抜いてみたけども…(前句)




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