短編

散った純潔、秘めた純情。(1/2)


 ある処に、一人の女が住んでいた。
 少女というには大人びていて、一人前の女性というにはまだ幼さを残した容貌。二十代前半のその女は、町ではなく、小高い丘の上に住居を構えていた。
 赤、白、ピンク。秋になれば色とりどりのコスモスが咲き乱れる、美しい丘だ。
 女にはある習慣があった。毎年、この丘にコスモスが咲き誇る季節になると、決まって花畑を見つめて想いを馳せる。
 一面のコスモスの向こうへと消えた、愛しい男の帰りを待つのが、彼女の悲しい日常だった。


╋ ╋ ╋

 それは、ある嵐の晩のことだった。
 大粒の雨が窓を叩き、ゴゥゴゥと唸る風の音と大地を震わすような雷鳴が轟く、危うげな夜。そんな大自然の大合唱に混じって、微かだが、確かに扉を叩く音が梦月の耳に届いた。
 町から離れた場所で暮らしているため、最後に来客が訪れた記憶すら曖昧な梦月。それも今、外は荒れ狂うような天候だ。一体誰が……。
 こちらの不安を知ってか知らずか、再度響くノック音。今度は少し、強めの音だ。……仕方ない。覚悟を決めた梦月は、そっと控えめに扉を開けた。

「雨宿りも兼ねて一晩宿をお借りしたい。……泊めてくれるかな? お嬢さん」

 玄関先に佇む男を見て、梦月は元から大きな瞳を限界まで見開いた。
 吹き荒れる豪雨の中立っていたのは、白衣を纏い、だらしなくネクタイを緩めた男。知らない出で立ちなのに、何故か見覚えのあるその顔は……。

「――……烏哭さん?」

 唖然として声を漏らす梦月を一笑した男は、満足そうに正解と頷いてみせた。
 烏哭三蔵法師。梦月が幼少時に一度出会ったキリだったその男の名を思い出せたのは、彼が約十年前と同じ登場の仕方をし、同じ台詞を吐いたからに他ならない。
 そうでなければ、着衣も髪型も変わった男を見て、一瞬では判断出来なかっただろう。

「……びっ、くりした。……って大変! びしょ濡れじゃない! 今タオルと着替え持ってくるから、取り敢えずあがって!」

 そして、十年前と同じ対応を見せたのは梦月も同じだった。頼られたら嫌とは言えないのが、梦月という女の性分だ。
 あの時もそう。烏哭が三蔵法師であることは関係なく、ただ突き放す訳にはいかないという義務感から家へ招いた。

「……お坊さん、やめたの?」

 濡れた男にタオルを差し出し、何の気なしに訊いてみた。
 三蔵法師などという高貴な職をそう簡単に放棄出来るのかは不明だが、この男なら何でもアリ、というのが梦月の中の印象だった。

「そういう訳じゃないんだけどね。今は少し休業中」
「ふーん? 新しいお仕事はお医者さまか何か?」
「化学者だよ。ま、似たような事もするけどね」

 話しながらも、烏哭は直ぐ様渡した服に着替え始めた。水を吸って重たそうな白衣が床に落ちる。
 成人男性の生着替えを直視出来る程の免疫を持たない梦月は、次々と落とされる衣服を用意した洗濯籠に集めることでその場を凌いだ。

「ちょっと老けた気はするけど、あんまり変わらないね」
「そ? 梦月は綺麗になったじゃない。昔から可愛かったけど見違えたよ」

 真っ黒なタートルネックに着替えた烏哭を改めて見ると、記憶の中の彼と変わらない気がした。タオルで拭かれた髪はセットが崩れて下ろされていたし、黒が異様に似合うところも、夜のような双眸も変わらない。
 まだ十を少し越えたばかりの頃、両親を亡くして一人暮らしを強いられていた梦月の元へ、今日みたいに突然現れた彼。一宿一飯の恩義――実際のところ優にひと月は居座られた――と称し、生きるのに必要なあらゆる情報を与えてくれた。
 そんな、言わば恩師のような男に容姿を褒められ、梦月は先程とは違う意味で頬を染める。

「もう……やだ、烏哭さんたら。褒めても特別な持て成しはできないよ?」
「昔みたく泊めてくれるだけで充分。それに、本心なんだけどなぁ」

 思えば、烏哭は昔からこうだ。まるで天気についてでも語るように、特別な意図もなく褒め言葉の類を口にする。
 それに対し、変わったのは梦月の方かもしれない。昔なら、彼に可愛いと褒められるのはこの上なく嬉しいことだった。でも今は、何故だか気恥ずかしい。

「それにしても、梦月が変わらず此処に住んでてくれて助かったよ」

 やはり特別な意味はなかったようで、話題は簡単に他へと移った。梦月も内心ホッとしながら、視線をそっと窓へと移す。

「……酷い嵐だものね。今日はお仕事でこの辺りへ?」
「ま、そんなところかな。梦月はあれからもずっと一人暮らし?」
「……ん。今はまた、一人暮らしかな」

 少しだけ、ギクリとした。だけどその少しが烏哭という男に伝わらないはずもなく、目が合った彼は首を傾げる。

「今は?」

 こういう時、彼のことを苦手だと思う。探るような、見透かすような瞳に見つめられると、話す必要などない事柄でも、話さなければいけない気がしてくる。

「――一時期ね、彼と同棲してたの。もう、三年も前のことよ」
「ああ、だから男物の服があったんだね。……その彼とはもう別れたの?」
「…………」

 話せば楽になるとはよく言うが、全ての悩みがそうという訳ではない。特に、自分の中で思い出として昇華できていない悩みというのは、思い出すだけ辛くなるものだ。

「――別れた訳じゃ、ないけれど」

 だけど、一旦口をついて出た言葉は止まらなくて。気付けば梦月は、全てを烏哭へと語っていた。


 梦月の彼というのは、妖怪だった。
 コスモス畑を抜けた先の小道に、傷付いて倒れていた妖怪の男。当時はまだ、妖怪は恐怖の対象ではなかったし、相変わらず独り身でお人好しだった梦月は、そんな男を家へ運び手当てした。
 目を覚ました男は殺気立っていて大変だったが、献身的な梦月の態度に次第に心を開いていった。
 聞けば男は、梦月と似たような境遇だった。幼くして両親を亡くし、盗みをしながら生活していたところ、遂には町を追われたという。
 初めは同族意識から始まった恋だったかもしれない。しかし、ふたりが互いに惹かれ合うのに、然したる時間は掛からなかった。
 ぎこちないながらも、晴れて恋人として結ばれたふたり。それからの日々は、それまで生きてきた時間の中でも際立って幸せに満ちていた。しかし、そんな永遠だと感じる日々も、然して長くは続かなかった。
 妖怪の狂暴化。徐々に自我が失われていく感覚に恐怖した男は、愛した女を傷付けることを恐れ、コスモスの向こう側へと消えていった。
 いつか、また自分に戻れたら帰ってくると。保証の無い約束と、キスを残して――。


「――可哀想に。梦月はまだ、その妖怪のことが好きなんだね」

 いつの間に席を立ったのだろう。話し終えた時、梦月は烏哭の腕の中に居た。

「可哀、想……?」

 言われた言葉を反芻する。昔、怖い夢を見てそうされたように、背中を撫でる烏哭の手からは、ある筈のない優しさが伝わってきた。

「君は綺麗だしまだこんなに若いのにさ。たった一人の男の為に身を焦がして……。ねぇ、一人で待つのは辛かったでしょ? もう、我慢しなくてもいいんだよ」

 気が付けば、涙を流していた。
 泣いたのなんて、いつ振りだろう。丘の上の一人暮らしでは、良くも悪くも日常は安定している。
 もしかしたら彼と別れて以来、初めて流す涙かもしれない。
 そのくらい、彼の言葉は梦月の琴線に触れたのだ。

「僕が忘れさせてあげる」

 ふんわりと、煙草の味が広がった。何が起きたのか考えるよりも先に唇が離れる。

「――ッ!」
「ずっと寂しかったんだよね?」
「烏哭、さ……」
「一宿一飯の恩義=Bね、それとも僕じゃ、役不足かな?」

 嗚呼、これは救いの手なんかじゃない。きっと、悪魔の囁きだ。


╋ ╋ ╋

「――にしても、まさかハジメテだとは思わなかったな〜」

 事が終わり、私の髪を梳きながら烏哭さんが言う。
 あれから、烏哭さんに襲われ……もとい、私たちが初めて身体を重ねてから早いものでもうひと月が経つ。
 丁度、十年前と同じくらいの間、烏哭さんは我が家に居座っていた。部屋中に広がる煙草の香りにも、成人男性の裸体にも慣れた頃だ。烏哭さんが、事も無げにそんなことを言ったのは。

「……それ、一ヶ月前にもベッドで聞いた」

 それ、とは勿論、先程の言葉だ。
 失礼なのか何なのか、とにかく烏哭さんは、押し倒した私が生娘だと知って驚いたらしい。

「だってさぁ。男と同棲してた女の子が、まさか処女だなんて思わないじゃない?」
「しょっ……! もう! だから彼とは至って健全なお付き合いをしてたんだってば!」

 いろんなことに慣れた私でも、烏哭さんのストレートな物言いには相変わらず慣れない。
 情事中にも思うのだけれど、もう少しオブラートに包んでほしい。第一、彼と同棲していた時は、まだ十代だったのだ。
 そんな言い訳をごねてみたところで、馬鹿にされるだけだから言わないけど。……今だって、ほら。

「健全ねぇ……。それが今では、こ〜んなえっちになっちゃって」
「ひゃっ! も、やだ、やめてよ烏哭さんっ」

 烏哭さんの手が胸へと伸びて、事を終えたばかりの身体は敏感に反応してしまう。同時に身体を重ねられれば、もう抵抗する術はなかった。

「綺麗だからつい」
「……綺麗だったら押し倒すの?」
「僕は健全な男のコだからね」
「もう……」

 男の子なんて歳じゃないクセに。エッチなのは烏哭さんの方じゃないか。
 頭ではそんな悪態を吐いても、結局は流されて抱かれてしまう。
 やっぱり私はエッチな訳でも、健全な訳でもないんだと思う。ただ、狡くて卑怯なだけ。ただ、彼に甘えているだけ。
 そして、どうしようもないくらい、彼に溺れてしまっているだけ。

「ん、ン、アっ」
「ハ、梦月……っ」

 細く見えて力強い腕も、意外と逞しい胸板も、香水みたいに香る彼の匂いも、私を呼ぶ薄い唇も。
 全部、全部、どうしようもないくらい、大好きで、愛おしい。

「――好き、烏哭さん……っ」

 それは、きっと言ってはいけない言葉。昔から、一つの処に留まる人ではないと知っていたから。
 だけど、そのクセ常に暇潰しと称して依存出来る何かを探しているようにも見えたから。
 昔から、よく、見てたから。
 だから思わず、言ってしまった。恋人のように抱かれる度に、胸の内で燻っていた、儚い想いを。

「ふ、ククク……ッ」

 突然、突き上げるような律動が止んだ。不自然な笑いを疑問に思うも、直ぐにその暗闇めいた瞳に射抜かれて息を飲む。
 キスされている訳でもないのに、呼吸さえ奪われるような錯覚に陥る。

「好き、ねぇ」
「烏哭……さん?」
「ねぇ、彼と僕、どっちが好き=H」

 それは、好き、という言葉そのものを嘲笑うかのような問い掛け。そしてまた、私は内心でギクリとなった。
 きっと今回も、烏哭さんはそれを見逃してはくれない。

「君が僕と寝て彼を忘れられたなら良かったけれど。……そうだなぁ。そろそろ種明かしをしてあげようか」

 身体は繋がったままなのに、心は何処までも遠いようで滑稽。そんな考えまで見透かしたのか、私の上から烏哭さんが退いた。
 離れないで、なんて言える筈もなく、私の口から漏れるのはこんな時でも甘い喘ぎだけ。

「ん、……種明かし?」
「そ。君は今の僕を……いや、昔から僕のことなんてな〜んにも知らないでしょ?」

 そんなこと……。思ったけど、これも言えなかった。
 確かに私は、烏哭さんから与えられた情報しか知らない。動作一つを取ってしても、この男の危うげな輪郭からは真実なんて見出だせない気がした。

「僕ね、数年前からあるお城に仕えてるの。そこで大きな研究に携わってるんだけどね。三年くらい前からかなぁ。僕達の行う実験の影響がこの世界に現れ始めたのは」
「三、年……? まさか……」

 いつになく楽しげに語る烏哭さん。その口調はやはり天気でも語るみたいだったけれど、三年前という単語に私は何か引っ掛かりを覚えた。
 だってそれは、私と彼が引き裂かれた時期と一致するから。
 ……じゃあ何? まさか、妖怪達の身に起きている異変に関わってるのが、烏哭さんなの?

「世間じゃ異変なんて言われてるけどね、そもそも異変なんて原因が無ければ起こり得ない現象なんだよ」

 可笑しそうに語る烏哭さんを、私は初めて怖いと思った。先程目で射抜かれた時よりも確かな恐怖が私を襲う。

「一度自我を失った妖怪は二度と元の人格に戻ることはない。……だから言ったでしょ? 可哀想にって」

 伸ばされた手が、顎を掬う。視線が絡む。
 嗚呼ほら、やっぱり。

「何も知らず僕のことなんか好きになっちゃって。いい夢は見れた?」

 私に向けて伸ばされたこの手は、私を救ってくれる腕なんかじゃなかった。

「可愛い梦月。だけどね、もう飽きちゃったから。そろそろ起きて、現実を見ようか」

 怒りとか、憎しみさえ此処には無くて。
 ただ、私と過ごした日々を、彼がゲームとしてしか捉えてなかったのだということが悲しくて。
 そして、最後の最後まで、彼よりこの非情な男のことを考えて泣く私は、やっぱり卑怯で醜いと思った。

「サヨナラ。なかなか楽しかったよ、ウサギちゃん」

 まるで最初から、それこそ全てが夢だったのではないかと感じるくらい、その男は融けるように姿を消した。
 去り際に、苦い煙草味のキスを残して。


╋ ╋ ╋

 ある処に、一人の女が住んでいた。二十代前半のその女は、町ではなく、小高い丘の上に住居を構えている。
 赤、白、ピンク。色とりどりのコスモスが咲き乱れる丘なのだが、その花もひと月程前に起きた嵐で殆どが無惨に散ってしまった。
 一面に広がる、枯れて萎れた花を見て、女は思う。

 コスモスの数ある花言葉の内の一つ乙女の純潔=Bまるで自分のことのようだ、と。

 ずっと待っていた彼にだってあげなかった純潔を奪われた。くれてやった。どちらでも同じだけれど、儚く散った。
 嵐のように逃れ難い強大な力の前に傾倒して、酔いしれて。
 ……でも、たった一つだけ、そんな男にだってバレずに隠し通した真実もある。

 烏哭さん、貴方はね――。

「――私の初恋、だったのよ」

 何も知らない、知ろうともしなかったのは貴方も一緒。
 幼心にずっと貴方を見て追いかけていたあの頃の私は、間違いなく貴方に恋してた。
 それを告げずに我慢した結果、もう一度貴方を引き寄せたのなら、隠し通したこの想いも無駄ではなかったのかもね。

 今となっては、全てが泡沫の夢なのだけれど。


散った純潔、秘めた純情。

(力強く生き残った秋桜を見て思う)
(もう一つ浮かんだ花言葉は、乙女の――)


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