たった一つの大切なこと


 遠くで音が聞こえる。人の、大切な人達の声。どこか忙しない空気を纏ったその音を拾いながら、一人蝮は寝床についていた。 
 明日は柔造との結婚式であり、人生で一番嬉しい日となるはずだった。右目も、祓魔師として明陀に尽くすことも出来ないけれど、そんな私でいいと言ってくれた柔造がいた。私がいいと、父様に言ってくれた。それだけで十分だった。小さい頃からずっと好きだった柔造が。彼の優しい子供っぽい笑顔が目に浮かぶ。面と向かって言えるのは随分先になってしまうだろうが、彼の全てが大好きだ。
 まるで普通の女の子のようだと蝮は小さく笑った。


 裏切り者と呼ばれる事を覚悟して藤堂に加担した時も思い浮かんだのは柔造の笑い顔だった。私と違って友達がたくさんいて、明るくて。私にないものをたくさん持っている。憧れと一緒くたになった恋慕の情を伝えるつもりは更々なかったけれど、いつも心の支えにしているのは彼だった。

 幸せ、なんだろうと思う。あまりにもストレートなプロポーズをされてから数日のうちにとんとん拍子に話が進み、ついに明日結婚式を迎えるというのに現実感がない。あんな事件があったのだからと派手でなく、身内だけの静かな式をあげるつもりだがそれでも準備が多々の残っているらしく未だに駈けずり回っている柔造に申し訳なく思う。自分も手伝うと言ったのに病人は寝ていろと寝所に押し込められてぼぅっとしているとどこか意識が飛んでいってしまう。小さい頃好きだった絵本のように。
 もしかして今自分は死んでいて、これは彼と一緒に見ている夢なんじゃないかと疑ってしまうぐらい柔造の好意は予想外だった。喧嘩ばかりで顔を見合わせれば嫌味ばかり。そんな状態で好かれていると思えるほど蝮は自意識過剰ではなかったし、思わせぶりな素振りも柔造は一切見せなかった。

 ため息を、また一つ。

 ため息を吐くと幸せが逃げるらしいが一体この言葉に出来ない喜びをどうしようか。勿論不安もある。私と一緒になることで柔造まで悪く言われたら、私に飽きるんじゃないか、これは夢なんじゃないか。
 言い尽くせないぐらいの不安。それを吹き飛ばしてくれるのは大好きな彼の笑顔なのだから、自分でも女々しいと思う。心臓のあたりがきゅうと縮むようなどきどきが一人の部屋で余計に大きく感じた。春の暖かい空気も、嗅ぎ慣れた和室の匂いも。何もかもが新鮮に見える。柔造がこれから一緒にいてくれるという安心感だけで、心臓は飛び出そうなくらいなのに頭では当たり前のようにそれを甘受している。自分でも意味の分からない感情が蝮を包んでいた。
 好き。音を出さずに唇だけ形作ってみればとても重たい言葉のような気がした。
 錦や青や父様達を好きなのとは違う、好き。たった一人、大切な人にあげる好き。その言葉を彼が自分にも投げかけてくれていて、自分も真っ直ぐにはあげられないが返していて。それはとても単純なようで奇跡のようだと蝮は思った。
 こんなに溢れている人の中で自分を選んで相手を選んで。重なった運命のこれからはずっと一緒で。世界で一番凄い奇跡はきっと愛だと、誰かを愛することだ。ロマンチックな気障な台詞。それを信じてしまうくらい、蝮は幸せだった。


 明日、結婚式で泣いてしまうかな。
 青や錦はきっと泣くんだろうな。
 父様はきっとこっそりと袖を濡らしてるんやろなぁ。
 八、養父さんは多分、苦笑して金造やら柔造を叱るんだ。
 あとの皆は祭り騒ぎだ。


 ずっと欲しかったみんなで笑える未来。明陀の為に一人走った道も無駄ではないけれど、一番欲しかったものが手に入るこの道が、一番幸せで、一番大切なのだ。



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