すがってはくれないの
走りかけた身体を無理矢理抱きしめて、一回り以上小さい彼女を腕の中へ閉じ込める。うるさい心臓が短く血液を巡らせていた。耳が痛いくらい、沈黙が流れる。
「……離してや」
「あかん」
「私、裏切り者なんや。和尚様も明陀の皆も傷つけてもうた」
だから死なせてや。
そう言った彼女の声は震えてなどいなかった。芯が通った、凛とした彼女の声。まるでいつも喧嘩を吹っかけてきている時のような気安さで蝮は俺の腕を押した。白い細腕で、女とは思えないほど力強く。
自分がどんなに情けない顔をしているか、鏡を見なくても分かった。裏切り者、なんて彼女をここまで追い詰めて気づいてやれなかった俺も同罪だ。
「皆、お前がちゃんと謝って許してくれる相手とちゃうん」
頭を下げて、後始末を手伝って。皆の甘さに漬け込むのはいけないことだろうか。きっと皆許してくれるんじゃないだろうか。誰も彼女の苦しみを分かってやれなかったのだ。俺も。だからこそ、お互い様なんじゃないか。
「柔造」
幼子をあやすように蝮は首を振った。力が抜けていってついに蝮を離してしまう。わかっている。わかっているよ。でも蝮に死んでなんて欲しくない。折角生き延びれたのに。ずるい事をしている自覚はある。でも掴んだ着物の裾を離す気にはなれなかった。
珍しく名前を呼ばれた意味も、わからない子供じゃないのに。
「今回の事件で、死者がでてしもうてんねん。意味、わかってくれや」
怪我をするのはいい。傷はいつか癒えるし、生きているなら贖罪することができる。
でも死んでしまうのは違う。もう二度と帰ってこないのだ。会って話して、笑いあう。そんな当たり前のことすらできない。
ちらりと矛兄の顔が頭をよぎった。彼が死んでしまった時、俺は何をしただろうか。天に向って嘆き、恨んだ。何故矛兄なのかと。誰より志摩の跡継ぎとして立派たらんとしていた人だった。人の痛みが分かる人で、自分が傷つくより周りが怪我をした方が悲しそうな顔をした。どんなに分からないように隠れても必ず見つけ出して俺たちの頭を撫でてくれる人。そんな人を、あの夜は一瞬で攫っていったのだ。
無意識に唇を噛む。血の味がするそれをどこに吐き出せばいいんだ。
「……青い夜の事は誰も恨んでへんやろ」
誰もあの夜の話をしない。まるで無かったみたいに。それでも忘れているわけでは絶対なくて。ふとした夜に、飛び起きた朝に思い出すのだ。あの夜が攫っていったものを。目を閉じればありありと思い出せる全てを忘れることなんて出来ないのだから。
蝮は優しく手を重ねた。低めの体温が掌から伝わる。子供体温なんて馬鹿にされた過去が、何故か凄く遠かった。
「違うやろ。柔造」
いっそ泣いてくれればよかった。泣いて、頼って、すがってくれたら俺も一緒に何処へでもいけた。だけど蝮は一滴も涙を零さない。零してしまったら最後、周りを巻き込んでしまうから。同情されてしまっては、そいつまで非難されてしまうかもしれない。そんな蝮の考えが手に取るようにわかる。彼女が泣けば、俺は彼女のためにいける。それくらいには蝮を愛していた。
俺たち、特別じゃなかったんか。虚しい自問自答。蝮の幼馴染は俺で、俺だけは彼女の特別じゃなかったのか。
白く流れた髪を束ねていた髪留めをはずし、それを押し付ける蝮。シンプルで実用的なそれはとても見覚えがあった。
「……残酷やんなぁ」
誕生日プレゼントだと放ったそれは、自分の手に返されるととても下らないものみたいだった。彼女がつけていなければ、途端に価値が下がったような気がするそれを捨てることもできない。彼女のはにかんだ顔が鮮明に思い出せて、張り裂けそうなくらい痛い。俺の残した証を、彼女を愛した証を頂戴。そんな心の声まで読むなんて、悪趣味だ。
ゆっくりと深呼吸して蝮は笑う。俺が見た中で、一等綺麗な笑顔で蝮は言う。
「柔造、大好きやで」
なんて残酷なんだろう。こう言われてしまっては彼女を忘れることも出来ないじゃないか。風化させて、過去にしてしまうことも。
最初から忘れる気なんかないくせに、蝮のせいにする。じゃないと、この流れていく涙を止められない。彼女の代わりにだなんておこがましい言い訳を使えない。
「ああ、俺もやで」
最初で最後の告白は切った自分の血の味がした。
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