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「――以上です」

薄暗い講義室をゆいいつ照らす手元のスマホから顔を上げ、眼鏡の若い男を見た。壁に凭れながら顎に手を添え、思案する様子を見せる彼は、ナマエからの報告を整理しているのだろう。作戦の下積み段階と言えるナマエの情報は大したものじゃないが、報連相の基本は口頭伝達。情報の漏洩を回避するため、あらゆる危険性を考慮した結果だった。
報告のメモに使っていたデータは既に消した。呼び出された際のメッセージも忘れずに消しておく。削除、削除、削除――。慣れたように指を滑らせるナマエは、突然挙がった名前に思わず手を止める。

「……え?」
「安室透だ。なんだ、知ってるのか?」

一週間前にコーヒーをご馳走になりました、とは言えず、事の詳細を一から説明した。喫茶店の席を譲ったこと、学生証を無理に預かられたこと、勤務先に出向いたこと。ナマエに、少なからずの好意を持っていること。淡々と口にしたが、想像以上の気恥ずかしさに目を合わせられなくなる。思わず口元を隠すナマエに、彼は笑った。

「ホー……。君は、偶然出会った彼に口説かれているという訳か」
「口説かれ……、いえ。そういう訳じゃ……」
「どちらにせよ、使わん手はない」

彼は恐らく、確信犯だ。ナマエが彼の言う「手」を嫌厭することをわかっている。わかっている上で、その「手」を使えと言っている。頭が痛くなるのを感じながら、ナマエは溜め息を吐いた。

「色は苦手です」
「謙遜するな。……本国の例の大捕物、ターゲットを骨抜きにしたそうじゃないか」
「Don’t be ridiculous!」

完全に遊ばれていることは自覚していたが、一喝せずにはいられなかった。悪びれのない謝罪を口にしながら、意地の悪い笑みを浮かべているのが証拠だ。彼はナマエのことを年端のいかない小娘だと思っている節がある。目的のために対象を落とせ、誑かせと命令するくせに。
講義室の机に腰掛けるナマエと距離を詰めるように、彼は凭れていた壁際から歩み寄る。

「安室透――いや、バーボンは組織随一の洞察力を買われている要注意人物だ。動くなら早い方がいいだろう。バックアップが要るなら適宜要請してくれ」
「……わたしのことを可愛い女子大生だと思っていてくれるうちが華ですよ」
「方法は君に任せる。今から話すことは、あくまでも俺の考えだが……」

一層、落とされた声。耳に全神経を集中させなければ聞き取れないくらいの続きを、空気の震えと唇の動きから理解する。ナマエは思わず、彼の顔を見上げた。眼鏡の奥、細められていた目から深い緑色が覗く。見慣れない顔。東都大学に通うミョウジナマエの、知人の顔。
東都大学大学院工学部の沖矢昴が、ナマエを見下ろした。

「身分秘匿捜査、ですか」
「ああ。彼は俺たちと同じ立場の可能性がある」
「わかりました。……アルコールネームを貰えるの、楽しみにしてたんですよ?」

ナマエは本来、黒ずくめの組織の構成員という立場から、バーボンに接触する算段だった。薬学専攻という目をつけられ易い都内の大学院を選んだのは、そのためだ。慢性的に不足する科学研究員の候補に自ら名乗りを上げ、学会や研究室のコネクションを餌に内部へ食い込む腹積もりだったのに。運が良いのか悪いのか、事を進める前にバーボンの別の顔・安室透に出会ったものだから、ナマエの細やかな楽しみは無になったのだけれど。
スカートの皺を直しながら講義室を出ようとするナマエの背に、雑にフォローが入る。

「拗ねるな。ウイスキーならいくらでも付き合ってやる」
「その言葉、忘れないでくださいね。――赤井さん」

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