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「こんばんは」
「いらっしゃ……、ナマエさん! お待ちしてました」

そろそろ店仕舞いの準備をしようとエプロンを脱いだ直後に、ナマエは現れた。恐る恐ると言った様子に苦笑しながら、扉付近に立ち止まる彼女の手を引き、安室は奥のカウンター席へ案内する。温かかったはずの手は、雨に晒され冷たくなっていた。

「こちらの席へどうぞ」
「いえ、あの……。学生証を受け取ったらすぐに帰りますから、結構です」
「遠慮しないでください。僕との約束、守ってくれないんですか?」

残念そうに視線を落とす安室。言葉に詰まるナマエ。初対面から薄々思っていたが、彼女は押しに弱いらしい。席を譲っただけの男から手渡された名刺を受け取ってしまうし、無理に預かられた忘れ物のために見知らぬ喫茶店へ足を運んでしまう。親切な女性だと思う。同時に、無防備な女性だと世話を焼きそうになる。
結局、残念そうに見える表情の圧と掴まれた手の力強さに押され、先に折れたのはナマエだった。「じゃあ一杯だけ」と言いながら案内された席に座る彼女に、安室は複雑な気持ちになる。想像の通りに動いてくれることを、もどかしいと感じるのは何故なのだろう。
あらかじめ湯せんしたカップにデカンタから熱々のコーヒーを注ぐ。立ち上る湯気と芳香が、安室とナマエの鼻を擽った。

「安室さんって、ちょっとマイペースですよね」
「そうですか? 初めて言われました。――どうぞ、ホットコーヒーです」
「……いただきます」

ふうふうと唇を突き出しながらコーヒーを冷ます様は子どもっぽいはずなのに。伏せられた目元に掛かる睫毛の影や、白いカップに残る薄い口紅が、女性的なものだから。コーヒーの熱に浮かされ、満足気に緩んだ顔をしながら「美味しいです」と言われようものなら、変にむず痒くなるのは仕方のないことだ。意識した訳じゃない。断じて、決して。
安室は微笑みながら、コーヒーを啜るナマエに学生証を差し出した。

「昨日はありがとうございます。本当に助かりました」
「大したことはしてませんから。それに、かっこつけたつもりだったのに、学生証を忘れてきてしまって……。お恥ずかしい限りです。こちらこそ、ありがとうございました」
「いえいえ。ナマエさん、東都大学の学生なんですよね。専攻は何を?」
「薬学です。今日も午後から研究実習が……」
「ああ、だから」

距離を詰める。「え」と零れた声に構わず、右手を頬と髪の間に入れ、輪郭をなぞるように触れた。見開かれた大きな瞳の下、頬骨の周辺を労わるように親指が撫でる。鼻を鳴らすと、コーヒーと消毒液のにおいがした。

「目元にゴーグルの跡がついてる。寝る前に、冷やした方がいいですよ」
「……安室さんって」

パッと何事もなかったように離れる安室に、ナマエは暫く固まっていた。困惑が手に取るように分かる。呑み込もうとするのに呑み込めない、子どもみたいな顔をする。ほんの少しだけ、からかいたかった、それだけだったのに。芽生えた悪戯心を無視することが出来ず、安室が「僕がなにか?」と言いながら覗き込むと、微かに肩が揺れた。

「いまの、無意識ですか?」
「少なからず、僕は意識してるつもりですよ?」
「……勘違いしちゃうからやめてくださいね」
「それは残念」

半分は残っていたコーヒーを一気に飲み干したナマエは「ご馳走様でした」と頭を下げ、カウンターの学生証を引っ掴むと早々に席を立った。入店時とは別人の、迷いのない足取りに笑いそうになる。安室は追い駆けるように名前を呼び、立ち止まった彼女にお決まりの言葉を贈った。

「またのご来店、お待ちしてます」

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