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東都大学が所有する敷地内の研究棟へ入ろうとバッグの中を漁ったときだった。バッグの中、右の内ポケットに入れたはずの学生証が見つからない。立ち止まったナマエを不審に思った友人が「どうしたの?」と覗き込んでくるが、定期入れにも、財布にも、ポケットにも、目的のものはなかった。ICカードによる入退室管理システムは、言葉の通りICチップが埋め込まれた学生証がないと部屋に入ることが出来ない。はあ、と大きな溜め息を吐きながら、閉じた傘を再び開く。研究棟から離れた本部へ行き、学生支援窓口にゲストパスを貸してもらう必要があった。
友人に見送られ、浅い水溜まりを踏みつけながら、ナマエは学生証の行方を思い出す。通学用のバッグは暫く同じ物を使っているし、当然ながら校外で取り出した覚えはない。心当たりがあると言えば――。思わずバッグのポケットに突っ込んだ、一枚の名刺を手に取った。癖のない字でメッセージが添えられた、米花町の喫茶店員だと言う男の名刺。派手な容姿のくせに随分と物腰の柔らかい男性だった、と失礼なことを考えながら、馴染みの駅前の喫茶店に電話を掛ける。簡単に挨拶を済ませ、事情を説明した後に学生証の忘れ物があったかどうかを尋ねると、電話口の男性店員は思い出したように「そう言えば」とつぶやき、返答を待つナマエに続けた。「安室透さんという方がお預かりになりましたよ」と。
話は至極単純だった。そもそもナマエの学生証を拾ったのが安室で、声を掛けたウエイトレスに事情を話し手渡す前に、僕が預かりますと申し出たらしい。困惑するウエイトレスを「僕の勤め先の喫茶店に、近いうちに来ていただく話になっていますから」と強引に丸め込んで。
大学構内・休憩スペースの一角に腰を下ろす。講義中の時間のため、人は疎らだった。いよいよ面倒なことになったことを自覚したナマエは、手元の名刺をジッと睨みつけた。安室透。あむろとおる。アムロトオル。心の中で反芻しながら、二回目の溜め息を吐き出す。優しそう? 物腰が柔らかい? 確かに事実かもしれないが、それ以上に強引だった。自分の思う通りに物事を進めるゴーイング・マイ・ウェイ。ナマエが美味しいコーヒーをご馳走になる気がなかったことを見抜いていたのだろう。負けたような、悔しいような。複雑な気持ちになりながら、スマホに喫茶ポアロの電話番号を入力する。

「お電話ありがとうございます! 喫茶ポアロです」
「お忙しいところすみません。わたし、東都大学大学院薬学部のミョウジと申します。本日、安室透さんはご出勤されていますか?」
「安室さん……ですか? 少々お待ちください」

若い女性が「安室さーん」と呼んでいる声が微かに聞こえてくる。数十秒も経たないうちに、電話の相手が代わった。

「お電話代わりました、安室です」
「昨日、駅前の喫茶店で名刺を頂戴したミョウジです。あの、わたしの学生証を、安室さんが預かっているとお聞きしたんですが……」
「ああ! お預かりしてますよ」

こちらからは連絡の仕様がなかったので良かったです、と言いながら安室は笑った。それなら駅前の喫茶店に預けて欲しかったと思ってしまうナマエは恐らく、間違っていない。大切なものだから引き取りに行きたいんですが……、と言い淀むナマエに、安室が先を促す。

「今日、夕方まで講義が入っていて……。そちらに行くのが夜になってしまいそうなんです」
「構いませんよ。僕、遅番ですから。閉店の時間になったら看板はクローズにしますが、鍵は閉めませんから遠慮せずに入ってきてください」
「本当にすみません……! 助かります」
「いえいえ。困ったときはお互い様、ですから。それに、」

――そういうときはありがとうと言ってくれた方が、僕も嬉しいですよ。
通話が切れてしまったスマホを眺めながら、ナマエは三度目の溜め息を吐く。「……はあ」と気の抜けた間抜けな返事しか出来なかった気恥ずかしさと言うか、情けなさと言うか。言葉に表せない感情が胸の奥を渦巻いている。
頬杖をつきながら、窓の外の分厚い雲を仰ぐ。雨は未だ止みそうになかった。

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