【第2話:可もなく不可もなく毒もなく】

どろりとした深い眠りを揺蕩っていた意識が、現実世界へと戻ってくる。瞬きを繰り返すにつれて、徐々に鮮明さを取り戻していく視界に広がったのは、泥混じりの雪色でも無機質な壁の白色でもなく清潔なシーツの色だった。

( ……あれ?)

身体を包むしっかりと暖められた空気は、凍り付きそうな冬の寒さを一欠片も含んでいない。無防備に寝こけていた状況に背筋が冷えるが、最大限の警戒に反して、身体の自由は奪われていなかった。

身の危険が無いならば、それで構わない。けれども、至れり尽くせりの状況は余計に思考を混乱に叩き落とすばかりだから、誰か早く説明して欲しい。羽織った着物から覗く身体の至る所に巻かれた包帯と身動ぎする度に走る鈍い痛みを頼りに、飛んだ記憶を引っ掻き回す。

たしか最後に見たのは──手を伸ばせば届く位置に座っている、法衣の後ろ姿に視線が止まる。

ああ、そうだ。意識が途切れる寸前の視界が捉えたのは、世界でもっとも嫌いな陽の光の色だ。

「やっと起きたか」
「……ええっと…自称ただの通行人サン?」
「あ?」

衣擦れの音を捉えて、寝台に寝転がった自分を真上から見下ろした男の口元がひくりと引き攣る。開口一番に放った言葉はお気に召さなかったらしく、全力でつねられた頬が痛い。



寺院に程近い住宅裏で助けられたのが、ちょうど三日前。傷から出た高熱がようやく下がったのが今朝方。そして此処は東方随一の寺院・慶雲院という場所──らしい。

平然とした顔で拳銃をぶっぱなしていた人物が、桃源郷に五人しかいない最高僧のうちの一人とは。あまりにも、冗談がキツすぎる。ただの通行人改め、第三十一代目 唐亜 玄奘三蔵と名乗った彼は、何処からどう見ても坊主には見えない。

「親切なヤンキーかと思ってた」
「誰がヤンキーだ」
「いま目の前にいる金髪美形のお兄さん?」
「人形みたく整った顔したお前にだけは言われたくねぇな」

傷の確認を進める手元を眺めながら、三蔵法師の定義ってなんだっけ?と考えを巡らせる。三蔵法師は破戒僧でなければなれない、なんて裏規則が実はあったりして。

「痛みは」
「大したことない」
「ったく、傷の手当くらいしろ……痕になるだろ」

面倒で自然治癒任せにした傷にぶつくさ文句を言いつつも、動かされる手は止まらない。

順調に治りつつある傷口は綺麗なもので、丸三日寝こけていた間、この男がただの一日も欠かさず手当を行っていたことを物語っていた。

「おい」
「はい?」

淡々と処理されていく傷口を見つめていれば、急かすような紫色の瞳と視線が交わった。その瞳に含まれた意図を上手く読み取れず、小さく首を傾げる。

「名前は」
「……あ。そっか」

こちらは名乗ったのだから、そっちも名乗れ。一つ溜息を零した男が言いたかったことをようやく頭は理解したものの、そこで返答に窮する。

「敵じゃねえって言った……言わなかったか?」
「もう敵だなんて思ってない」

何とも言えない声を出しながら口ごもった自分に、相手には未だ私が疑ってかかっていると思われたらしい。

ここまで懇切丁寧に手当をしておきながら敵であれば、トンチキな趣味嗜好の持ち主であること間違いない。逆に戸惑ったように問い返され、慌てて否定の返事を返すもその先に続く言葉が無く、また口を閉ざすハメになる。

「…………あー」
「まさか忘れたとか言わねえよな」
「あっはは!なんだっけ?」
「叩けば思い出すか?」
「叩いて直るのは、ブラウン管テレビだけよ」

つくづく困ったと言わんばかりに髪を掻きあげて思案顔をすると、思い付いたように手が伸ばされる。さも当たり前のように此方へと伸びてきた手に反射的に身を固める。

「……熱は下がってるな…」

逃すまいと後頭部に回されたもう片方の手と伸ばされた右手は痛みを与えるものではなく、額に重なった手のひらに、やっとこの男が体温を計りたかっただけであると気付いた。

「迷惑なら今すぐにでも出て行く……うわぁっ!?」
「寝てろ。どうせもう夜だ」
「怪我人に足払いかける?普通」
「言っても聞かん奴には、効果的だと思うが。もう一晩くらい大人しくしてろ」

寝台の端に腰かけて煙草に火をつけた男を横目に、床に足をつければ不意に足元が揺らぐ。しれっとした顔で足払いをかけた男に、あっさりと重心の傾いた身体は寝台に引っくり返った。

根掘り葉掘り聞く気のない、もはや煙草を吸うことの方が大事とも言いたげな彼と出会ったのは、どう考えたって間違いだ。



深夜。部屋に響きだした一人分の寝息が安定した頃、横たえていただけの身体を起こす。

名前を思い出せない。そのやり取りをしたのち、同じ質問が投げかけられないばかりか、歳や出身すら聞かれることは無かった。

(見かけによらず親切だよなあ……この人)

目覚めた時にはうまく力の入らなかった手のひらには、しっかりと感覚が戻っている。成り行きで枕元に転がしておいた、手元に戻ってきた愛刀を引き寄せると、慣れた手つきで鞘を払う。

それほど離れた場所に敷かれているわけではない布団に歩み寄ると、一呼吸の間を置いて振り下ろす。助けてもらっておいて、それはないだろう。そんな声が聞こえてきそうだが、むしろ目の前の男を慮ってのことだ。

一瞬で視界が反転し、ねじ伏せられた身体の急所へは銃口が真っ直ぐ向けられる。賭けがどちらへ転ぶかは、全ては彼の判断に委ねられていた。

可もなく不可もなく毒もなく

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