【第1話:殺意の砂糖漬け】

「……状況は最悪、か」

憂う言葉とともに吐き出した呼吸は、白く浮かんで溶けていった。冬の朝特有の空気に冷やされた傷口は麻痺して、とっくに消え失せた痛みには感謝しかない。

深夜から降り出して路面に積もった雪さえ無ければ、簡単に行方をくらませることができた。来た道を振り返れば、辿って追いかけてくれと言わんばかりに、残った新雪に痕をつける一人分の足跡と不規則に落ちた血痕。居場所を知らせ続ける痕が憎い。

これじゃあ、いくら逃げてもキリがない。逃げては追いつかれるギリギリの鬼ごっこを際限なく繰り返すとなれば、確実にこちらの体力が切れて勝負がつく。

(……うーん…どうしよう?)

雨でも降ってくれれば、違うだろうが。どんよりとした鈍色の冬空はいくら見上げたところで変わらず重い雲を湛えているだけで、こちらの味方にはなってくれそうにない。融通の効かないヤツめ。

蹴り飛ばされて切れた口内から滲む血液を、きゅっと親指の腹で拭いながら眉を寄せる。生死は問わないから連れ戻せ、と指令を受けているだろう下っ端どもは、容赦なく攻撃してくる。

少し留まっただけで足元に広がりつつある血溜まりを靴底で踏み躙って、雪に溶けた赤色によく似た甘い氷菓子の存在を思い出した。どう考えたって、これは食べても美味しくないだろうけれども。

たとえ死体になっても、アイツらの手に落ちるのだけは御免だ。徐々に近付きつつある声にうんざりとしながら、土地勘がないのに住宅街に逃げ込んだことを、今更ながら後悔した。

「……っ!?」

目に付いた路地に飛び込んで、突如、限界まで張っていた警戒心に異物が引っ掛かる。それが他人の気配だと肌が察知した刹那、曲がり角から伸びた手は一瞬のうちに、勢いづいた身体を路地へと引きずり込んだ。

「……危ねぇな」

咄嗟に感覚だけで振った刃は、相手の首を刎ねる前に短銃で阻まれ、頭上で耳障りな金属音が響く。

軽く刀を押し返してみせた目の前の男に苛立って負けじと右腕に力を込めれば、視界の隅でじわりと赤色が広がる。傷口から滲んだ血液が腕を伝って、点々と雪を赤く染めるのを見て、ほんの僅かに男の表情が揺らいだ気がした。

「敵じゃねえから安心しろ」
「だ、れ」
「ただの通行人だ」

こちらを通り越して背後に向けられた視線に、ハッと背後を振り返る。すぐそこまで迫った、自分を追いかけていた人物らの気配に血の気が引く。

ただの通行人が短銃なんぞ持っているはずがない。けれども、通行人なら殊更、この厄介事に巻き込むわけにはいかない。

「……チッ!」

男の脇をすり抜けるより先に、盛大な舌打ちとともに力任せに振り払われた右腕は勢いに負けて刀を取り落とす。流れるような手つきで、丸腰になって隙のできた私の襟首をガッと掴まえた右手の主によって、路地の奥へと乱雑に投げられた身体は、雪で湿った地面を派手に滑った。

「おい、ガキ。こいつらは敵でいいんだな?」

生贄よろしく男たちの前に差し出されたと思いきや、身体は逆方向にぶっ飛んでいた。散々追いかけ回してくれた忌々しい存在に、銃口を向けている男の発言と眼前に広がる背中。しばらく考えを巡らせたのち、やっと自分が “守られた” という信じ難い現実を理解する。

「うん」
「そうか。なら、良い」

短い肯定を告げれば、銃声が早朝の路地裏に響く。「それを渡せ」だの「お前も死にたいのか」と喚き散らしていた男たちが揃って頭から血を吹き出して、物言わぬ骸と化していく様を黙って眺めていた私は大層頭がおかしいのだろう。



「ったく、手間かけさせやがって」

仕事があるからと遠方の寺院に出向いた帰りのことだった。早朝の住宅街で突如始まった、満身創痍のガキを追い回すだけの趣味の悪い鬼ごっこ。

かと思えば、追ってくる男共を迷いなく斬り捨てているものだから、ガキもガキだ。おかげでこちらも遠慮なく、銃弾を撃ち込むことができたのだが。

きっかり弾切れになった短銃を懐に突っ込んだ背後で、トサリと軽い音が響く。緊張の糸が切れたのか、はたまた血を流しすぎたのか。雪だまりに突っ込んで意識を飛ばしている、血と泥で汚れた身体を引っ張り起こして担ぎあげる。触れた場所から伝わる冬の寒さを和らげるほどに熱かった体温は、忘れはしないだろう。

「……らしくねえな」

この日。自分からわざわざ厄介事を持ち帰るような、俺らしくない真似をした。いくら考えても、その理由には辿り着けないが、ひとつだけ断言できることがある。

放っておく、という極々当たり前の選択肢を。
この時、考えもつかなかったのは紛れもない事実だ。



外敵に襲われ越冬に失敗した白いウサギを土産に連れ帰れば、たちまち寺院内は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。

俺自身、進んで人助けをするような性格で無いのは自覚しているから、騒ぎを聞きつけて集まってきた坊主のうち幾らかが「一般人を遂に殺ったか」と、疑いの目で見ていたのは気の所為ではないだろう。

「三蔵様!此処は女人禁制でございます!」
「貴方様が手を煩わせるほどのことではありません!」
「医者に任せればいいものを……」

誰一人として、腕の中の身体の安否を問う者が居ないことに苛立ちを覚えた。破戒僧の鑑である俺が言うのもどうかと思うが、それでも仏門に帰依する坊主か。お前ら、もういっぺん修行やり直してこい。

「〜〜〜〜うるっせえッ!!!!」

ギャアギャア喚くばかりの坊主に対して、天下の三蔵法師権限を叩きつけて口を塞ぐ。口を閉じそうにない坊主共の説得よりも、連れ帰ったガキの傷の手当が先だ。

強引な人払いをかけて静寂を取り戻した寺の自室で、救急箱の中身を引っくり返す。伊達に放浪生活を長く続けていたわけではない、もはや応急処置は嫌というほど身に染み付いていた。

(……どっから手つけりゃいいか迷うだろが)

体温を奪うばかりの血と雪で重くなった服を引っペがして、反射的に思わず顔を顰めた。至る場所についた生傷から察するに、あの趣味の悪い鬼ごっこが行われていたのは、どうやら今日だけでは無かったようだ。閉じては開いてを何度も繰り返したらしい脇腹の傷口は、なかなか酷い有様だ。

「骨は…大丈夫……か」

しっかりと消毒をして薬を塗り、華奢な身体に四苦八苦しながら包帯を巻き付ける。折れていないのが不思議なほど細っこい手脚のあちこちについた、擦り傷やら打ち身やら(豪快に投げ飛ばした俺にも少しは責任がある)の手当を済ませ、最後に清潔な着物を羽織らせると、傷に障らぬよう寝台へと突っ込む。

意識を遥か遠く彼方に投げている少女は、手当の最中ですらピクリとも動かなかった。これは当分の間、起きるまい。

「なにアホみてぇに必死になってんだ、俺は……」

寝台に後頭部を預けて、天井を仰ぐ。この世の中は弱肉強食。弱い者は食われ、強い者が生き残る。それが世の不変の理。その流れに身を任せて、時には抗い生きてきたからこそ、厳しさを知っている。

例に漏れず、少女もその輪の中に飲み込まれようとしていた。けれども、放っておけば死ぬ奴を何をトチ狂ったか助けてしまい、こうして懇切丁寧に手当まで施してしまった。

何故だか放っておけなかった。アレだ、寺院の近くで死体になりかけていたのが悪い。これは一種の気の迷いだ、きっとそうだ。

「……クソっ」

煙にむせて、肋骨でも折られたら堪らない。いつもの癖で火を点けようとした煙草を箱の中へと戻して、懐へと突っ込み直す。俺が怪我人に対して、ここまで気を遣う必要は無い。

「何なんだ、お前は」

寝台を乗っ取っている薄茶色の髪の持ち主の頭を、腹癒せにぐしゃぐしゃと手のひらで掻き回せば、生温くなったタオルがずり落ちた。

額を掠った指先から伝わった体温は、未だ下がる気配も無い。冬の寒さで凍りそうな水の中に手を沈めると、よく絞って冷えたタオルを少女の額に乗せ直す。

此処は落ち着いても良い場所だと身体が認識したのか、連れ帰った時と比べると表情がわずかに緩んだ気もする。聞こえる寝息は少し速いが、しっかりと繰り返されているそれに安堵の呼吸を吐き出したのだった。

殺意の砂糖漬け

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