【第14話:花にも種にもなれません】

「煙草じゃないよ。ココアシガレットだから」

急な来訪にも関わらず、紫雨の出迎えは早かった。自身には親しみ慣れた形状の物を、薄く血の色の透けた唇に挟んでいた彼女を思わず凝視すれば、くすくすと笑いながら『これはお菓子だよ』と告げられる。

この家を貸すと言った時、二本あった鍵のうち一つは迷う間も無く、俺の手元に残された。玄関の呼び鈴を鳴らさなかったのも、真っ先に合鍵を使って扉を開けたことも。今日が初めてだった。

泥棒が律儀に鍵を使って、堂々と玄関口から入ってくるはずもなく。初めから、合鍵を使って入ってくる人物が俺しか居ないと分かっていたせいか、寝室の扉を開けた時には此方に横目で視線を投げた程度で、紫雨は別段驚く様子も無かった。

「サンゾー!!ちゃんと見張っといたぜ!!」
「ずっと見張られてた」
「猿と戯れてたの間違いだろ」
「……ん、そうとも言う」

紫雨の膝の間に挟まれて身動きを制限されている悟空が、言い付けられた仕事を全うしたとばかりに、嬉々として両手を上げる。じっとしていることが苦手であるはずの元気玉を試しに紫雨のところに送り込んでみたが、目論見通り制御されていた。

あれだけ寝ていろと言ったのに、起きて遊んでいたことは確実だ。褒めるとするならば、悟空を連れて外に遊びに行ったりせず、ベッドの上で休んでいた点は褒めてやるべきか。

「サンゾー、三蔵!ちょー楽しかった!」
「ずっと喋ってたよね。楽しかった」

前言撤回だ。眠そうな顔を通り越して、疲労の滲んだ顔をしている紫雨に呆れ返った。薬物さながら、大量の糖分を身体に回す暇があるなら、人間として当たり前の寝る努力をして欲しい。

「……あのなぁ。治るモンも治らんぞ」
「興味無い。放っとけば治る」
「お前ほんとにいい加減にしろよ」

慶雲院に戻ってきてから、数日を挟み。多忙に多忙が重なって、たまたま二人して不在にした。結果、箍が外れて大暴れしたチビ猿のせいで、寺の一角が半壊した。

大きめの案件が片付いたと報告をしてきた紫雨と、交代で悟空の世話をしていたのも束の間。燃料切れと言わんばかりに、文字通り紫雨がぶっ倒れた。

寺と紫雨の家を行ったり来たりするうちに、ちゃっかりと紫雨の自宅の場所を覚えていたらしい小猿は、あろうことか勝手に寺を抜け出したあげく、突撃訪問をしでかした。

玄関の呼び鈴を鳴らすと不機嫌な顔をされることがあるから、いつものように寝室の窓を叩いて、そこから家の中に招き入れてもらった。そこまでは良かったものの、出迎えたものの死んだように布団の中の住人となった紫雨にどうすることも出来ず。寺院中を探し回っても見当たらない、脱走したチビ猿を怒り狂った俺が探しに行くまで、枕元に半泣きで座っている羽目になった。見事に自業自得である。

拳骨を伴う一連の説教の流れで、納屋で匿っていた時から人目を盗んで、何度か深夜に抜け出しては朝の勤行が始まる前に戻って来ていた事実が発覚したのだから堪らない。

「三蔵、口うるさすぎるよね?」
「紫雨が悪いんじゃんッ!!」
「あっれ。孤立無援なんだけど。どういうこと?」
「たりめぇだろ。一見、死体だったぞ」

抱えた悟空に対して同意を求めるも、ギャンっと吼えられて呆気なくフラれる。今はヘラリと笑っている紫雨だが、俺自身、死体同然で転がっている彼女に、思わず怒るのも忘れて真顔になるくらいには焦った。

目の前で倒れられた悟空からしてみれば、さぞかし恐怖だったはずだ。さっきまで動いていた奴が、急に動かなくなったのだ。狼狽えるのは、当然の反応である。

「お前は、なんだ。死体になる趣味でもあるのか」
「変な性癖付け加えないでってば……」
「間違ったこと言っちゃいねぇだろうが」
「定期的な。よくある充電期間だよ」

何が充電期間だ。しかも、定期的とはどういう事だ。それは良く言えばの話であって、ろくに食べなかったせいで栄養失調から貧血を起こして、身体が活動限界を迎えているだけの話だ。

甲斐甲斐しく世話を焼く悟空が居るお陰で、人としての最低限度の生活が成り立っているのは如何なものか。突っ込みどころ満載の生活をしている紫雨に、よくぞ今日まで雑な生き方で生きていたと呆れる。

「三蔵。今日、泊まるの?」
「…………ああ」

顔を見せた割には多い、持参してきた荷物を一瞥した紫雨が悟空を転がしてベッドから降りる。買った時に比べると腰元に随分ゆとりがあるように感じる、寝巻きにされた薄手の藤色の服を着た後ろ姿に盛大な舌打ちをする。たった数日で、簡単に肉を落とすのは止めてほしい。

「怖っ……なに?機嫌悪いの?」
「お前のせいでな」
「私、何もしてない」

現在進行形で心労を増やしている最中であることを、本人は気付きやしない。ベッドの上で派手に転がされて遊ばれておきながら、すぐに復活をした悟空を片手で構いながら、困ったような顔で紫雨は返事をする。

そんな彼女の柔らかく細い髪を嫌がらせも込めて、ぐしゃぐしゃにすれば、鋭い蹴りが膝裏に炸裂した。くだらない攻撃に体力を費やす暇があったら、温存しておいてくれないだろうか。

花にも種にもなれません

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