ぬくもりを教える


大人アルミンとジークの奴隷だった少女。
ジークが絶望的にやばいのでジーク推しにはおすすめしません。
流血・虐待など。/2023.11.15 29min







「この子は、一体…」

唖然としたまま、目の前にいる場違いな“人物”を見下ろした。一見すると、果たしてそれを“人物”と呼んで良いのかも分からないような、布の塊。それが、数秒注視しないと分からないほど僅かに、動いてる。

あぁ、と目の前に居た、背の高い中性的な顔立ちの女が、なんの感情も込められていない温度で、すっかり忘れていたことを思い出したみたいな素振りで呟く。

これ・・ はジークから貴方達への贈り物のようなものですよ。自由に使ってくれて構わない、と。」

短く、ぱっつりと切りそろえられた金髪を揺らし、事も無げにその女は、床に蹲るその人物に対して“物”に使われる指示詞を使った。

「一応、これはジークの所有物になりますので、殺さないで頂きたい。まぁでも、別に客人のように丁寧に扱えという訳ではありません。そんな簡単には壊れませんのでご安心を。」

なんだそれは、と怪訝と困惑に眉を顰める。と、その女はやっと自分の言葉が全然足りないことに気付いたのか、すみませんねと言ってへらりと笑みを浮かべた。言葉と目の奥が全く伴わないこの女が、気味が悪くて苦手だということは初対面で言葉を交わした時から既に感じている。

「言葉で説明されるより、実際に見た方が分かりやすいですよね」

そう言って笑った女は、床に捏ねられている布の塊を、ずる、と引きずるようにして持ち上げた。そうされて初めて見えた人らしい特徴に、やはりそこに居たのは動物や物ではなく、“人間”だと確信する。汚れたまま無造作に伸びきっている髪が長すぎて顔なのか背中なのかは分からない。が、持ち上げられたせいで投げ出された腕から、ある程度その人物の年齢が伺える。明らかに大人では無いとすぐに分かる大きさのものだった。

女が、ついさっき迄食事に使っていたフォークをテーブルから取って、指先でくるりと回転させた。

女に持ち上げられても少しも身動きしないその人物に気を取られていたせいで、僕は反応が遅れてしまった。そうでなくても、躊躇いなど全くない女の動きは一瞬で、何が起こったか理解するよりも先に、くぐもった、弱々しい悲鳴が聞こえて、僕はようやく声が出た。

「っゔ、く、…あ゙」

「……え?」

ぶち、と肉が引き攣るような音が、したかもしれない。

振り下ろされたフォークが、その人物に刺さったのだと理解したのは、真っ赤な血が床に零れて、ちょうど子供の手の平くらいの大きさの血溜まりを作った時だった。

「……なに、してるんだ……?」

「えぇ、だから、見て頂いた方が早いかと思いまして。」

ほら、なんて言いながら、女は代わり映えしない声色でフォークを引き抜く。
真っ直ぐ引き抜かれ無かったのだろう。ぐち、と水気の多い音と共に、今度は流れるような血が床の血溜まりを大きくする。再度呻くような声が、響いた。

「ちょっと!!」

何をしてるんだ。それしか頭に思い浮かばずに、フォークを突き立てられ血を流した人物の前に僕は膝を着いて、長い髪を掻き分ける。刺された場所を確認しようとして行った行為だったけど、現れた琥珀色に、僕は場違いにも目を奪われてしまった。

丸く大きな瞳。透き通るような琥珀色。薄暗いランプの明かり程度しかないこの部屋の中で、涙の膜を揺らして光を反射するアンバーは、まるで金色の光を放っているようにも錯覚させた。他の何処でも見たことの無い色彩だった。
そのふたつの琥珀が、真っ直ぐに僕を見つめ返して居た。

目を合わせていたのは、ほんの数秒にもならない程度の時間だったろうが、僕にはまるで時が止まったかのように感じられた。それ程息を飲んでいた。

「ほら、治しなさい」

女の声が上から降ってきて、ハッと現実に引き戻される。言葉が僕にかけられたものなのか、この琥珀の持ち主にかけられたものなのか一瞬理解出来ず迷った瞬間、今度は違う衝撃に見舞われ、また僕は唖然とすることしか出来なくなった。

「……え…?」

琥珀の少し下で、蒸気が上がっていた。
首筋に、痛々しく血の流れた跡がある傷が、4つ並んでいる。5mm程の真っ赤な穴は、ぽっかりと口を開けて中の赤い肉を顕にしている。流れた血の量が、フォークがこの琥珀の人物の首筋に深く突き刺さったことを証明しているし、傷の位置的にも普通の人間ならば無事では居られない傷だったと直ぐに分かる。下手したら致命傷だ。
きっと首の大きな血管が切れている。切れた、筈なのだ。それなのに。しゅう、と細く蒸気を上げながら、開いた傷からは既に出血が止まっていた。この現象を、僕は何度も見たことがある。

傷、蒸気、巨人化能力、子供、マーレから運び込まれた荷、継承者。何のために、巨人化したら今この建物は、メリットは、人体実験、奴隷。
浮かんだ単語を次から次へ、整理しながら、思考だけは止めずに、ぐるぐると回す。

「安心してください。コレは巨人化は出来ません。ただ、こうして傷が治るのです。気持ちが悪いでしょう。」

琥珀がぱちりと瞬いた。矢張り生きている人間なのだとその動作が伝える。そして、その人物は、俯いたままがたがたと震えていた。

「そうだ、じゃあ、パラディ島内でのコレの全権はあなたに差し上げましょう!」

女は僕の思考を置いてけぼりにして、まるでいい事を思いついた、と言わんばかりの陽気な声でそう告げる。

親交の証・・・・とでも言いましょうか。ね、“超大型” の知性巨人を継承した、アルミン・アルレルトさん。」

何が何だか、さっぱりだった。
この女の意図も、背後にあるはずのジーク・イェーガーの意図も。

狼狽えたままの僕を、琥珀色が捉えていた。





金髪の背の高い女____イェレナが僕に“譲渡”したのは、子供だった。

ジークが派遣した義勇兵がパラディ島にやってくる軍艦に持ち込んだ荷物のひとつに紛れていたそれは、元々どこかのタイミングでパラディ島に持ち込む算段だったのだとイェレナは語った。

曰く、ジークに近しい人間が個人的に行っていた巨人実験の中で副産物的に産まれてしまった、“なり損ない”らしい。巨人化の能力は持たず、しかし他の継承者達と同じように自己修復の機能を持って産まれた人間。アッカーマン一族と違い、特に強度な身体能力等は無く、普通の人間なのだと言う。
正直なところ、100%イェレナの言葉を信頼することは出来ない為、現状では我々調査兵団は彼女の説明は話半分で受け取っておく。との見解である。

その子供は、何故か僕に預けられた。ジークの意志だとイェレナは言ったが、全くその真意は掴めない。調査兵団の団長であるハンジさんとの相談の結果、一先ずはイェレナの意向に従い、その子供は僕預かりになった。
別に牢にぶち込んでおくのでも構わないとイェレナは言ったが、僕自らその子供の面倒を見ると提案した。
単純にまだ幼い子供なのに、明らかに酷い扱いを受けて来たであろうということは最初のイェレナの行動からは明白だったし、例えライナー達のように目的を持って送り込まれた敵だったとしても……否、それなら尚のこと、僕が適任だと感じた。
僕ならば致命傷の傷でも簡単に治るのだから、暗殺など出来もしないし、そもそも巨人の力を持つ僕を殺すメリットが敵にせよ味方にせよ無い。この子供が例え巨人化の力を持った子供だとしても、リスクを鑑みれば容易に僕のことを傷付けたり連れ去ったりは出来ないだろうという事だ。


そして今、僕は自分の執務室でその子供と二人きりで対面している。

「…ええと、初めまして。」
「…」
「僕は、このパラディ島の兵団…に所属する兵士だ。アルミン・アルレルト。君の面倒を見ることになったから…よろしくね」
「……」

返事が無い、どころか、微動だにしない。
先程「着いてきてくれるかい」と言ったところ、ふらふらと覚束無い足取りで歩いて僕の元に寄ってきたので、多分耳は聞こえているだろうし言葉も通じているはずだ。
そして、その時にまた驚いた事なのだけれど、

「うーん……」

子供の姿を頭からつま先まで、見下ろしてみる。
僕の胸辺りにも満たない小さな背丈。伸ばしっぱなしにされた長い髪の毛はボサボサで、薄汚れている。髪のせいでほとんど顔は見えない。手足は明らかに細く骨ばっていて、夏でもないのに布1枚被っただけの心許無い身なり。そして、

かしゃん、と無機質な音が、子供の足元から響いた。

細い体に全く似つかわしくない、重圧そうな見た目の、足枷。
左右の足に嵌められた枷は、左右が太い鎖で繋がっている。子供が歩く度に石造りの床と擦れてがしゃがしゃと派手な音を立てるので驚いた。
この子が巨人化能力を持っていたとしたら、こんな足枷は無意味のはずだ。イェレナに外せないのかと尋ねたが、「私は鍵を持っていませんので、ジークなら外せるかと」とあっさり突っぱねられた。
いくら傷はすぐ治るとはいえ、これは流石に痛いだろう。そうでなくてもこれじゃあ歩くだけで酷く大変そうだと、困ってしまった。

再度足枷から目線を上げ、子供を見る。最初に見た琥珀は隠されていて、どんな顔をしているかも分からない。

「……うん、とりあえず、お風呂に入ろうか」

とりあえず、正面に立つだけで特有の匂いを感じさせるままで連れ歩くのだけは無いな、と、子供について分からないことは全て横に置いて、まずはお風呂に入れてあげることにした。


与えられている執務室には、最低限の生活設備が整っている。僕はシャワールームの前にその子供を連れていくと、簡単に設備の使い方の説明をしてみる。けれど、子供は呆然と立つばかりで動こうとしない。自発的に何かを行うことに慣れていないのだろうか。奴隷のような扱いをされていたのならそうであってもおかしくないと考えて、仕方なく、僕はその子供の世話を焼くことにした。

「お湯、かけるから、目を閉じていてね」

汚い服もそのままに、頭からシャワーを浴びせる。どのくらい手入れされていないのか分からない髪は、所々こびりついて血が黒く固まっていたりした。1度洗った程度じゃ綺麗にならず、何度かそれを繰り返す。幼い子供はされるがままだけれど、時折ぎゅと閉じた目をそうっと開いてみたりしている。その度に、あの琥珀色の瞳が惜しげも無く光に晒されて、不安そうにあっちこっちへ揺らぎながらも光を反射していた。


根気よく繰り返せば、ようやく子供は人間らしい見た目になった。その時に分かったことだけれど、その子は女の子だった。少女と言うよりはぎりぎり幼女と言える風貌だったのでまだ良かった、と1人内心苦笑いをする。
服も一緒に洗おうかと思っていたけれど、擦り切れてボロになっているそれをもう一度着せるのもなんだかな、と思って仕方なく自分のワイシャツを着せておいた。袖を何度も折ってはいるが、ワンピースのように着ることが出来ている。下着は……一先ずは仕方がない。後でミカサに相談しよう。
茶色かと思っていた髪は薄い色素のプラチナブロンドだった。僕の金髪とも違う、ほんのり黄みを帯びた綺麗な白銀。同じく色素の薄い真っ白な肌も手伝って、瞳の琥珀がより強調されている。
白銀色の睫毛が、ぱちぱちと瞬いて、琥珀色が不安げに歪められていた。

「名前を聞いてもいい?」

安心出来るようにと、なるべく柔らかい口ぶりで、幼女に目線を合わせる。膝を床について更に腰を落とさなければ顔をのぞき込むことは出来ない程、まだこの子は幼い。

「……わかり、ません」

初めてまともに声を聞いた。子供らしい、高くて丸い響きの声。けどかなり弱く、か細い、震えてほとんど息のようなこえだった。
怯えているのだろう。シャワーを浴びている時も、ずっと身体を固くして震えていた。

「ええと、ここに来るまでは、なんて呼ばれていた?」

「おい、とか、おまえ、です」

「……そっか……」

困ったなぁと頬をかく。ジークやイェレナ達と同じように彼女を“物”として扱うつもりは毛頭無かった。名前が無いんじゃ不便だ。とはいえ勝手に名付けていいものか、とも悩む。
仕方なく、一旦は「きみ」と知らない人を呼ぶ呼び方で呼びつつ、少女の身なりを引き続き整えることにした。

長すぎる髪は随分と傷んでいるし、千切れたのか切られたのか、長さがかなりバラバラだった。このままではとさすがに思い、肩より少し上辺りで切りそろえることにした。きちんと食事を取って伸ばせば、きっと綺麗に伸ばすことも可能だろう。癖のない真っ直ぐな髪が乾き切る前に、ハサミを入れる。

「綺麗なプラチナブロンドだね」

「……」

「きっときちんと手入れして伸ばしたら綺麗になる。君が望むなら伸ばすといいよ」

一旦は揃えてしまうけどごめんね、と謝っておく。少女が理解しているのかは定かでは無い。

「………あ、の」

しゃき、しゃき、とハサミを動かしながら髪を整えていたら、初めて少女が自発的に喋ってくれた。それを肯定する意味も含めて、動かしていた手を止め、なるべく優しい声で「どうしたの?」と声をかける

「……これは、……なにを、しているのでしょう、か、」

酷く脅えた声色だった。

「髪が邪魔かなと思って、君の身なりを整えようと思ったんだけど、だめだったかな、」

「いいえ、けっして、そのようなことは、」

「嫌だった?」

「………ぇ、と」

少女は何故かそこで、目をうろうろとさ迷わせた。酷く困惑したように、あ、とかえ、とか小さく言いながら口をはくはくと動かす。

「ぁ、わか、わ、わかり、ません…」

「…そっか、嫌じゃないなら良かった」

短い髪もきっと似合うから、君が気に入ってくれるといいんだけど。と言えば、よく分からない、と言いたげな顔でまた「ごめんなさい」と呟く。

「……謝る必要は無いよ、」

「ぅ、あ、……ごめ、……あっ……」

彼女の様子を見れば、それが反射なのだとすぐに分かる。これ以上重ねて言うのもそれはそれで責められているように感じさせてしまうかもしれない、と、それ以上は言うのを辞めた。

彼女の様子を観察してみても、矢張りこの怯えが演技には到底見えなかった。だとしたら、一体どんな生活をこれ迄にしてきたのだろう。目立つ傷は無かったけれど、僕らと同じ回復能力を持っているならそれは暴力を受けていないという証拠にはならない。

しゃき、とハサミを通す音が規則的に部屋に響く。僕は少しでも彼女の緊張を解く為に、当たり障りの無いことを問いかけたりしていた。もちろん、何か有益な情報を引き出せないかを試みる為でもある。

「自分の年齢は、分かる?」

「すみません、分からない、です」

年齢を聞いた時、初めて彼女は「分からない」と答えた。
これまでどこに居たのか、とか、何をしていたのか、とか、そういう質問に対しては、彼女は口を閉ざして、「こたえるけんりがありません」と口にしていたのに。
ただその度に、少女は、明らかに顔色を悪くして震えており、そう答えてからも「ごめんなさい」を何度も繰り返す。元々そう簡単に有益な情報が得られるとも思っていなかった僕はさほど気にしてはいなかったけれど、彼女はそうでは無いらしい。酷く脅えながらも過去についての質問には全て「こたえるけんりがありません」と答えた様子から、何かしらのルールが彼女に課されているのだろうと推測する。

本当はただ知らない相手の事を知りたいと思って聞いたのだけれど、それは随分少女を精神的に追い詰めてしまったらしく、今にも吐きそうな顔で震える姿に申し訳なくなる。そして、年齢を問うたときにようやく解答を得られたのだ。

「君のことについては、聞いても大丈夫みたいだね」

「ごめ、なさい……」

「いや!いいんだよ、ただ僕は君の事が知りたいだけだから」

「……」

しゃきん、とハサミをもう一度動かして、彼女の髪を軽く撫でた。女の子の髪を切るのは初めてだったけれど、思いの外上手くできたのではなかろうか。

「よし、だいぶ視界も明るくなったんじゃないかな」

前髪が長すぎると邪魔かなと思って、眉が隠れる程度の長さで短く揃えてみたけれど、そうすると綺麗な琥珀を遮るものが無くなって、少し眩しい。

とりあえず普通の子供らしい見た目になったかなと、再び少女を見下ろしてみる。
蜂蜜色を重ねて光に透かせたような、黄金の瞳。綺麗なプラチナブロンドの髪。青白さを感じさせる程白い肌。小さな唇。目はぱっちりと大きくて、子供とはいえ綺麗な顔立ちをしているのは誰が見ても明白だろう。

「これから君はここで僕と生活することになるけど、何か聞きたいことはある?」

聞きたいことなんて、普通に考えればごまんとあるだろう。彼女はまだここに連れてこられたばかりだし、ここのことを何一つ知らないのだから。
もちろん、この後も都度分からないことがあれば聞いてくれて良いんだけど、今の所はどうかな、と僕の意志を噛み砕いて説明する。少女は、ずっと困った顔で怯えてばかりだけれど、ゆっくりと答えを待っていればおそるおそる声を出した。

「……あなた、が、ここでの、……わたしの、“しょゆうしゃ”ですか」

問われた質問に、正しい回答が分からずに狼狽える。“所有者”か。その答えは、否と言いたい所ではあるけれど、彼女がその言葉をどういうふうに理解し、何を意味しているのかによっては、答え方が大きく変わってくる。
彼女は“物”ではなく“人”なのだから、僕は意思を尊重したいと思っているけれど、決して自由になんでもさせてあげる訳には行かない。彼女には、まだ不安要素が多すぎる。ジークやイェレナの目的も完全に分かったものではないのに。

「……僕は君の、“保護者”だ。君を君として扱いたいと思っているけれど、ある程度、僕の言うことを聞いてもらわなければならない時もあると思う。……君についての責任は、僕が持っているからね」

こんな難しい説明を、年端も行かない子供に説明して、理解してもらえているのかは定かでは無い。が、だからといって適当に嘘をつくことも、はぐらかすことも不誠実だ、と考えた僕は、なるべく分かりやすく噛み砕く事を心がけつつ、正直に説明することにした。

「君を手放しで自由にすることは出来ないけれど、だからと言って理由も無く君にとって嫌な事や怖いことをするつもりも無いよ。
だから、嫌だな、とか、嬉しいな、とか、なんでも大丈夫だから、思ったことは僕に教えてくれると嬉しいな」

正しく伝わっているかどうかは矢張り分からない。少女は、眉を八の字に下げて、ぱちぱちとまたたきするだけなので、もしかしなくても理解は出来てい無いのかもしれない。
でもそれも仕方の無いことなので、とりあえずこればかりは時間をかける必要があるだろうなぁ、と思案した。一緒に過ごす時間の中で、ゆっくり慣れて貰えばいいだろう、と。比較的呑気に考える。
もしかしたら彼女が何か僕らに被害をもたらす為に送り込まれた存在かもしれない、という考えは、最初よりは随分と少なくなっていて、僕は気を緩めていた。

「……は、い、あなたはわたしの、ほごしゃ。分かりました。」

丁寧に僕の言葉を復唱した少女の頭をぽんと撫でて、うんと頷く。
その時に少女が一瞬、びくりと身構えたのを僕は見逃さなかった。なるほどな、と過ぎった答えを口には出さず、柔らかく微笑む。

さてこれからどうしようかと考えて、窓の外を見る。日はとっくの前に沈んで、空には墨を流し込んだみたいな闇が広がっていた。
……さすがに色々なことが起きすぎたし、今日はもう寝ようかな、と息を吐いた。

「今日はもう寝ようか。とりあえず君はベッドで先に寝るといい。僕は仕事をしてから、シャワーを浴びて寝るから。」

「……ぇ、っと……今日は、わたし、何もするべきでない、でしょ……か……」

「うん、疲れたろう。休むといいよ」

少女は矢張りずっと怯えたままだったけど、そう言うと何故か酷く安心したような、ほっとした顔をして、床へと視線を落とした。

何か欲しいものは無いかと聞いてみたけれど特にないと、静かに首を振るだけだったので、彼女をそのまま自室に残し部屋を出た。念の為、中からは開けられないよう別の錠をかける。これは彼女を守る為の措置でもあると自分に言い聞かせて、部屋を後にした。





結局その日、上への報告やハンジさんとの話し合いを重ねていたら部屋に戻るのはかなり遅くなってしまった。今更部屋に戻って起こしてしまったら可哀想だなという考えから、部屋の浴室ではなく、兵団宿舎にある浴場でシャワーを浴びる。

部屋に戻ったのは殆ど翌朝だった。
なるべく音を立てずに、木製のドアを開ける。入ってすぐは執務室なので、誰も居ない。

ウォールマリア奪還作戦を成功させた僕ら調査兵団が帰還し、勲章授与式が行われた後から、僕らは全員に個人の部屋が与えられている。ハンジさんの直属の部下でもある僕は、書類仕事を任されるということもあるお陰か、兵士の中では比較的立派な執務室を当てられていた。
訓練兵時代のことを考えればかなりの高待遇、超スピード出世に思えるけれど、あの奪還作戦の後生き残った調査兵の数を考えれば、当然のことと言えるだろう。数百を超えていた調査兵団の実行部隊は、あの日に両手で数えられる人数になってしまったのだから。

僕が1人でこの有り余る大きな部屋を使ったところで、あの当時は空き部屋ばかりだったし、第13代団長や長年残っていた兵士の多く…殆どを失ったあの後は、彼等の執務を引き継ぐだけでも大変で、引き継ぎが片付く頃には、名実ともにこの部屋は僕が使用することになっていたという訳だ。

執務室を入って最奥、右手側にある扉は、私室に繋がっている。簡易的な浴室設備もあるけれど基本的に寝るだけの部屋だ。内開きの扉をそっと開けて私室を覗いて見る。と、おかしい。ベッドは部屋を出た時のままで、シーツも掛け布団も何も変わらず、きちんと畳まれたままであった。
いや、でも執務室の鍵は閉まったままだったはずだ。まさか窓かどこかから脱走したとか、?と思考を動かし始めた所で、私室のドアがごん、と何かに当たった。

当たった何かを確認する為開いたドアの裏を覗いて、僕は愕然としてしまった。少女が、小さく蹲って床で眠っていたからだ。
僕の着せたシャツの袖を伸ばし切ってぎゅっと握りこんでいる。きっと寒いのだろう。それは当たり前で、今は秋も深まってきた季節である。夜になれば急激に気温は冷え込んで、もう少ししたら暖炉を使わなければと思っていたくらいなのに。何故こんな所で、と頭を抱えた。
思っていたよりもずっと、彼女の心に根付く闇は深いのかもしれない。

こんな朝方になってしまったのでもう遅いかもしれないけれど。少女をベッドに移動させよう、と抱えあげようとした瞬間。
少女はぱちりと目を開けて、息を飲んで後ずさった。ぜぇぜぇと息をしながら、物凄く怯えた様子で、がたがたと体を震わせて、そしてぽろ、と涙を零した。
伸ばしかけていた手を、更に伸ばすのは躊躇われた。

「ごめんね、起こしちゃった、かな」
「……、っ」

浅い息を繰り返す少女が、みるみるうちに顔を青くして、がばりと床に額をつけてひれ伏した。

「っめ、なさい、……ごめな、いっ……」

謝罪を口にする少女を目の前に、僕はただひたすら、絶望と落胆を感じていた。
……本当に、一体、ジークはこの少女に何をしたのだろう。

「……ここじゃ、寒いだろう」

震える少女の背に手を伸ばして、撫でてあげようかとも思ったけれど、この状態じゃ触れるだけでもかなり怯えさせてしまうだろうなと予測して、僕は仕方なく、とりあえず自分が羽織っていたカーディガンを脱いで彼女にふわりとかけた。
床に項垂れていた顔が持ち上げられて、黄金色が僕をおそるおそる見上げる。
この少女は、きっとベッドで1人で眠れと言っても落ち着いて眠ることも出来ないんだろう。

「暖かいところで寝よう?」

自分から怖がらせてしまうことを躊躇って、彼女の目の前に手を差し出してみる。少女はたっぷりと十数秒、僕の手を見つめた後、矢張りゆっくりと震える手で、そっと小さな手を重ねた。触れた手は、凍えるほどに冷たい。
優しく手を引いて彼女を立ち上がらせて、一緒にベッドへと近付いた。僕のカーディガンを肩に羽織ったままだったので、そっちの方が暖かくていいか、と袖を通させ前でボタンをとめてやる。

「おいで」

先にベッドに乗って掛け布団をめくり、隣をぽんぽんと叩けば、少女は顔色を青くしたまま、泣きそうな顔で僕とベッドを見比べる。

「嫌なら、君一人でベッドを使ってくれても構わないけど……」

それに対してはふるふると首を振る。

「そっか、とりあえず、床じゃなくて、ベッドで寝て欲しいかな。」

「………っ、、せ、……っあ、」

何かを言いかけて口をぱくぱくと動かした少女の、次の言葉を首を傾げて待つ。「言っても大事だよ、怒らないから」そう言えばようやく、彼女は息を吸った。

「………っ、せ、、せっか、ん、しな、……です、か」

少女が何を言ったのか、言葉が震えて途切れ途切れ過ぎて、一瞬分からなかった。思い浮かぶ言葉を1列に並べて頭の中で正解を導く。思考の末得られた回答に、ぞっと嫌気が差した。

“折檻”か。その言葉の意味を、正しく使って・・・ 彼女に覚えさせた人が居るのだということは直ぐに推察出来た。

「……うん、しない。僕は君に絶対にそんなことしないよ」

やっとまともに息を出来たような顔をした少女が、布団の上へと登ろうとする。足についたままの鎖がじゃらじゃらと音を立てて動きにくそうだ。後で何とかして外す方法を考えないと、と考えながら、少女の動きを見守った。

ちょこんと隣に座る少女を隣に寝るよう促して口元まで埋まってしまうくらいに掛け布団を持ち上げる。1人分のベッドはひしめき合って寝ていた宿舎とは違い普通のシングルサイズより1つ横幅の広い大きさのものだから、子供1人増えた所で窮屈さは感じなかった。

けれど、少女は半分落ちかけているのではという程の端っこに小さく丸まっている。そんなにはみ出しては寒いだろうと思い、「もう少しこっちに来てもいいよ」と軽く布団を持ち上げて言えば、ぱち、ぱち、と琥珀の瞳がゆっくり瞬きした。

「……ん、」

近付くことを嫌がられたらやっぱり僕が布団から出るしかないか、と思っていたけれど、存外素直に少女は布団の中心へと寄ってきた。
それどころか、

「……ぁ、ったか、い……」

顔の横に置いていた僕の手に擦り寄るようにして、少女は布団に顔を埋めた。突然埋められた距離に驚いたのは僕の方だったけれど、その後、すぐに、目を閉じたまま音もなくぽろぽろと流れ出した涙に、息を飲む。
寒さ故の震えは止まっているようだった。けれど、時折涙声を飲み込んで肩を竦める少女は、今度は涙のせいだろう、また肩を震わせていて。
ほとんど無意識に、小さな少女の体を抱き寄せて背中を撫でていた。届くかも分からないけれど、こんな言葉のひとつで安心できるとも思えないけれど、なるべく優しく腕の中に抱いて「大丈夫だよ」と呟き窘める。

遂に、少女の喉の奥から、押し殺して押し殺してそれでも漏れ出てしまったかのような、この距離じゃなければきっと聴き逃してしまうほど小さな、嗚咽が聞こえた。嗚咽と言うにはあまりにか細い。声を出して泣いて良い、と気楽に言えるような涙ではなかった。

今はただ、冷たくて小さな体に、僕の体温を分けてあげることくらいしか出来ないのが、なんだかとても歯がゆい。

寒いと彼女が思うことがこれからすこしでも減るように、僕は何をすべきなのだろう。




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