世界で1番やさしい呪い
『私が死んだ時には、誰も泣かなければいい』
誰とも判別が付かなくなってしまった、燃え盛る炎の中に居る嘗ての仲間だった物を、彼女は表情の無い顔で、じ、っと見つめながらそう言った。
それは余りに寂しいと、僕は思った。
『ナマエが死んだら僕は泣くかもしれないな』
『嫌だな、君に泣かれてしまったら、私___……』
揺らめく炎が、彼女の綺麗な横顔を照らしていた。
あの時、あの後、彼女はなんて言っていたっけ。
「ナマエ」
名前を、呼んだ。
なるべく自分の心が、声に宿らないように。
いつも通り、たとえば静かな図書室で、少し手を伸ばして仕舞えば届くくらいの距離で本を読む君に呼びかける時みたいに。
そういえば、僕は、君の名前を呼ぶのが好きだった。
名前を呼べば、彼女は静かに振り返って、返事をせずにじっと僕を見つめるのだ。僕の言葉をゆっくりと待ってくれるその瞳が好きだった。
彼女が僕の言葉を待っているその間だけは、彼女の世界には僕だけしか居ないような気持ちになれたから。彼女を独り占めしているような、そんな気持ちになれることを、密かに喜んでいた。些細な幸せ。
出来ることならば、用事がない時にも無意味にその名前を呼んで、痺れを切らしたナマエが笑いながら『どうしたの?』と聞いてくるまで待ちたかった。
そんな風に僕が思っていることを、もしかして彼女は知っていたのだろうか。
「もういっかい」
そう言ってふにゃりと彼女が笑ったことが、嬉しくて、余りに愛しかった。
彼女は、滅多に頼み事とか我儘とか、そういった類のことは言わなかったなぁ、と思い出す。
ましてや、こんなふうに舌っ足らずな口調でお願いをするなんていうのは初めてだった。
もう一度その名を呼んでしまえば、全て消えでなくなってしまいそうで、ほんの少しだけ躊躇う。けれど、優しく細められた瞳がじっと催促してきて、僕を捕らえて逃がしてくれなかった。
「………ナマエ」
躊躇った音を口から紡げば、彼女は嬉しそうに笑った。屈託のない笑顔は、まるで花が咲いたみたいで。こんなことで笑ってくれるならば、もっと、何度だって呼んであげれば良かった。もっともっと、この笑顔を見たいのに。
後悔しても、もう遅い。
滑らかな彼女の頬に触れれば、そこに温度が無くなり始めていることに、嫌でも気付いてしまった。眉間をぐ、と寄せて目を細める。このまま彼女をじっと見つめていたら、瞳に溢れそうな痛みが零れ出してしまいそうだった。
「ね、ちょっと寒いかも」
世間話みたいに彼女が言うから、縋ることすら出来ない。だから、冬の寒さのせいにした。
もう春はすぐ目の前まで来ていて、今日の日差しは憎らしいほど暖かくて、優しいのに。
どうしてだろう、彼女の体温はどんどん失われていく。
寒いなぁ、ともう一度ぼやいた彼女は、もう一度、お願い。と呟いた。
今更、可愛いらしい子供のようなお願いを重ねる彼女の、優しさが痛い。そのお願いが、僕の為であることをなんとなく察してしまったから。
抱き締めた体に残る僅かな体温を、少しでも温めるために、消さないために、その体をかき寄せるみたいに抱き締める。
元々軽い彼女の体は、記憶よりもっとずっと、残酷な程に軽かった。
ナマエが僕の体を抱き締め返すことはなかった、
抱き締め返すには、彼女の余りに軽くなってしまった体では、なにもかも足りなかった。
あったかい、と言って柔らかく笑う。ナマエが、眠たいと言って瞬きをする。ゆっくりと上下する睫毛が、きらりと太陽の光を反射して、初めて濡れているのだと気付いた。
待ってくれ、お願いだから、まだ、何も伝えられていない。お願いだから時よ止まってくれ、と縋って泣き叫びたかった。子供の駄々みたいに。そんなの無意味だと分かっていても、お腹の奥底が、心の中が、ぐちゃぐちゃで、息が上手く吸えなくなってしまったみたいに苦しい。君が居ないときっと僕は、ずっとずっと息が出来なくて苦しいままになってしまうから、頼むから置いていかないでくれと泣き喚きたい。喚いた所で、失われた君の一部はもう戻って来ないのに。
「…………お願いだから、起きて、ナマエ。」
殆ど震えて、弱い声だった。
格好悪い、けれど、今泣いてしまったら彼女を困らせてしまうから。
ねぇ、ナマエ。
君が居ない世界を僕はどうやって生きていけばいい?
こくんと喉を鳴らして言葉を飲み込んだ。
そんな馬鹿馬鹿しい問いをしたのなら、
ナマエ、君は答えをくれるのだろうか。
ふいに、彼女の体が少し身じろいだのを感じて、抱きしめていた体を少し放すと、優しい顔をした彼女が弱々しく腕を動かして、僕の顔にそっとふれた。
殆ど温度が無いゆびさきでそっと撫でるだけの、それだけの動きだったのに、そこに含まれた最大限の慈愛を感じてしまう。きっと勘違いではないのだと思う。直ぐに落ちてしまった彼女の腕が、だらりと投げ出された。そんなのまるで気にしていないみたいに穏やかな口調で、彼女が言葉を紡ぐ。
「きみが良い人じゃなくても、
たとえ、あくまになっても。
きみが、すきだよ。アルミン。」
震えてしまう僕の声よりもずっと普段通りの声だった。僕の中の君の思い出が、少しも濁ることはない。最期の最期迄、彼女はずっと穏やかで、優しさでできている。
僕の事を好きだと言った。
たとえ“良い人”じゃなくても。
正義じゃなくても。悪魔でも。
彼女の選んだ言葉が、世界で一番優しい呪いになる事をきっと彼女は分かっている。君が好きでいてくれるなら、どんな非情な決断だって、きっと僕は。
どうして、と思わずにはいられない。彼女のような子が、きっとこの世界には必要なのに。いつだってこの世界は残酷で、僕たちはずっと失ってばかりで、何一つままならない。君が笑顔で笑う世界の為ならば、僕は喜んで悪魔にもなったのに。
誰も来ない、湿気た紙の匂いとか埃っぽくてかび臭い匂いのする資料室で、退屈を埋めるためだけにページをめくっているのだと笑った笑顔を思い出した。まぎれもなく僕だけしか知らない彼女の姿だった。彼女はあまり人の名前を呼ばないのに、二人でいるときはたまに、あのどんな楽器よりも綺麗な音で僕の名を呼んでくれるのだ。それがたまらなく好きだった。
嘘は苦手だと言った。自分の言葉が嘘になってしまうのすら怖いと。そんな彼女が初めてした未来の約束を果たして、そんなの怖がる必要ないと教えてあげたかった。海を見たいと珍しくも子供の様に無邪気に笑った君が可愛くて少し恥ずかしくなった。
燃える炎を眺めている彼女の瞳に涙は無かったけれど、彼女はいつも、ずっと泣いていた。涙の一つすら全て我慢してしまう彼女が、なにも怖がらずに泣けるような世界になって欲しいと心から思った。僕が零れ落ちた涙も掬うからと言ってあげたら良かったのに、そんな勇気も無かった自分の臆病を悔いても時は戻らない。
晴れた天気がよく似合うのだ。何でもない休みの日にたまたま町で君を見かけた時は単純すぎるくらい心が躍った。そうして過ごした日が穏やかで楽しくて愛しかった。その時間が終わってしまうのが勿体なくて普段は行かないような場所まで足を伸ばして、二人で仰いだ晴れ空と同じものはきっともう二度と見れないのだろう。
こんなにも全部鮮明なのに。鮮やかで優しくてあたたかいのに。
このまま、この優しい思い出に身を投じてしまいそうになる僕を、君は優しく背を押した。
ああ。本当に。
もういっかい、と彼女が唇をゆっくり動かした。
音にはなっていなかった。
弱々しく吐き出された冷たい空気だけが、僕と君とをつなぐ。叶うはずもない願いを、それでも叶えばいいと切に願う。
どうか、どうか彼女の眠りが穏やかなものでありますように。彼女が生まれ変わるとしたら、優しくて穏やかな彼女に似合う優しい世界でありますように。
そして、そんなあるかどうかも分からないずっと遠くのどこかの未来で、いつか、いつかまた出会うことができたなら。
もう一度、今度はもっとたくさん、名前を呼ばせてくれないか。
君の居なくなった世界がどれだけ残酷で、この先にどれだけ苦しい運命が待っていたとしても、きっと僕は大丈夫だから。君のくれた言葉があるから怖くない。進み続けていくから。
だからどうか、安らかに。
きみに、幸せな眠りを。
「____ナマエ、きみが、好きだ。」
どうか穏やかでいて欲しい。
そして、我儘を叶えてくれるのならば、
僕のことを、忘れないでいて。
ばか、ときみが笑ったような気がした。