02
「偽福富屋!怪我したって本当ですか!?」

名前が慌てて保健室に駆け込んだ時、鉢屋少年は丁度一人になったタイミングだった。
ここに至るまでの廊下で、見舞い帰りと思しき忍たまと何度かすれ違ったので、彼と面識のある人間が、絶え間なく訪れていたのだと思う。
顔見知りに声をかけられたような気もするが、返事を返している余裕はなかった。名前がそれだけ焦っていたというのもあるし、遠回しに責められているような気がして、相手の顔を直視することが憚られたのだ。

「ーーうるさい。そんなに大声を出さずとも聞こえる。あと呼び方が戻ってるぞ」

鉢屋少年は、布団に上体を起こしていた。
奴はいつもの忍び装束ではなく、普段は寝巻きとして使う、もっとゆったりとした着物を着ていた。
しかし、その右半身は大きくはだけるように着崩し、右腕を包帯で吊っている。一見して無事な左腕も、よく見ると細かい生傷が散見される。
胸から腹にかけても負傷しているらしく、布越しに滲む色は暗い赤。
いっそ、治療を受けていない箇所を探す方が難しい有様だ。
殆んど生身の胴体が見えないくらい、彼は至る所が包帯だらけだった。

「お、思っていたより重症……!」

名前は、一瞬にして真っ青になった。
怪我とは言っても、せいぜい擦り傷程度だろうと高を括っていたのだ。
何せ鉢屋少年は、誰もが口を揃えて褒めそやすほど、天才の名を欲しいままにしていた。影武者の忍務だって、初めてではなかったと聞く。
きっとまた、余裕綽々の様子で帰って来るものだとばかり。
それなのに、一体どうしてこんなことに……。

「て、天女のせいかな!?」

名前は狼狽え、走ってきた勢いそのままに膝をついた。
結構な速度がついていたので、割と大袈裟な音が出る。
ギョッとしたように身を引く鉢屋少年に、名前は前のめりでたずねた。

「これって天女が悪かったよね!?天女、どうしたら良かったのかな?行列には天女が出るべきだった?お姫様より先に嫁ぐのが正解だった?天女がオーマガトキから逃げなければ、最初からこんなことにはならなかったかな?いっそ黄昏甚兵衛に婿入りを要請すべき!?」

ついうっかり鉢屋少年の胸ぐらを掴みそうになるが、相手が負傷兵であることを思い出し、代わりに自分の手を握り締めた。
素肌にしっかりと爪を立てて、震えを押し殺すように。
目の前の人がその身に受けた痛みを、少しでも再現したかった。

「あなたの毒舌を見込んで頼みますが、歯に衣着せぬ率直なご意見をお聞かせ頂けませんか!?」

鉢屋少年は目を丸くしてーーそれから何を思ったのか、眉間に深くシワを寄せた。不機嫌の象徴のような表情だ。すぐさま低い声で「傷が付く」と呟き、傷だらけの左手で名前の両手を取る。そのまま、硬く組み合わせた名前の指を、予想外に丁寧な手付きで一本一本引き剥がした。

「急に何を……」
「お前、時々敬語が抜けるよな。動揺した時は特に。それが天女様の素というわけか?」
「い、今その話する!?」
「また外れたな」

ククッ……と。
驚くべきことに、鉢屋少年は小さく吹き出すように笑った。
歯を見せることはない。自由な方の手の甲で、口元を抑える笑い方だ。
お得意の嘲笑や作り笑いとも違う、ごく自然な笑顔に見えた。
豪快に笑うタイプではないと思っていたが、人前であっさり微笑むような人種だとも思っていなかった。思わず動揺も鎮まるというもの。
名前が唖然としていることに気付いたのか、鉢屋少年はきまり悪そうに笑みを引っ込め、「何だよ」とぶっきらぼうな声を出した。

「何がそんなに可笑しい」
「いや、別に何も……。あの、怪我が酷そうだったので心配しましたが、元気そうで安心しました」

ここで笑い声を指摘するほど野暮なことはない。
名前は無難な言葉を選び、一度姿勢を改めた。
ーーするとその拍子に、肩から薄手の布が舞い落ちる。気付かなかっただけで、どうやらずっと体にくっついていたらしい。咄嗟に追いかけた名前の指先をすり抜け、透き通る布は鉢屋少年の手に受け止められた。

「……これは?」
「あ」

その布は、さっきまで試着していた花嫁衣装の羽衣だった。
急いで着替えて出てきたので、この羽毛のように軽い布だけが付いてきてしまったのだろう。
肩に羽織って使う性質上、布同士の摩擦が多めに作られているのだと思う。簡単には滑り落ちないよう、刺繍で引っ掛かりを持たせている。

ーーというようなことを身振り手振りで説明すると、鉢屋少年は「ふーん」と気のない相槌を打ち、手の平に乗った布をじっと見つめた。

「“天女の羽衣"ね……」

何か思う所があるのだろうか。口を突く声は、どことなく皮肉に満ちている。そしてその矛先は、紛れもなく羽衣に。
さっきまでの笑顔が嘘のように厭世的な雰囲気が漂い、名前は少なからず困惑した。いくら多感な年頃とはいえ、さすがに情緒不安定すぎる!

返してほしい、という意味を込めて片手を差し出したが、鉢屋少年はこちらには一瞥もくれぬまま、布をひょいと遠ざけてしまった。
……なるほど、そういうパターンか。
今ので完全に理解したが、“分かる”ことと“出来る”ことは必ずしも一致しない。机上の空論の落とし穴はそこにあるのだ。
吊られる形で腕を伸ばしても、あと少しという所で布は逃げて行く。
逃げる布、追いかける名前。この無益な攻防が、その後数分続く。
しかして一方的に翻弄され続けた結果ーー名前はとてもイライラした。
メロス程ではないにしろ、仏の名前もそれなりに怒ったのだ。

「さっきから何!?嫌がらせの次元が低い!怪我人なら怪我人らしく、もっといたいけかつ殊勝な態度をとれないのか?これじゃあ同情しようにも出来ない!早く天女に真っ当なお見舞いをさせやがれ!」

怪我人相手に大声を出す、という最大のタブーを犯しながらも、名前はキレずにいられなかった。
必ず、かの邪智暴虐の忍を除かなければならぬと決意したので。

ところが、名前の怒りは意外な形で肩透かしを食らった。
またしても……そう、“またしても”鉢屋少年が笑ったのだ。

「そうして怒っている方がよほど人らしく見えるな。……お前にこんな華美な装いは似合わん。布が泣くわ」
「布が泣くわ……!?」

失礼がとどまることを知らない。
ショックで固まる名前を笑い飛ばし、奴はふと静かな表情を浮かべた。

「さっき言っていたことだが、別に私の負傷はお前のせいではない。……この襲撃は、そもそもが茶番に等しい。お前がそうして自分の責任だと気に病み、中身のない罪悪感にせき立てられて浅慮に走ることを期待した敵が仕掛けてきた罠だ。これでお前が、持ち前のアホの瞬発力で学園を飛び出して見ろ。まんまと敵の思う壺だぞ。私は骨折り損で終わる。本当に私を憐れむなら、今は大人しく学園にとどまれよ」

言葉の端々に無礼な修飾語が付きすぎて本質が霞んでいるが、鉢屋少年が伝えたいことはぼんやりと理解できた。
つまり、今回彼らに放たれた刺客というのは、天女を殺すことが目的だったのではなく、名前に“天女が狙われている”と思い込ませることを目的とした、ある種のパフォーマンス的な襲撃……。
名前は敵の思惑通り、罪悪感で頭がいっぱいになった。
今すぐタソガレドキに身を寄せて、自分を雁字搦めにしたいと思った。
ーーこの計画で、最も得する陣営が襲撃の首謀者と言うならば。

「タソガレドキの自作自演……」
「まぁ当然の結果だな。あのお姫様も可哀想に。まんまとお前を釣り上げるためのダシにされたのさ。あの殿様なら、お前と彼女の交友関係もとっくの昔に洗い出している。星の数ほどいる嫁候補の中から彼女が選び抜かれたのも、まぁ元を正せばお前に繋がるというわけだ」
「で、でも!」

でもーーこれって、結構なロシアンルーレットではないかとも思う。
この作戦、名前が眩いほどの正義感に溢れていて、自己犠牲すら厭わぬ清らかな心根の持ち主だったからこそ成り立つ話で、この襲撃に怯えて嫁入りを取りやめたり、我が身可愛さに信者を兵としてけしかけたり、世を儚んで自害!なんて道を選んだ日には目も当てられない。
タソガレドキはあまりにも、名前の善性を買い被っている。

しかし鉢屋少年は、名前の言葉を鼻で笑った。

「お前が他者をそう簡単に切り捨てられない人間であることは、すでに奴らも知っている。お前はとっくにその素質を見せていた。天女比べの時、お前は身を挺して見知らぬ姫君を庇っていただろうに」

名前は今度こそ反論の糸口を見失った。
こんな形で外堀を埋めずとも、名前はタソガレドキに嫁ぐつもりだった。……でも、そんなの言い訳にすぎない。
やっぱり本音を言えば名前は迷っていたし、結婚なんてしたくなかった。心が乾涸びたとか、口では適当なことを言えても、その奥底にはまだ、自我の水溜まりが残っていた。
もっと早く下せた結論を先送りにしていたのも、黙って是と答えれば良いだけなのに、わざわざ学園長達に引き留めさせていたのも、全ては本心が「行きたくない」と泣いていたからだ。
中途半端に弱音をこぼし、食満氏や竹谷少年に慰められ、それで自尊心を満たしていたのは名前だ。
タソガレドキには、全部見抜かれていたのだ。
下手な小細工はやめろと、何をしても無駄だと、最悪の形で忠告されたのだ。くだらぬ時間稼ぎの逡巡が、ついには流血を生んでしまった。

「それ……羽衣。返してください、鉢屋少年。天女は行くところが出来ました」
「……嫌だと言ったら?」
「警察に通報します」

鉢屋少年は、口端をヒクリとさせた。

「ふざける元気があるうちは尚更渡せんな」
「ふざけてない!返してよ!」
「嫌だね」

さすがに癇癪を起こしそうになったが、鉢屋少年の次の言葉で、名前はギリギリ爆発を回避した。

「天女は……伝承の天女様とやらは、奪われた羽衣を手に入れたら、どれほど長く下界で暮らそうとも、下界に家庭を築こうとも、全てを捨てて無情にも天界に帰るらしい。お前もそうして、何もかもを切り捨てて帰るつもりか」
「え……?」

やけに羽衣に拘ると思えば、かの有名な伝承を気にしていたのか。
現実主義者と見せかけて、意外に信心深いと言うか、感傷的と言うか?
ついさっき貰った羽衣にそれほどの執着はないし、このセリフや考え方……何となくどっかで聞いた気がするな。
名前はしばし首を傾げて、やがて既視感の正体に辿り着いた。

「なんか山田利吉みたいなこと聞きますね?」
「なん……っで、ここで利吉さんの名前が出てくるんだお前は!?」

鉢屋少年のこめかみに青筋が走る。
しかし、名前は同時に衝撃の仮説を思い付いていた。

「そうか!そういうことだったんだ!でかしたぞ鉢屋少年!」
「は!?」
「言われてみればそう……伝承の天女も、きっと元を正せば異世界人!ということは、その羽衣のくだりにも論拠があるんですよ!異世界から着てきた服や私物が帰還の鍵になる可能性が大です!」

そう言えば、名前が故郷から着てきた服は、いつの間にか行方不明になっていたのだ。どうせ着ることもないから、全く気にしていなかった。
恐らくはオーマガトキに置いてきてしまったのだろうが……

「何とかしてオーマガトキから私物を取り戻す……これが今の目標です!」
「はあ!?」

名前は俄然やる気が出てきた。
とっととタソガレドキに嫁に行き、二国間の力関係を利用してオーマガトキにガサ入れを行うのだ。それが一番早い気がする。

「帰還RTAしてやる……」

もうとっくに一年以上が経過しているので、チートを駆使しても無理かもしれないが。

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