一歩進んで二歩下がる
仔細は不明だが、名前の変化はひとまず歓迎された。
治癒能力に限りなく近い異能は、きっとゾンビ化解除薬制作にも役立つだろう……という、分かりやすい大衆の総意だ。
都合良く傷も癒えたことだし、名前は晴れて薬制作の任に戻った。

***

「痛い!!!!」

廊下を歩いていた名前は、何かに躓いてずっこけた。
薬の件で相談があると言われ、食堂に出向いていた最中の出来事だ。
考え事をしていたわけでもなし。事件現場は、見通しの良い長廊下である。足元が疎かだった自覚もなく、名前は鈍く痛む鼻を抑え、地べたに座って途方に暮れた。まさか、虚無に足を取られたとでも言うのか?

「これはこれは天女様、随分お急ぎのご様子ですが、どちらに向かわれるおつもりで?」

その時、視界の隅に緑色と黒がちらついた。
鼻を抑える手はそのままに視線を動かすと、見知らぬ誰かと一緒にいる立花氏が、ちょうど長い足を引っ込める所だった。
ま、まさかとは思うけど、この人、名前に足を引っ掛けた……?

「仙蔵、さすがにそれは無い」

名前が呆然としていると、立花氏の隣にいる誰かが、思わずといった調子で声を発した。
ーーこの人物、さっきから絵に描いたようなドン引き顔で立花氏を眺めていたので、恐らくは一連の流れの目撃者なのだ。
そして、彼の表情が語るに曰く、名前の予想は大正解なのだろう。

「ふふ。どうした、文次郎。そんなに呆けた顔をして。元から愉快な顔が、更に面白いことになっているぞ」
「いやお前こそどうした!?急に女人を転ばせるような真似などしやがって……俺は、お前の頭がどうかしたのかと思ったわ!」

なんだか、珍しく論点がまともな人に出会った気がする。
名前は、まだまだ手を離せない鼻を気遣いつつ、二人の口論に「あの〜」と割り込んだ。

「つかぬことを伺いますけど、立花氏、ひょっとして天女に足引っ掛けました……?」
「申し訳ございません。転ばせるつもりはなかったのですが……。お呼び止めしようと思いまして」
「普通に声かければよくない!?」

ほら見ろ!また隣の人が、ドン引き〜って感じの形相で立花氏を見てるぞ!その目の下の隈、さては立花氏に対する心労に由来しているな!

「あー……天女様だったな。うちの仙蔵が失礼を働いてすまない。怪我はないだろうか」

見知らぬ人は、参ったなぁと言わんばかりに頭を掻き、名前を心配そうに見下ろした。
それでも、口先ばかりで一向に手を貸そうとしない辺り、彼も生粋の忍者なのだ。古事記によると、忍とは乙女心を解さぬ者の総称である。

「いや、大丈夫は大丈夫ですけど、たぶんあなたのお友達の精神状態が大丈夫じゃないよ」
「……それについては否定できない」
「ははは!」
「仙蔵!笑いながら人の尻を叩くな!!!」

心底嫌がっていそうな隈の人と、心底楽しそうな立花氏。見れば見るほど、仲が良いのか悪いのか分からぬ二人である。
立花氏が一方的に隈の人をおちょくっているのかと思いきや、隈の人も隈の人で、結構言いたい放題言っているような?
一見して相容れぬようでいて、実は絶妙なバランスで成り立っている?
……と言った具合に興味は尽きないものの、二人の関係性を詮索する前に、此方も約束の時間が迫っていた。
これぞ悲しき日本人のサガ。骨の髄まで染み込んだ五分前行動の精神が、寄り道を許容してはくれぬのだ。
頃合いを見て脱出すべく、名前は床の上から腰を浮かせたがーー

『あ』

ぴったり二人分の声が重なったのを聞いて、名前は咄嗟に上げた腰を戻した。
恐る恐る前を見ると、さっきまでワイワイやっていた二人が、揃ってこちらを凝視しているではないか。驚いた名前は彼らの視線を辿り、後ろを振り向いた。……そうか、この壁か。壁がそんなにも物珍しいか。

「違う!お前だ!」

天性のツッコミ気質らしい隈の人は、名前の頭をガシッと掴んだ。
どうやら、これが異世界流の“なんでやねん”らしい。名前は感心した。

ところが、名前達が漫才師を気取っていられるのも今のうちだった。
彼は、自分の片手をーー名前の頭を鷲掴む手を、まるで信じられない物を見る目で見下ろし、俄かに青ざめる。その上で、電流でも流れたかのように素早く距離を取ると、しどろもどろになりながら「す、すまない!俺まで狼藉を働くつもりはなかった!」と、口早に弁解したのだ。

「い、言い訳をするつもりはないが、今のは流れでだな、」
「え?いや別にそこまで……あれ?」

気にしなくていいよ、と続けようとした名前の言葉は、なんとも言えず消化不良なタイミングで途絶えた。
何故ならその瞬間、パタリと、名前の足元に“血”が落ちたからだ……。

「え、なにーー」

名前が現状を理解する前に、立花氏が動いた。
彼は、名前の罪無き鼻の付け根を、よもや捻り潰す気か!?という強さで抑え、その拘束力を利用して、名前を強引に俯かせたのだ。
視線が下がると、床に落ちた血の雫がよく見える。
名前は、そこでようやっと察した。あ、名前って鼻血出したんですね。
それでさっき、やけにびっくりした様子で注目されたのか。

「お、おい仙蔵!相手は天女様だぞ。女人はもっと丁重に扱え!」
「そうか。では文次郎、お前が私に手本を見せてくれないか。そぉら天女様だぞ。有り難く受け取れ」
「おいバカやめろ!俺には無理だ!おい!バカタレ!」

鼻を掴まれたまま、名前の身柄は荷物みたいに受け渡された。
しかし、配送先の人が受け取りを拒否したため、哀れ名前は戻り郵便になった。せめて不在票くらいは投函したかった。

「もう良いよ!もう良さげだから手を離してほしいのだ!」

間違っても名前の体に触れぬよう、小さく万歳する隈の人が切ない。
名前はフガフガと立花氏に抗議し、何とか仮初の自由を得た。
代償として、まだ止まっていなかった鼻血が一筋、顎を滴り落ちたが。

「お、おい。まだ出ている……俺の物では不満だろうが、これを使え。一応洗っているから汚くは無い……はずだ」

血塗れの名前を見かねたのか、隈の人が手拭いを差し出してくれた。
几帳面に折り畳まれた、清潔そうな手拭いだ。
仕草は淡白かつ素っ気ないし、相変わらず一瞬たりとも視線が合わないものの、彼のやっていることは明らかな“親切”である。
心からの善も偽善も関係なく、人を思いやる行動に優劣などつけられないが、分かりやすく優しさを示されるより、さりげなく気遣われる方が嬉しいことって、たぶん往々にしてある。
名前も今は、何だかそんな気分だった。
受け取った布を鼻に押し当て、感謝の念を込めて頭上を仰ぎ見れば、思った通り。即座に首を回し、わざとらしいほどに目を逸らされた。

「ありがとうございました」
「…………構わん」

その態度はぶっきらぼうながら、どこかストイックな姿勢でもある。
彼の志す頂きが気になって、名前はいつの間にか、頑なな横顔を食い入るように見つめていた……らしい。
“らしい”と言うくらいだから、つまり名前は無意識だったのだ。
ふと、視界を誰かの手に覆われ、名前は初めて己の奇行を自覚した。
ーー見知らぬ手は、立花氏の手だった。

「見過ぎですよ」

ふふ、と耳元で笑われた。
名前がハッとすると同時に手は取り払われ、視界が明るくなる。
気付けば、鼻血もすっかり止まっていた。
手拭いに滲む鮮血だけが、元の明るい世界で、妙に生々しく見えた。

「あの、これ、汚してしまってすみません。血って洗って落ちるのかな……。無理そうだったら弁償します……」
「いらん。些末なことに構うな。それは初めから天女様に差し上げたつもりだ。代わりならいくらでもある」
「わぁ……」

掛け値なしに良い人だ。名前は感動した。隣の立花氏が、名前の肩を肘置きにしている分、余計にそう感じてしまった。

「ーーああ、そうだ天女様。お伝えしたいことがあったんでした」

イライラと感動を同時に味わっていた名前は、ちょうど釣り合っていた感情の天秤が、一気に苛立ちに傾くのを感じた。
理由は明白である。イライラの元凶である立花氏が口を開いたからだ。

「もしかして天女様は、食堂に向かっておいでですか?」
「……だったら何」
「私は随分と嫌われてしまったようですね」

名前はダンマリを決め込んだ。
無言は肯定である。

「ふふ。では、そんな天女様に一つ助言をして差し上げましょう」

立花氏はにっこりと微笑んだ。

「恐らく今頃、食堂はちょっとした“騒ぎ”になっているかと思いますので、天女様は心して向かった方がよろしいですよ」
「え!何それ詳しく!」
「百聞は一見にしかずと申します。私からはこれ以上何も……」
「い、一番性格悪いやつじゃないですか!」

助けを求めて隈の人を見れば、改めて露骨にそっぽを向かれた。
味方がいない!

「今ので一気に行きたくなくなりました……」
「まぁまぁそう仰らず」
「どの口が言うか案件ですよ」

恨めしげに睨んでも、立花氏は楽しそうに笑うだけである。
いっそバックレようかとも思ったが、相手は忍者(複数形)なのだ。
どうせ五分と経たずお縄になって、見せしめとして市中引き回しの刑に処される。
待ち構える結果が同じなら、自分の意思で捕まる方がマシだろう。

「めちゃくちゃ憂鬱だ……」

名前は腹を括り、足を引きずるように食堂を目指した。
その手には勿論、お守り代わりに血染めの手拭いが握られているーー。

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