「逃げるような子だとは思ってないわ。ただ念を押していたいだけなのよ、上の方もね」
「はい」
ちゃんと眠る証しとして布団に入り直した葵の体を布団の上からポンポンと叩く。
そうして見つめるその瞳は、どこか母親らしいそれがあった。
「…緩くはないの。この世界と、この隊の隊長というものは」
ぽつりと思い出を話すかのように呟く。
その言葉は自分ではなく、あの不思議な隊長に向いている気がした。
けれど葵は静かに目を四席へ向けて、一言、大丈夫ですと告げた。
「途中でやめるような生半可な覚悟でここへ来てはいません」
二つの手をほどいてこの世界の境界線を越えたあの時から。
諦めるなんてことは許されない。
あの二人を置いていく選択をしたのなら、自分は何に変えてもそうしただけの覚悟を持つつもりでいた。
「心構え」でも「決心」でもない。
「覚悟」。
いつか会えるその時が来たら、まっすぐに二人の目を見られるようにと。
「…おやすみなさい」
「ええ、おやすみ」
決して変わらない星空。
せめてそれだけでもあの二人の側にいてくれるよう願いながら、葵は静かに目を閉じた。
次の日からようやく死神らしいことが始まり出した。
今日は午後から葵には聞き慣れない総隊長という存在に霊術について学びに行く日だ。
副隊長の話によれば零番隊の仕事と総隊長の指導を一日起きにこなすため、今日は死神としての仕事はないはずだが、葵は零番隊の仕事を手伝っていた。
午後まで体を休めておいて良いと言われたが、今は慣れるために隊員の雑用係になって仕事を覚えたかったので午前中だけ仕事を請願した。
「葵ちゃん、一緒に書類集めに行こうか」
「はい」
「葵ちゃん、判子押すの手伝って」
「あ、はい」
「葵ちゃんお茶飲もうよー」
「えーと…」
次から次へと舞い込む仕事に困惑しかけていた時、手を叩きながら副隊長が寄ってきた。
「こらこら、幾らなんでも次期隊長を使いすぎだろう。それから七席、最後の君のはただのナンパじゃないか」
「いや副隊長、こんな大人だらけの所にちっちゃい子供が来たら連れ歩きたくなるもんですぜー」
「そうそう」
和やかに笑いながら談笑する姿を見るたび、ここにいられることに少し安心する。
その中でもいっそう優しく笑っている副隊長は、それでもキビキビと指示を出していた。
「もうそろそろ葵君はお昼が近いから行った方が良いね。四席、総隊長室まで案内してくれるかな」
「はいはーい。行こう葵ちゃん」
「他は仕事に戻ろうか」
「ちえー四席ばっかりー」
「慣れている人の方が良いんだよ」
そんなやり取りが手を引かれて歩き出した葵の後ろから聞こえてきた。
何気なくそれに耳を傾けながら、部屋から出るために入り口の扉へ手をかけた。
が。
ガチャッ
出ようとしていた扉が外から開かれた。
開けるために動かしていた体が空振りに終わり、何とかバランスを取り直す。
誰が開けたのだろうと何気なく顔を正面に向かせたとき、そこには実は朝からいなかったあの女隊長が立っていた。
皆が集まる出勤の時間になっても現れず、それでも誰一人問題にすることは無かったので、よくあることなのかも知れない。
向こうも葵に気付いたのか真っ黒な瞳を下に向ける。
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