- ナノ -


(5話)



 貰った案内のとおりに会場へ向かう。まだ発表会は始まっておらず、準備運動なのか小学校低学年くらいの子供達が、床の上でくるくる回ったり、トランポリンで飛び跳ねたりしているのが見えた。

 ぐるりと一周見渡すと、高い天井から淡い色の布が二本ぶら下がっていた。あれを使うんだろうか。
 普段足を踏み入れることのない世界が広がっていて、なんだか不思議な感じだった。


 もらったプログラムを見ると、ミョウジの演目は一番最後のようだった。最後といっても、小規模の教室なのか演目はそれほど多くなく、すぐに順番が回ってきそうだ。時間どおりに来て正解だった。


 さて、どこに居ればいいんだろう。椅子はあるが、あれは勝手に座っていいものなんだろうか。こういった発表会は初めてなのでいまいち勝手が分からない。サッカーのように外で適当に見てればいいなら楽なのに。


「千切君……?」

 声をかけられ振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。

「はい、そうですけど……」

 誰ですか、とも言いづらくて、とりあえず相手の出方を待つことにした。すると、女性はふわりと笑って、ホッとしたように胸を撫で下ろした。

「よかったぁ。ナマエの母です。はじめまして。ナマエから、千切君が見に来てくれるから、来たら絶対に絶対に案内して! って頼まれてたんだけど、前に新聞で見たきりだったから自信がなくて……。急に声をかけちゃってごめんなさいね。ビックリしたでしょう?」

 少し困ったように眉を下げて笑う顔が、彼女によく似ていた。

「いえ、勝手が分からなかったんで助かりました」
「よかった。じゃあ案内するわね」


 彼女の母親に連れられて受付を済ませ、先ほどの席へと案内された。さっきの席はやはり座って良かったらしい。どこでもいいと言われたが、なんとなく目立たなそうな端の方を選んだ。

「ナマエの順番まで少しあるから退屈かもしれないけど、できれば最後まで見ていってあげてね。あの子、千切君に見てもらうんだってすごく頑張ってたから」
「はい、そのつもりです」

 迷いなく答えると、彼女の母親はふわりと笑ってから、小さな声で「ありがとう」と言った。

「千切君のおかげで、またあの子の演技が見れるから。……また見れる日が来るなんて思わなかったわ」

 だからありがとう。そう言って彼女の母親は、控え室の方へと去っていった。


 ありがとう、なんて言われて、ほんの少しのくすぐったさを感じながら一人席に着く。

 ……礼を言わなきゃいけないのは俺の方だ。怪我をして入院した時も、復帰して学校へ行った時も、部活に戻った時も。思えばいつもアイツがそばにいてくれた気がする。

 花が咲いたように笑う彼女の顔が目に浮かぶ。彼女の笑顔に何度助けられたことだろう。その半分くらいは、返せているんだろうか。


***


 発表会は滞ることなく進行し、ようやく彼女の出番になった。


 登場してすぐに拍手が上がる。先に出番が終わった子供達も、膝を抱えて座りながら、真剣な眼差しで彼女を見つめていた。年齢的にも順番的にも、彼女が大トリなのだろう。それだけ見ている周りも真剣だった。


 彼女が身に纏っている衣装は、レオタードというより、全身を覆うボディスーツのようなデザインだった。小さい頃に姉が習っていたバレエの衣装のようなヒラヒラした飾りは付いていないが、その分色合いが華やかだった。照明の光が反射しているのか全体的にキラキラと輝いて見える。シンプルだが十分ステージ映えする衣装だ。


 ゆったりとした音楽に合わせて、腕の力だけでグイグイと布を伝って登っていく。小学生の頃に登り棒で遊んだこともあるが、相当力が要るはずだ。それなのに、彼女は涼しい顔をして身体を運んでいった。左腕にあまり力が入らないと言っていたが、そんなことを感じさせないくらい安定した動きだった。

 とうとう天井近くまで到達すると、両手でぶら下がるように布を持ち、素早く両足に布を巻きつけた。その布を支えにして両脚を一直線に開き、両手を横に広げた。

 羽を広げて空を飛んでいるかのようなその様は、さながら御伽話に出てくる妖精のようで、美しさに思わずため息が漏れた。


 ――すげぇ……。


 一人だけレベルが違う。技の完成度も、空中で静止した時の安定感も、他と比べて段違いだ。素人の俺でも分かるくらい、洗練された動きだった。

 広げた手はもちろんのこと、足の先まで神経を使っているのが分かる。それだけ美しかった。
 人間技とは思えない角度に脚を曲げているのに、少しも辛そうに見せない。それどころか、見ている自分にも簡単にできるんじゃないかと錯覚してしまうほど自然な動きで、普段からどれだけの時間をかけてケアしてこれを創り上げていったのか、嫌でも分かった。


 ポーズを決めるたびに拍手と歓声が湧き起こる。器用に登ったり降りたり、時には回転しながら降りたりを繰り返し、曲に合わせた緩急のある演技が続いてゆく。
 高い場所での演技はできないと言っていたのに、毎回首を折って見上げなきゃならないくらい高いところまで上がっていく。一歩間違えば落ちるかもしれない。マットを敷いているとはいえ、怖くないわけがない。それなのに、彼女は笑顔を絶やさなかった。


 友達として、クラスメイトとして、チームメイトとしての彼女ではなく、一人のアスリートとして尊敬できる彼女がそこには居た。

 全身から、彼女の想いが伝わってくる。『頑張れ、諦めるな』そう言われている気がした。

 オレに見てほしいと言っていた理由は、多分これだ。


 ――やべぇ……なんか泣きそう。


 さすがにこの公衆の面前で泣きはしないが、それでも胸に込み上げてくるものがあった。鼻の奥がツンと痛む。


『サッカーのことはよく分からなかったけど、見てて勇気をもらえた気がしたの』


 きっと、こんな気持ちだったんだと思った。エアリアルのことはよく分からないけど、勇気づけられるって、きっとこんな感じなんだろう。胸の奥がざわざわするような、チリチリと熱くなるような。自分も何かしたいと居ても立っても居られなくなるような、不思議な感覚だった。


 その後、音楽の盛り上がりと共に終演を迎えるまで、俺は一瞬たりとも彼女から目を離さなかった。
 最後の瞬間まで、一つ残らず目に焼き付けるために。



***



 発表会が終わり、バラバラと観客が席を立つ。
 せめて挨拶くらいはしてから帰りたいが、忙しいだろうし、どうしたものか。

 どちらにせよ、会場の片付けもあるだろうし、とりあえず席を立つか。そう思い立ち上がると、彼女の声が聞こえた。

「千切君待って!」

 見ると、慌てた様子で駆け寄ってくる彼女の姿があった。メイクをしたままの衣装姿で走ってくるのが、なんだか不思議な感じだった。

「おお、お疲れ」
「あのっ、この後、用事とかある? 片付け……えっと、すぐ終わるから! だから――」
「いや、大丈夫。待ってる。つーか、元から待ってるつもりだったし……」

 そう言うと、彼女はポカンとした顔で大きな瞳を瞬かせてから、納得したように「そっか」と小さく呟いた。長い睫毛がバサバサと揺れ、目元がキラキラと輝いている。見ると目尻にキラキラした星の形のシールがたくさん貼ってあった。

 小さく笑うと、彼女は不思議そうな顔をしながら首を傾げた。

「なに?」
「目、近くで見ると結構キラキラしてんのな」
「え? あ、やだ! メイクしたままだった! す、すぐ落としてくるから! じゃあちょっと待っててね!」

 ひゃあ〜、となんとも言えない叫び声を上げながら、再びバタバタと駆けていく背中を見送る。さっき見たステージ上の彼女とはまるで別人で、ギャップに小さく笑った。


 彼女を待ちながら、ふと思う。先日もらった強化合宿のことを話したら、彼女は何て言うだろう。もう一度上を目指すためではなく、サッカーを諦めるために行くと言ったら、今度こそ幻滅されるだろうか。ガッカリするだろうか。……でも、それでもいい気がした。それでもいいから聞いてほしい。

 ……彼女に話したい事が、たくさんあった。


***


「千切君! お待たせ!」

 華やかなメイクも全て落とし、すっかりいつもの顔になった彼女が駆けてくる。

「お疲れ」
「観に来てくれてありがとう」

 嬉しそうに笑いながら、彼女が言った。

「その……凄かった。……悪い、こういうの初めてだからなんて言ったらいいか――」
「いいの。何も言わないで。……顔見たら分かる」

 照れたように笑いながら、彼女はくすぐったそうに肩をすくめた。

「半年かけて完成させたの。ストレッチは毎日してたんだけど、筋力が落ちちゃったから、なかなか思うように技が決まらなくて……。でもね、筋トレも練習もキツかったけど、少しも苦じゃなかったよ。千切君に、最高の演技を見てほしくて。……あ、でも、あそこは片手で持った方が綺麗に見せれたのにな、とか、もっとああしたかった、こうしたかったっていうのは色々あるんだけどね。だから、おおむね満足だけど、悔しさ半分って感じ」

 やや早口で捲し立てながら、照れたように笑った。口ではそう言いながらも、彼女の顔は憑き物が落ちたようにスッキリしていた。やりきった充実感とか、そういったものなのかもしれない。

「あの日、私は千切君から勇気をもらった。私を真っ暗なところから救ってくれた。あの日の千切君みたいにはできなくても、ほんの少しの、蜘蛛の糸みたいなものでもいい。ほんの少しでも千切君を勇気づけられたらって思っ……」

 そこまで言うと、彼女はハッとしたように息を呑んだ。

「……ごめん。なんか偉そうだね、私。……でもね。これだけは分かるよ」

 そう言って、彼女は俺の手を取った。

「……走れるよ、絶対。千切君の足は、まだ死んでない。千切君自身が信じられなかったとしても、私は信じてる。ずっと信じてる。だから大丈夫。千切君は大丈夫。……絶対に、大丈夫」

 まるで彼女自身に言い聞かせるように、手を握りながら、そう何度も「大丈夫」を繰り返した。


 彼女にそう言われると、不思議とそんな気がしてくる。

 彼女の手をそっと離して、バッグの中から先日届いた合宿の案内を取り出すと彼女へと差し出した。

「見ていいの?」
「ああ」

 手に取るなり大きな目が文字を追うようにキョロキョロと動く。溢れんばかりに更に大きく見開くと、ハッとした表情で顔を上げた。

「これって……!?」
「……行ってみようと思う」

 彼女は泣き笑いのような顔をしながら、うんうんと頷いた。

「できるよ。千切君なら、絶対」

 心の底から嬉しそうな様子に、胸がチクリと痛む。

「……悪い。お前が期待してるような、そんなんじゃないんだ。俺は……サッカーを諦めるために参加しようと思ってる。今のままじゃ、俺はどこにも行けないから。ただ……今日のお前見て、諦めるならやり切ってからにしようと思った。だから……やれるだけやってくるよ。ちゃんと、諦めるために」

 彼女は、少し考えるようにしてから、ふわりと笑った。

「そっか」
「ガッカリしたか?」
「ううん。するわけない。千切君の決めたことだもん。でも……」
「……でも?」

 彼女はクスリと笑ってから、小さく首を振った。

「ううん。なんでもない」
「なんだよ、言えよ」
「いいの。私は信じてるよってこと。……千切君のこと、信じてる」

 そう言って、彼女はいつものあの顔で笑った。
 その笑顔に、心臓が鷲掴みにされたようにギュッと痛む。

 いつからだろう。彼女を見て、胸の奥が締め付けられるようになったのは。隣で一緒に猫を眺めながら、ずっと自分の隣に居てほしいと思うようになったのは。

 彼女のことは『猫仲間』だと、ずっと自分に言い聞かせてきたが、それ以上の存在になっていることに、本当はとっくに気づいてた。


 黙ったまま彼女を見つめていると、彼女は微笑んだまま小さく首を傾げた。

「……あのさ、――」

 言いかけてやめた。
 こんな中途半端で何を言うつもりだ?

「……やっぱなんでもねーわ」

 彼女は少し不思議そうに俺を見つめてから、そっと視線を落として俺の手を両手で包み込むように握った。そして、全てを見透かすような瞳で再び俺をまっすぐに見つめた。

「待ってるから。千切君が帰ってくるの、ここでちゃんと待ってる。……もう『待つな』なんて言わないよね?」

 そう言って、ジト目で見てから悪戯っ子のような顔で笑った。やっぱり根に持つタイプらしいことを再確認しながら、心の中で笑った。

「言わねぇよ。……ちゃんと帰ってくる。どんな結果になっても。それまで待っててくれるか?」
「もちろん。……応援してる。誰よりも、私が一番、千切君のこと」

 彼女の手にグッと力が入る。

 力強い右手とそれを支えるように添えられた左手のアンバランスさが、少し淋しくて、愛おしかった。
 抱きしめたい気持ちをグッと堪えて、代わりに彼女の手をそっと握り返す。

 再び目が合うと、彼女は花のように笑った。
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