(4話)
気がつくと、あの空き家の前まで来ていた。
「ニャー」
見ると、屋根の上にあの黒猫が居て、こちらを見ていた。
何かあったのかと尋ねるようにひと鳴きすると、猫は軽やかに跳んで俺の前までやってきた。
「……よう。元気だったか?」
問いかけるが猫は答えない。だが、逃げたりはしなかった。ゆっくり近づいてしゃがむと、猫は珍しく嫌がりもせずに撫でさせてくれた。
「悪いな、ずっと来れなくて。……俺、怪我してさ。ずっと部活休んでたんだ」
柔らかい毛を撫でながら、一方的に語りかける。猫は聞いているのかいないのか分からないような様子で、でも逃げずに大人しく撫でられながら、やがて背中を丸くして地面に寝転んだ。
「足はもう治ったんだけど、なんか上手く走れなくてさ。部活もずっと行ってないんだ。……俺が来ない間も、アイツはお前に会いに来てたか?」
言いながら、彼女のことを思い出していた。
さっき見た彼女の顔が頭から離れない。傷ついた顔。俺がそうさせた。八つ当たりして一方的に傷つけた。
「最低だよな……。アイツは何も悪くないって分かってんのに」
足がぶっ壊れてから、周りにいた人間が掌を返すように離れていった。そんな中、アイツだけが変わらなかった。いつだって、変わらないままでいてくれたのに。
「……怪我が治るまでずっと待っててくれたのに、結局走れるとこ見せらんなかったな……」
走りたい。もう一度以前のように。そう思う気持ちに嘘は無いはずなのに、なぜ思うように身体が動かないんだろう。
「……怪我が治ってからしばらく経つけど、まだ一回も全力で走れてないんだ。……医者からは、もう一回同じトコやったら、選手生命は終わりだって言われてる。もう走れなくなるかもしれないって。……んなこと言われて、どうすりゃいいんだよな……」
――俺にはサッカーしかないのに。
「……怖いんだ。走れなくなるなんて、考えたこともなかったから。俺が俺じゃなくなるみたいで、怖いんだよ……」
自然と声が震える。瞬きと共に、地面に水滴が二つ落ちた。初めて吐き出した本音に、ようやく蓋をしていた気持ちに気付いた。ずっと見ないようにしてきた自分の弱さに。
そうか。俺はずっと怖かったんだ。サッカーができなくなることが。もう一回怪我したらサッカーを取り上げられてしまう。それがたまらなく怖かった。
不意に、撫でていた黒猫が身じろぐのを指先で感じた。スッ……、と立ち上がり、一点を見つめている。猫の視線の先を追うように見やると、ミョウジが気まずそうな顔をして立っていた。バチッと音がするように目と目が合って、ミョウジは弾かれたようにくるりと後ろを向いた。
「なっ……んで居んだよ……っ!」
――クソッ! ぜってぇ泣いてるとこ見られた。
背を向けてガシガシと目元を拭ってから、そっと後ろを窺う。見ないようにしているのか、彼女も背を向けていたが、なんとなくソワソワしている気配がする。見えない分、気配で察しようとしているのかもしれない。
「……突っ立ってないでこっち来いよ」
声をかけると、ようやくこちらを向いた。居心地が悪そうに目を逸らしてから、彼女はそろりと近づいてきて俺の側まで来た。
猫はのそりと起き上がると、縁側へと飛び乗った。
「えっと……座る……?」
「……ああ」
猫を挟んで座りながら、なんとなく気まずい沈黙に包まれた。
「……部活はどうしたんだよ」
「サボっちゃった。ここに居るような気がして。……なんとなく、あのまま間が空いたら話せなくなっちゃう気がしたから」
さっきのやり取りを指しているんだろう。あんな言い方をしたのに、まだ俺と関わろうとしていることに驚いた。
「ごめんね。千切君の気持ちも考えないで、勝手なことばっかり言ったね」
「なんでお前が謝んだよ。……お前は悪くないだろ」
「千切君だって悪くないよ。……ごめんね、私の配慮が足りなかった。千切君が一番辛いって分かってたはずなのに」
そう言って、彼女はそっと目を伏せた。
「お前に俺の何が分かんだよ……」
「……千切君の気持ちの100パーセントは分からないけど、自分の夢が、指の間から溢れていってしまうような……不安で心許ない気持ちは少しだけ分かるつもりだよ」
珍しく自分のことを話し始めた彼女に視線を向けるが、彼女はそれだけ言って黙り込んでしまった。
……待ってみるが、一向に続きが来ない。
「いや、話さねーのかよ」
「……こういう自分語りみたいなの嫌かなって思って……なんか恥ずかしくなっちゃった……」
「ハハッ、なんだそれ。完全に話す流れだったろ」
自分から言い出したくせに変なところで遠慮するなんて意味が分からなくて、思わず笑ってしまった。すると彼女も小さく笑ってから、一つ咳払いをした。
じゃあ失礼します、と前置きして、彼女はポツリポツリと話し始めた。
「私ね、小さい頃から体操をやってたの。……エアリアル、って分かる?」
耳慣れない単語に思わず首を傾げる。
「えっと……天井から布がさがってて、それを登ったりぶら下がったりしてパフォーマンスするやつなんだけど……。あ、サーカスの映像とかで見たことない? えっと……こういうやつ」
そう言って、携帯の画面を差し出した。天井から垂れ下がった布のようなものを足に巻き付けながら新体操のようなポーズを取っている。
たしかに、こんなようなものをテレビCMとかで見たことがあるかもしれない。
「ああ、なんとなく」
「……私ね、サーカスに入って、世界一のエアリアルパフォーマーになるのが夢だったんだ。小さい頃に連れて行ってもらったサーカスで初めて見て、すごく感動して」
懐かしむような顔でそう言うと、彼女は俺に向かって右手を差し出した。
「手、握ってもいい?」
よく分からないまま差し出された右手を握ると、彼女は握った手にグッと力を込めた。
「……いっ――!?」
ギリギリという効果音が聞こえそうなほど強く握られ、あまりの力強さに思わず声が出た。女子と手を握る機会はあまり無いが、少なくとも数年前に姉と腕相撲をした時はこんなんじゃなかったはずだ。
「力、強いでしょ。腕とか肩も結構ガッシリしてるんだよ。……じゃあ今度は反対ね」
そう言って左手を握って、しばらくして違和感から顔を上げた。先ほど右手を握られた時と違って、左手にはほとんど力が入っていなかったからだ。どれだけ待っても、一向にそれは変わらなかった。
彼女は静かに笑って左手を離すと、袖を捲り、肘の辺りを指差した。
「ココ、分かる?」
言われてよく見ると、小さな傷跡のようなものが見える。
「中2の時に怪我したんだ。骨を折った時に、変な折れ方しちゃって。そのせいで左は上手く力が入らなくて、右と比べると握力もすごく弱いの。不思議だよね、折れたのは腕なのにさ。……神経がどうのこうのって言われたけど、よく分からなくて」
乾いたような笑みを浮かべながら、彼女は続けた。
「左腕に力が入らないから、サーカスでやるような高い位置での激しい演技はもうできないの。技の完成度もそうだけど、上手く掴めなくて落ちたりしたら命に関わるから」
そう言いながら、彼女はそっと視線を落とした。
「……当時は本当に辛くて。ずっと目指して歩いてきた道が急に無くなって、目の前が真っ暗になった。毎日家に引きこもって、外にも出れなくて、もう自分には何の価値もないんだって思ってた」
遠くを見ながら、彼女は小さく息を吐き出した。今の自分と全く同じ状況に、思わず息を呑む。
「そんな時にね、いとこが試合に出るから観に来ないかって誘われたの。最初は行きたくなかったんだけど、半ば強引に親に連れ出されて、市の競技場に連れて行かれた。……そこでは、サッカーの試合がやってた」
サッカー、という単語に、思わず彼女を見つめると、彼女は小さく笑ってから空を仰いだ。
「抜けるような真っ青な空の下で、緑の芝生を一直線に駆け上がっていく赤い光が見えた。そこだけスポットライトが当たってるみたいに眩しくて、輝いてて、まるで希望の光みたいだった。『しっかりしろ』って言われてるみたいな、不思議な感じ。サッカーのことはよく分からなかったけど、見てて勇気をもらえた気がしたの。今でも瞼の裏に焼き付いてる」
そう言って、彼女はゆっくりとこちらを見た。彼女の瞳にうっすらと涙が浮かんでいる。
「……千切君なの。私を真っ暗な中から救ってくれたのは。……千切君が居たから、今私はここに居るんだよ」
知らなかったでしょ。そう笑いながら、彼女は顔を逸らしそっと指先で目元を拭った。
「サッカー部に入ったのはね、同じサッカー部なら、いつか試合でまた千切君の姿が見れるかなって思ったからなんだ。もう一回、あの景色が見たくて。……まさか同じ高校だなんて知らなかったけど」
ふふふ、と笑いながら、彼女は悪戯っ子のように肩をすくめた。
「呆れた? 『ミーハーな女子』っぽい理由で」
黙って首を振ると、彼女は「よかった」と言って笑った。
コイツも同じだった。俺と同じように自分の才能を信じて、夢を追いかけて、世界一を目指してた。
夢破れた今、あの笑顔の裏にどれだけの苦悩と葛藤があったんだろうと思ったら、胸が締め付けられる思いだった。
「……悪い。俺、酷いこと言った」
「いいよ。気にしてないよ。……って言っても、千切君は気にするだろうから……コレ、受け取ってくれる?」
そう言って、彼女はバッグから一枚の紙切れを取り出した。
「実は、さっき学校でこれを渡したかったんだ」
差し出された紙を受け取って目を通すと、イベントのお知らせのようだった。
「来週の日曜、少しだけ時間をくれないかな。体操の発表会があるの。……私も出るから、観に来てほしいんだ」
「出るって……?」
だってお前はもう……。そう言いかけて、言葉を呑み込んだ。あまりに残酷な言葉のような気がしたから。
言わずとも伝わったのか、彼女は小さく頷いた。
「……うん。とっくに諦めたつもりだった。でも、リハビリを頑張ってる千切君を見て、私ももう一回頑張りたいなって思ったんだ。もちろん無理はしない範囲だし、派手なパフォーマンスはできない。ひょっとしたら上手くできなくて失敗しちゃうかもしれない。でも、今の私にできる限りの演技を見せるから。……私の最期の演技を、千切君に見てほしいの」
『最期』という言葉に、胸がズキっと痛んだ。
コイツはちゃんと向き合って、決めたんだと思た。自分で終わりを決めるのはさぞかし勇気のいることだっただろう。今の自分にできないことだからこそ、余計にそう思う。
「千切君のためだけに演技するから。……私の全部を、千切君に見てほしい」
真っ直ぐに俺を見つめてそう言った彼女は、今まで見たことがないくらい力強い目をしていた。あまりにカッコよくて、眩しくて、目が眩みそうだった。
「すげぇ殺し文句。そんなん言われたら行かないわけにいかねーっつーの。……行くよ、ちゃんと」
最期だと言うなら、ちゃんと見届けてやらなきゃいけない。なぜだか分からないけど、強くそう思った。
***
「……ただいま」
「おかえり、豹馬」
家に帰ると母親が待ち構えていた。
「何、母さん。なんかあった?」
珍しくソワソワと落ち着かない様子の母に違和感を覚えながら問いかけると、母はおずおずと一通の封筒を差し出した。
『強化指定選手』『JFU』『育成プロジェクト』
目に入った単語を脳が断片的に拾ってゆく。
要はサッカーの強化合宿の選抜に選ばれたという通知だった。
以前の俺なら、二つ返事で参加しただろう。だが、今の俺にそんな資格があるのか、部活の時みたいに何もできずに終わるんじゃないのか。そんなことばかりが頭に浮かんでしまい「行く」と即答できなかった。
そもそも怪我をしてからまともに試合に出ていないのに、なぜ自分が選ばれたのかも分からない。
「……豹馬、無理に行かなくてもいいのよ?」
黙り込んだ俺の様子を窺うように、母は俺に声をかけた。怪我をして以来、ずっと俺のことを気にかけてくれている。
「……いや、行くよ」
行ってどうするんだという気持ちもあるが、このまま逃げていても何も変わらないことくらい、いい加減分かっていた。
ひょっとしたら、いい機会かもしれない。強化選抜なら、自分よりも強い奴がゴロゴロ居るはずだ。ソイツらを実際に目の当たりにしたら、自分の置かれている現実とも向き合えるかもしれない。
……もう自分はそちら側の人間じゃないんだと。
そうしたら、今度こそサッカーを諦めることができるかもしれない。
『今の私にできる限りの演技を見せるから』
そう言って、彼女は笑った。カッコよかった。
思えば、怪我をしてから一度も『できる限りの』ことなんてしてこなかった。俺がしたのは、ただ逃げたことだけだ。
俺ももう一度ちゃんとサッカーと向き合おう。
もう一度夢を見るためじゃなく、夢を諦めるために。
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